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第16話 炎将ガルム、来訪(後編)

召喚された高校生・天野碧が女神から授かった祝福は、八つ。過去最大の記録だった。


だが碧が最初にしたのは、飢えた四千人に鍋を出すことだった。

水を通し、土を戻し、魔王すら部下にして、碧は世界を縛る楔を一本ずつ抜いていく。

抜くたびに、碧は何かを失う。痛みを、恐怖を、味を、眠りを、怒りを。


失った分を預かると言ったのは、そばにいることを選んだ者たちだった。

最強の料理人と、彼を欠けさせない少女たちの物語。


 炎将が、腕を振り上げた。

 詠唱はなかった。ただ、その腕の先で空気が発火した。

 碧の視界が、赤一色になった。

 炎というより、壁だった。境目がない。赤と橙と白が層をなして押し寄せてきて、その向こう側にあったはずの丘も空も、一瞬で見えなくなる。

 音が遅れて届いた。空気が焼ける音は、爆発音より低く、腹の底を叩くような響き方をした。

 幅百メートル、高さ三十メートルの炎の壁が、一瞬で生成されて押し寄せてくる。三十年前に東の国境を焼いたのは、これの数十倍の規模だったのだろう。

 背後で、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。

 碧は、右手を上げた。

 考えて上げたわけではない。手を伸ばせば止まると、身体のほうが先に知っていた。この十日で何度も繰り返してきた動作だった。

 炎が、止まった。

 碧の手前一メートルのところで、炎の壁は見えない面に押し当てられたように停止していた。熱は届かない。風も来ない。ただ、赤い壁が目の前でうねっている。

 炎の向こうで、ガルムが短く笑った。

「止めたか」

 声が、壁越しに届いた。

「いまのは、手慣らしだ。八百年、詠唱なしで撃つ炎で困ったことはねえ」

 炎将は、振り上げていた腕を下ろした。

 下ろして、両の掌を胸の前で向かい合わせた。

「本気で撃つときだけ、古い言葉を使う。何十年ぶりか忘れた」

 男の唇が動いた。

 ――Ignis, devora.

 炎よ、喰らえ。

 二語だった。

 碧の前で止まっていた赤い壁が、一瞬で色を変えた。赤が橙に、橙が白に。白く灼けた炎が、壁の内側から膨れ上がって倍の高さに伸びた。見えない面に押し当てられたまま、それでも前へ進もうとして軋んでいる。

 音が変わった。腹の底を叩く低い響きが、耳の奥を刺す高い唸りになった。

 碧は、自分の張った面が押されているのを感じた。この世界に来てから、碧の張った面が押されたのは初めてだった。

 壁の向こうで、ガルムの肩が大きく上下していた。

 息が荒い。額から汗が流れて、褐色の頬を伝っている。二語の詠唱で、この男は八百年ぶんの炎の技術を全部注ぎ込んでいた。

 碧は、少し考えた。

 消すことはできる。北の砦でやったのと同じ手順で、この炎を構成している関係をほどけば終わる。白く灼けたぶん、ほどく手間は少しだけ増えるが、それだけだった。

 だが、それをやると、この人は納得しないだろうと思った。

 だから、別のことをした。

 碧は炎の壁に手を伸ばし、それを掴んだ。

 掴んだ、としか言いようのない動作だった。炎は形を保ったまま碧の手の中に集まり、圧縮され、やがて掌に収まる大きさの球になった。

 碧はそれを、しばらく眺めた。

「……熱いですね」

「熱いのか」

「熱いです。でも、火傷はしないみたいです」

 碧は球を軽く放り上げ、受け止めた。

 手のひらの上で、それは生きているように脈打っていた。八百年ぶんの炎の技術と、二語の古い言葉が、この小さな球の中で圧縮されて回っている。もったいないという感想は、そこから来ていた。

