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第15話 腐敗の根(前編)

これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。


主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……


 塔を降りてから執務室まで、碧は一言も喋らなかった。

 隣を歩くリュシェも同じだった。この王女は階段を降りるあいだじゅう、頭の中で書類の順番を組み替えている顔をしていた。四年前に止められた三枚を、今度こそ通すための順番だ。

 エルフィリアは、城の入口で足を止めた。人の政には立ち入らないと言って、そこから動かなかった。ただ、碧が振り返ったとき、彼女は小さく手を振った。

 王の執務室に着いたとき、そこにはすでに七人が集まっていた。

 国王グレイル三世が机の向こうに座り、その左右に文官が二人。窓際に剣聖ダイン。壁際に近衛の隊長。そして扉のそばに、宰相ザルドスが立っていた。

 宰相は、碧を見ると丁寧に一礼した。

「夜分に申し訳ございませぬ、アオイ殿」

 声には、一片の動揺もなかった。

 碧は、その落ち着きぶりを見て理解した。この男は、こちらが何を掴んでいるかをすでに把握している。把握したうえで、こちらが動く前に自分から場を作った。

 厨房でも同じことをする人間がいる。焦がした鍋を隠さずに、先に自分から持ってくる者だ。そういう相手は、たいてい手強い。

「リュシェ」

 王が娘を呼んだ。

「宰相から申し立てがあった。お前と、アオイ殿についてだ」

「申し立て、でございますか」

「聞け」

 ザルドスが一歩前に出た。

「本日、わたくしのもとに三件の報告が上がってまいりました」

 男は指を三本立てた。

「一件目。王女殿下が、王家の私財より銀貨四千枚相当を無断で支出されたこと」

「奴隷市での買い上げです」

 リュシェが被せるように言った。

「二件目。勇者アオイ殿が、灰区の封鎖を破り、内部の隔離者四千名を解放されたこと」

「治療しました」

 碧も返事に間がなかった。

 解放ではなく治療だと言い換えたのは、リュシェの助言だった。解放という言葉を認めれば、封鎖という制度そのものが正当だったことになる。言葉の一つで前提が決まる場所なのだと、この人は昨夜のうちに教えてくれた。

「三件目」

 ザルドスの指が、三本目で止まった。

「勇者アオイ殿が、王国の刺客を私的に匿っておられること」

 部屋の空気が、変わった。

 碧は、その一言を頭の中で繰り返した。

 ――王国の刺客。

 昨夜まで組み立ててきた話の順番が、根元から崩れる音がした。こちらが用意していたのは、宰相が外国の金で刺客を雇ったという筋だ。それを、この男は自分から王国の仕業に書き換えてきた。

