第15話 腐敗の根(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
最初に動いたのは、リュシェだった。
王女は足元の一枚を拾い、目を落とした。喉が鳴った。
「……アオイ殿。これは」
「燃やされた書類です。この城の中で、この二年に燃えた分だけ」
「全部でございますか」
「たぶん、半分くらいです。外に飛んだ煙は戻せませんでした」
リュシェは二枚目を拾い、三枚目を拾った。
そして、四枚目で手が止まった。
王女は、それを父に差し出した。
グレイル三世が、受け取った。
読んだ。
読み終わるまでに、たっぷり一分かかった。
やがて、王は顔を上げた。
「ザルドス」
「陛下」
「灰区の配給費、二年分。総額で金貨九千二百枚」
王の声は、低かった。
「その受取先に、カルヴァレス商会の名がある。そして裏書に、お前の署名がある」
部屋の空気が、変わった。
近衛の隊長が、扉の前に移動した。ダインが窓際から一歩離れた。
ザルドスは、動かなかった。
男は床に散った書類を見下ろし、それから碧を見た。
その顔には、もう笑みがなかった。
「……焼いたものが戻るとは」
「すみません。書類だったので」
「見事でございます」
宰相は、ゆっくりと息を吐いた。
「わたくしの負けでございます。……ただし、アオイ殿。ひとつだけ申し上げてよろしいか」
「どうぞ」
「灰区の四千名は、なぜ生きておりましたか」
碧は、眉を寄せた。
「配給費を横領されていたんですよね」
「左様。二年、一枚も落としておりませぬ」
ザルドスは、まっすぐに碧を見た。
「では、なぜ四千名は餓死しておらぬのでしょう」
碧の中で、何かが引っかかった。
一昨日、灰区で治療したとき。四千人のうち、餓死寸前の者は一人もいなかった。栄養失調は多かったが、二年間なんの配給もなければ、あの人数は半分以下になっているはずだ。
「……誰かが、配ってた」
「三日に一度、薄い粥を」
宰相は言った。
「わたくしでございます」
部屋が、凍りついた。
「横領した金の一部を、わたくしは別の経路で灰区へ回しておりました。正規の配給を通せば、財務府の監査で灰区の実数が露見いたします。露見すれば、王国は四千名を正式に処分せねばならなくなる」
「処分」
「灰区は、本来二年前に閉鎖される予定でございました」
ザルドスの声が、初めてわずかに掠れた。
「閉鎖とは、中の者を残したまま門を塞ぐということでございます。それが法でございました」
碧は、言葉を失った。
頭の中で、昨日の奴隷市が再生された。台の上に並んだ十人。銀貨三百で競り落とされかけたミュウ。首輪を外したときの、土間に落ちた金属の音。
あの一つ一つが、灰区の四千人を生かすための費用だった。
「わたくしは、その法を執行しないために帳簿を消しました。灰区の実数が記録に残っていなければ、閉鎖の対象そのものが存在しないことになります」
ザルドスの説明は、どこまでも事務的だった。
「消した帳簿の穴を埋めるために金を動かし、動かした金の出所を隠すために公国を使いました。公国は我が国の監査が及びませぬので」
「なんで、陛下に言わなかったんですか」
「申し上げれば、陛下はお止めになります」
男は、初めて王のほうを見た。
「そして正規の手続きで灰区を救おうとなさる。手続きを踏めば実数が明らかになり、明らかになれば法が動きます。陛下のご誠実さが、そのまま四千名の死になります」
グレイル三世は、何も言い返さなかった。
男は、静かに続けた。
「そして、隠しきるための費用を、奴隷市から出しておりました」
誰も、何も言えなかった。
碧は、ようやく理解した。
この九日間、碧はこの男を分かりやすい悪だと思っていた。私腹を肥やし、子どもを売り、勇者を測る。そういう筋書きで納得しようとしていた。
違った。この男は悪人ではなかった。もっと悪いものだった。
四千人を生かすために、子どもを売っていた。そして、その計算をするときに手が震えなかった人間だった。
「アオイ殿」
ザルドスが、碧を見た。
「わたくしは、貴方様が羨ましゅうございます」
「……」
「貴方様は、どちらも選ばずに済む。四千名を生かすことも、子どもを売らぬことも、両方できてしまわれる」
男は深く、深く頭を下げた。
「わたくしには、できませんでした」
碧は、その頭を見下ろしていた。
怒りは湧かなかった。かわりに、ひどく嫌な感覚が胸の内側に残った。この男を責める言葉を、自分がひとつも持っていない。持っていないのは、自分が両方できてしまうからだ。
両方できる人間には、選ぶ苦しさがわからない。この男はたぶん、それを言いに来た。
ザルドスはその場で拘束された。
抵抗はしなかった。近衛が両側についても、男の背筋は伸びたままだった。二十年以上この城で書類を扱ってきた人間の歩き方で、そのまま扉へ向かっていく。