 それから、地面に向けてそっと置いた。

 炎の球は、地面に触れた瞬間に形を変えた。丸く広がり、低く安定し、ぱちぱちと音を立て始める。

 焚き火になった。

 ガルムが、呆然と立ち尽くしていた。

「……てめえ」

「すみません。消すのはもったいない気がして」

「もったいない」

「いい火だったので」

 沈黙が落ちた。

 炎将は自分の両手を見下ろし、それから焚き火を見て、最後に碧を見た。

 その視線の往復を、三度繰り返した。何度確かめても答えが変わらないのだと、その目が言っていた。

 男の肩から、ゆっくりと力が抜けていった。八百年張り続けてきたものが、平原の真ん中で下ろされていくのが、碧の目にもはっきりと見えた。

「……八百年だ」

 ガルムの声が、掠れていた。

「俺の炎を消した奴は何人かいた。防いだ奴もいた。だがな」

 男は、膝をついた。

 地面が、その重さで沈んだ。

「暖を取った奴は、てめえが初めてだ」

 碧には、その言葉の重さがすぐには測れなかった。

 八百年、この男の炎は人を焼くためだけに使われてきたのだろう。国境を焼き、軍を焼き、そのたびに怖れられ、憎まれ、伝説になっていった。

 その炎で最初に暖を取ったのが、昨日まで異世界の高校生だった男だというのは、たぶんこの男にとって笑い話にもならない。

 碧は焚き火の横にしゃがみ、手をかざした。

「本当に、いい火ですよ」


 ガルムは、そのまま頭を垂れた。

 赤い髪が地面に触れた。八百年生きた魔族が、十八歳の人間の前で額を下げている。草の上に落ちた自分の影を、炎将はしばらく見つめていた。

 二メートルを超える巨躯が、平原の真ん中で膝をついている。その光景を、五百メートル後方から五人が見ていた。

「勇者アオイ。魔王軍四天王、炎将ガルムだ」

 炎将は名乗った。

「我が主、ヴァルガルド・ノクス陛下の使いとして参った」

「戦いに来たんじゃないんですか」

「違う」

 ガルムは顔を上げた。

「陛下は、こう仰せになった。あれが我らを終わらせてくれる者かどうかを確かめに行け、と」

 その言葉を口にするとき、ガルムの声には奇妙な緊張があった。命令を復唱しているというより、自分でもまだ意味を掴みかねている言葉を、そのまま預かって運んできたという響きだった。

「終わらせる」

「そうだ」

 碧は、その言葉の意味を測りかねた。

 滅ぼしてほしいという意味なら、この男がここまで敬意を払う理由がない。救ってほしいという意味なら、魔王の口から出る言葉として据わりが悪い。

 終わらせる、という言い方には、その両方に収まらない何かがあった。

「意味がわかりません」

「俺にもわからん」

 ガルムは頭を掻き、それから、あっさりと言った。

「だが、八百年仕えてきた主が、生涯で一度だけ武器を抜くなと命じた。それだけで充分だ」

 炎将は立ち上がり、北の空を見た。

「勇者。頼みがある」

 碧は頷いた。

 ガルムは北を向いたまま、しばらく言葉を選んでいた。八百年生きた男が言いよどむところを、碧は初めて見た。

「魔王城へ来てくれ。陛下が待っている」

 碧は、しばらく黙っていた。

 黙っていたのは迷っていたからではなく、返事をする前に周囲の顔を確認しておきたかったからだ。この判断は、自分だけのものではなくなっている。

 背後で、リュシェたちが駆け寄ってくる足音が聞こえる。

 先頭はミュウだった。獣人の脚力は、こういうときに容赦がない。碧が振り向く前に、少女は碧の背中に飛びついてきて、それから慌てて離れた。

「……すみません」

「いや、いい」

 その後ろからリュシェが追いつき、肩で息をしながら碧を上から下まで検分した。無傷を確認すると、王女は何も言わずに目を逸らした。

 いちばん最後に到着したミリアが、すでに帳面を開いていた。

 この話を持ち帰れば、王都は大騒ぎになるだろう。罠だという者が出る。行かせまいとする者が出る。五日前に自分を測ろうとした人間たちは、今度は別の理由で碧を止めにかかる。

 それでも、答えは決まっていた。

「行きます」

「即答か」

「はい」

「理由を聞いていいか」

 碧は、焚き火を見た。

 まだ燃えている。ガルムが放った炎の残りが、平原の真ん中でおとなしく揺れていた。

「その人、たぶん困ってるので」

 自分で言ってから、碧は少し可笑しくなった。

 魔王が困っている。だから会いに行く。この十日間で碧が下してきた判断は、だいたいこの水準の理屈で動いていた。水がないから通す。病気だから治す。腹が減っているから作る。

 たぶん、そういう順番でしか物を考えられない人間なのだ。

 ガルムが、目を見開いた。

 そして、笑った。八百年ぶんの疲労を全部吐き出すような、大きな笑い方だった。

「……そうだ。困ってる」

 炎将は涙を拭い、それから背後を振り返った。

「だが勇者、先に言っておくことがある」

「なんですか」

「俺だけじゃない」

 ガルムが指を鳴らした。

 乾いた音が、平原に思いのほか大きく響いた。

 北の丘の稜線に、三つの影が立ち上がった。

 碧は、その気配を感じ取った。どれもガルムと同格か、それ以上。

「氷将フリジア。雷将バルド。闇将ネフィリア」

 名を呼ばれても、三つの影は動かなかった。丘の稜線に等間隔で立ったまま、こちらを観察している。

 ガルムは言った。

「四天王、全員来ている」

 背後で、ダインが剣の柄に手をかけた音がした。

 その手を、碧は目だけで制した。

 三つの影は、丘の上から動かない。ただ、こちらを見ている。

 いちばん左の影は小柄で、周囲の草に霜が降りていた。中央の影の周りでは、空気がかすかに帯電して光の筋を散らしている。

 そして、いちばん右の影が、風に長い髪をなびかせていた。

 その一人だけが、他の二人より半歩前に出ていた。

「あいつらも、確かめに来た」

 ガルムが、苦い顔で言った。

「俺が止めたんだがな。特に闇将が、聞かん」

 碧は丘の上を見上げた。

 三つの影は、動かないまま並んでいる。距離があるのに、視線だけははっきりと届いていた。

 その隣で、エルフィリアが小さく息を吐いた。

「アオイ。ひとつだけ、言っておきます」

「はい」

「あの三人のうち、二人は女です」

「……それ、いま必要な情報ですか」

「必要です」

 女神はきっぱりと言い切り、それから碧の袖を掴んだ。

 反対側の袖を、ミュウが掴んだ。

 少し離れたところでリュシェが腕を組み、ミリアが帳面に何かを書き込み、ダインが天を仰いだ。

 丘の上の三つの影は、その一部始終を見下ろしていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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