「いま、なんとおっしゃいましたか」

「王国の刺客でございます」

 宰相は、穏やかに繰り返した。

「先日、アオイ殿の部屋に侵入した三名。あれは王国の影働きの者にございます。陛下の御名において、勇者の力量を検分するため差し向けました」

 国王が、ゆっくりと顔を上げた。

「……余は、そのような命を出しておらぬ」

「書面がございます」

 ザルドスは懐から巻物を出し、机に置いた。

「三か月前、陛下がご署名なさった勇者召喚に関する包括委任状。この第四条に、召喚者の資質検分に関する一切を宰相府に委ねる旨が記されております」

 碧は、王を見た。

 グレイル三世の顔が、はっきりと強張っていた。読んでいない書類に署名をした人間の顔だった。

 王は誠実だ。この九日で碧はそう判断している。ただし誠実さと有能さは別物だった。

「つまり」

 碧は口を開いた。

「あの三人を送ったのは、合法だったと」

「左様でございます」

「じゃあ、俺が匿ってるのも問題ないですよね。王国の人間なんだから」

 ザルドスの笑みが、初めてわずかに動いた。

「……と、おっしゃいますと」

「あの三人は、王国の命令で動いた王国の兵ということでいいですか。だったら、いま騎士団の宿舎で寝てるのは職務中の休息です」

 沈黙。

「それとも、あの三人は王国の人間ではないんですか」

 碧は、一歩前に出た。

「どっちですか。合法な刺客なら匿ってることになりません。違法な刺客なら、この委任状は関係ない」

 ダインが、壁際で小さく口笛を吹いた。

 碧自身は、うまい返しをしたとは思っていなかった。ただ、相手が出してきた札をそのまま押し返しただけだ。書類で殴ってくる相手には、同じ書類を突き返すしかない。

 宰相は数秒黙り、それから静かに言った。

「……よろしいでしょう。一件目と三件目は取り下げます」


 ここまでは、ただの前哨戦だった。

 碧にはわかっていた。この男の目的は、碧とリュシェを罪に問うことではない。場を作り、こちらが何を出すかを見ることだ。

 ならば、出すしかない。

「陛下」

 碧は王に向き直った。

 一度だけ、リュシェと目を合わせる。王女は小さく頷いた。昨夜のうちに順番は決めてある。三つを一度に出すのではなく、一つずつ置いて、相手がどう崩しにくるかを見る。

「こちらからも報告があります」

「申せ」

「三つあります」

 碧は懐から、三つのものを取り出して机に置いた。

 布袋の封蝋。奴隷商の領収書。そして灰区の台帳。

「一つ目。五日前、俺を襲った三人が持っていた前金です。封蝋の紋は、カルヴァレス公国のものでした」

「二つ目」

 リュシェが続けた。

「昨日の奴隷市で、仲買人に書かせた領収書でございます。仕入れ先の欄に、カルヴァレス商会と記されております」

「三つ目」

 碧が台帳を開いた。

「灰区の管理台帳です。二年前を最後に更新が止まっています。そして、この二年間の灰区への配給費は、毎月きちんと支出されている。誰も数えていない四千人分の費用が、二年間、誰かの手元に落ちてます」

 王の手が、机の上で握られた。

 ザルドスは、動じなかった。

「たいへん興味深い資料でございます」

 男は三つを順に眺め、それから穏やかに言った。

「ですが陛下。いずれも、わたくしの名は一文字も出ておりませぬ」

 碧は、その返しを予想していた。

 昨夜、リュシェが同じことを言ったからだ。三本の糸を並べても、この男は必ずそう返す。だから四本目が要るのだと。

「公国の紋章が押された袋を、公国の者以外が使えないという法はございません。商会の名は商会のものであり、王都支店の認可はわたくしの前任者が出しております。灰区の配給費については、所管は財務府でございまして、宰相府ではございませぬ」

 ザルドスは三つの品から手を離し、両手を広げた。

「三本の糸が同じ方角を向いていることは認めましょう。しかし、その先にわたくしがいるという証は、どこにもございませぬ」

 誰も、椅子ひとつ鳴らさなかった。

 碧は、リュシェを見た。

 この男の言っていることは、ほとんど正しかった。三本の糸はどれも同じ方角を指しているが、その先にある手を掴んではいない。裁くには足りない。

 王女は唇を引き結んでいた。彼女が昨日「あと一本」と言ったのは、まさにこのためだ。三本では届かない。届かないことを、この人は四年前から知っていた。

「アオイ殿」

 ザルドスが、碧を見た。

「僭越ながら申し上げます。貴方様は、この九日でたいへん多くのものを救われました。水を通し、病を癒し、砦を守られた」

 男の声は、本当に穏やかだった。

「ですが、それらは全て善意でございます。善意には帳簿がありませぬ。帳簿のないものは、政においては存在しないのと同じでございます」

「……なるほど」

「国を動かすのは、書類でございます。感情ではございませぬ」

 碧は、その言葉を最後まで聞いた。

 聞いてから、頷いた。

「そうですね。書類です」

 そして、右手を上げた。


「――では、書類を出します」

 碧は、床に手をついた。

 周囲の視線が集まるのがわかった。宰相の言い分に反論できず、床に膝をついたように見えたのだろう。リュシェが一歩踏み出そうとして、途中で止まった。

 目を閉じる。

 地面に触れたときと同じ感覚が、床板を通して広がっていった。ただし今回、碧が探しているのは水脈ではない。

 この城で、この二年間に燃やされた紙だ。

 創造の力は、ものを作る力ではない。ものがどう組み上がっているかを理解して、そこへ手を入れる力だ。碧は九日かけてそれを学んだ。

 だとすれば、逆もできるはずだった。

 燃えた紙は消えていない。煤になり、灰になり、煙突を抜けて外へ出て、あるいは暖炉の底に残っている。形を失っただけで、それを構成していたものは、まだこの城のどこかにある。

 北の砦で、碧は粉々になった測定盤を砂から復元した。

 規模が違うだけだ。

 違いがあるとすれば、測定盤の砂は目の前に全部揃っていたが、今回の材料は城じゅうに散っているという点だった。暖炉の灰、煙突の煤、掃き溜めの塵。それを一か所に集めるところから始めなければならない。

 碧は、城という建物の全体に意識を広げた。

「アオイ殿、何を――」

 ザルドスの声が、初めて途切れた。

 執務室の床から、白いものが立ち昇り始めていた。

 煤だった。

 この城の暖炉という暖炉、煙突という煙突、灰捨て場のすべてから、燃やされた紙の名残が集まってくる。それが空中で組み上がり、繊維が編み直され、消えたはずの文字が浮かび上がっていく。

 一枚。二枚。十枚。

 紙が、机の上に降り積もっていった。

 文官の一人が椅子から転げ落ちた。近衛の隊長が反射的に剣に手をかけ、その手を途中で止めた。ダインだけが、天井を見上げて何かを呟いていた。

 書類は降り続けた。机から溢れ、床に散り、窓際まで積もっていく。

 五十枚を超えたところで、碧は手を止めた。

 これ以上は、意味がなかった。必要なのは量ではない。宰相の名が書かれた一枚が混ざっていれば、それで足りる。

 執務室の床は、書類で埋まっていた。

 誰も、声を出さなかった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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