扉の手前で、碧が声をかけた。
「ザルドスさん」
宰相が足を止めた。
「今夜、灰区に鍋を出します」
「……左様でございますか」
「あなたの分も作ります」
男は、数秒動かなかった。
何か言い返すつもりで口を開きかけ、それから閉じた。言い返す言葉を探して見つからなかった顔だった。
碧はその夜、灰区で四千人分を配ったあと、椀をひとつだけ別に取り分けた。ミリアが運び役を買って出て、近衛に付き添われて城の牢まで届けた。
戻ってきたミリアは、帳面を開こうとした。
「書かなくていい」
「……ですが、記録は」
「これは、記録するものじゃない」
少女はしばらく碧を見て、それから帳面を閉じた。
椀がどうなったのかを、碧は最後まで訊かなかった。
連れ出されるとき、宰相は一度だけ振り返り、碧に向かって言った。
「灰区の門は、お壊しになるとよろしい」
それが、この男の口から出た最後の言葉だった。
碧は返事をしなかった。返す言葉がなかったからではない。返してしまえば、この男に何かを与えることになる気がしたからだ。
扉が閉まった。
執務室には、書類の海が残った。
王は長いこと動かなかった。やがて、机に両手をついて立ち上がった。
「……余は、何も知らなんだ」
「陛下」
「知らなんだ、というのは言い訳にならぬ」
グレイル三世は、床の書類を見下ろした。
「余が署名を読まなかったせいで、子どもが売られた。四千人が門の中に閉じ込められた。全部、余の机の上を通っておる」
王は顔を上げた。
その目は、一週間前に大広場で笑っていた男のものではなかった。冠を渡しながら「返してもらうために渡す」と言った、あの余裕はどこにもない。
碧はそれを見て、この人はやはり誠実なのだと思った。誠実な人間ほど、自分の署名の重さを後から知る。
「アオイ殿。頼みがある」
碧は小さく頷いた。
「灰区の門を、壊してくれ」
「わかりました」
「それと、もう一つ」
王は、机の上の一枚を取った。
「王国法第一条を改める。国民の定義に、人間以外を含める。今夜のうちに草案を作る」
リュシェが、勢いよく顔を上げた。
「父上」
「四年前、お前が書いた三枚があったな」
「……ございます」
「持ってまいれ。あれを土台にする」
王女は、一瞬だけ言葉を失った。
父がその三枚を覚えていたという事実のほうが、彼女には効いたのだろう。止められた書類は読まれていなかったと、この四年ずっと思っていたはずだ。
それから深く頭を下げ、部屋を飛び出していった。走る音が、廊下の向こうまで響いた。
碧は、その背中を見送った。
四年だ。四年間、机の上で止められていた三枚が、今夜動く。
もうひとつ、後日になって分かったことがある。
復元された書類の山から、灰区に関わる分だけを抜き出して数えたのはミリアだった。夜間に門が開いた日付、運び出された人数、受け渡しの記録。三日かかった。
合計、百四十一名。
少女はその数字を碧に見せるとき、最後の一行だけを指で押さえていた。
「この一名は、すでに判明しております」
「誰だ」
「アオイ様の、すぐ隣に」
碧は振り返った。
ミュウが、外套の裾を握ったまま立っていた。
碧は数字を一度だけ声に出した。百四十一。そのうち一名は、ここにいる。
残りは、百四十人だった。
碧が今日やったことは、燃えた紙を戻しただけだった。四千人を治したときのような派手さもないし、三万を消したときのような圧倒的な力の証明でもない。
それでも、この九日でいちばん意味のある使い方をした気がした。
「アオイ殿」
王が言った。
「礼を言う。……だが、これは我が国の恥でもある」
「陛下」
碧は首を振った。
「恥を恥だと言える国は、まだ大丈夫だと思います」
うちの店でも同じだった、と碧は思った。
父は年に何度か、出した料理を自分から下げることがある。客が文句を言う前に、自分で不味いと判断して作り直す。あれができなくなったら店は終わりだと、母がよく言っていた。
グレイル三世は、少しだけ笑った。
そのとき、扉が乱暴に叩かれた。
飛び込んできたのは、北の方角から早馬で駆けてきた伝令だった。泥まみれで、息が上がっている。
「も、申し上げます! 北の砦より、緊急!」
「魔物か」
「違います!」
伝令は、床に膝をついた。
「単騎でございます! 一人だけ、南へ向かって歩いてきております!」
「一人」
「炎の魔族でございます! 魔王軍四天王、炎将ガルム!」
その名は、この部屋の全員が知っていた。
三十年前、東の国境を一夜で焼いた男だ。当時の記録では、騎士団二千が動員され、生きて戻ったのは四百と少し。ダインがいま顔に持っている傷も、そのときのものだった。
物音が、ひとつもしなくなった。
伝令は、震える声で最後の一言を付け加えた。
「……武器を、持っておりません」
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




