第14話 女神の不機嫌(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
言われてみれば、そうだった。碧はこの九日で騎士団三百人と灰区四千人に飯を作ったが、女神に出したことは一度もない。
「神様って、飯食うんですか」
「食べられます。必要はありませんが」
「じゃあ、どんな味がするか、わかりますか」
「……わかりません」
エルフィリアは厨房の入口に立ったまま、少しだけ気まずそうに言った。
「千年のあいだ、食べたことがないので。味という概念は知っていますが、経験としては持っていません」
碧は、包丁を置いた。
置いてから、腕をまくった。
「座っててください」
「何を作るんですか」
「ハヤシライスです」
「はやし」
「薄く切った肉と玉ねぎを、茶色いソースで煮たやつです。飯にかけます」
「……飯」
「米がないので、たぶんパンに合わせます。……いや」
碧は言い直した。
「米、作ります」
エルフィリアが目を丸くした。
碧は創造の力で、一握りの米を出した。日本で食べていたものと同じ粒だ。種があるわけではない。記憶だけを頼りに、あるべき形をそのまま置いた。
土鍋を作り、水を張り、火にかける。
米を炊くのは、この世界に来てから初めてだった。水加減も火加減も、実家の台所でやっていた通りにやるしかない。厨房の炉は薪だったので、火の落ち方だけが読めなかった。
十分もしないうちに、蓋の隙間から湯気が立ち始めた。
その湯気に、エルフィリアが反応した。
「……これは」
「米が炊ける匂いです」
「甘いです」
「そうですね。甘いです」
自分では、もう気づかない匂いだった。生まれたときから台所にあったものは、嗅いでいることにすら気づかない。この人に言われて、碧は久しぶりにそれを匂いとして認識した。
炊きあがるまでの二十分間、碧は玉ねぎを炒めた。
薄切りの玉ねぎを、少し多めのバターで。バターが溶けるときの、あの焦げる一歩手前の匂いが厨房に広がる。玉ねぎが触れると、しゅう、と音がして、嵩が一気に沈んだ。
そこから先は、ひたすら木べらを動かす時間だった。
その二十分、エルフィリアはずっと黙って見ていた。
「アオイ」
「はい」
「なぜ、ずっと同じことをしているのですか」
「玉ねぎが甘くなるからです」
「もっと早くできませんか。あなたなら」
「できます」
碧は木べらを動かしながら答えた。
「でも、やりません」
「どうして」
「時間をかけたぶんだけ味が変わるものは、時間をかけたほうがいいんです。省略できるからって省略したら、それはもう別のものになる」
エルフィリアは、その答えをしばらく噛み砕いていた。
やがて、小さく言った。
「……わたしのことみたいですね」
「え」
「千年、待ちました。もっと早くできる方法もありました。でも、そうしたら別のものになっていたと思います」
碧は、木べらを止めた。
止めてから、慌てて動かした。危うく焦がすところだった。
鍋の中で玉ねぎが色を変えていく。背後に女神の気配がある。厨房の窓から午後の光が差している。この九日間で、いちばん現実感のない時間だった。三万の魔物を消したときより、よほど現実味がない。
できあがったものを、碧は二人分よそった。
土鍋の蓋を開けると、白い湯気が顔に当たった。米が立っている。一粒ずつ角が残っていて、しゃもじで切るように混ぜると、ふわ、と音もなくほどけた。
皿に盛った飯の上に、濃い茶色のソースをかける。とろりと落ちて、白い縁を残しながら広がった。薄切りの肉が二枚、玉ねぎが溶けかけて透けている。ソースの表面で、バターの油が小さな輪をいくつも作って光っていた。
匂いが、立ち上る。
肉と、玉ねぎの甘みと、バターと、ぶどう酒の名残。その全部が湯気に乗って、真上から顔にかかってくる。
エルフィリアは、それを長いこと見ていた。
「食べていいですか」
「どうぞ」
「作法は」
「ないです。好きに食べてください」
女神は匙を取った。
持ち方がぎこちない。握り込んでいる。碧が指を一本ずつ外して持ち方を直してやると、彼女は素直に従った。
エルフィリアは、しばらく皿を見ていた。
食べようとしないのではない。手順を知らないのだ。どれくらいの量を取ればいいのか、どの角度で口へ運ぶのか、何回噛めばいいのか。千年のあいだ、この人は一度もそれを必要としてこなかった。
やがて、女神は匙にほんの少しだけ載せた。米が三粒と、ソースが滴る程度の量だった。
口へ運ぶ。
エルフィリアの動きが、止まった。
数秒、完全に停止した。それから、ゆっくりと目を見開いた。
「……あ」
「どうですか」
「わかりません」
「え」
「わからないんです」
女神の声が、震えていた。
「これが何なのか、わかりません。知識としては知っています。塩味、甘味、うま味。全部、名前は知っています。でも、これは」
彼女は匙を置き、両手で口を押さえた。
「……全部、別のものでした」
碧は、何も言わなかった。
エルフィリアはしばらくそのままでいて、それから顔を上げた。目が濡れていた。
それから、女神は指を一本だけ立てた。
自分の膝の上で、その指を見ている。何を数えているのかを碧が訊く前に、彼女は小さく言った。
「……一つ目です」
「何がですか」
「なんでもありません」
エルフィリアは指を握り込んだ。
「もう一口、食べてもいいですか」
「全部食べてください。おかわりもあります」
「おかわり」
「もう一杯ぶん、という意味です」
「……二杯、食べていいのですか」
「三杯でも四杯でも」
「そんなに」
「うちの店の常連に、五杯食う人がいました」
エルフィリアが、ひどく真剣な顔で頷いた。目標として設定したらしい。
女神は、匙を握り直した。
今度は、載せる量を間違えた。多すぎる。口に入りきらず、頬が膨らんだ。慌てて飲み込もうとして噎せかけ、碧が背中を叩いた。
それでも、匙を離さなかった。
二口目からは、教えていないのに速くなった。三口目で角度が安定し、四口目で初めて噛む回数が一定になった。学習が速い。神の学習能力というのは、こういうところに出るらしい。
五口目から先は、黙々と食べ続けた。
千年生きてきた存在が、初めて食事というものをしている。
食べ方は、お世辞にも綺麗ではなかった。匙の角度がまだ定まっていないし、口に運ぶ量も一定しない。途中で肉を落として、慌てて拾おうとして、碧に止められていた。
碧はその光景を、向かいの席から眺めていた。
不思議な気分だった。三万の魔物を消したときも、四千人を治したときも、碧の中に達成感はほとんどなかった。なのに、目の前で一人が飯を食っているだけの光景が、やたらと胸に来る。
たぶん、こっちが本来の自分なのだ。
日が落ちたあと、二人は給水塔の上に登った。
碧が作った塔だ。てっぺんには槽と風車があるだけだが、王都を一望できる。
エルフィリアは裸足のまま、縁に腰かけて足をぶらぶらさせていた。神様の座り方ではない。
「アオイ。ひとつ、言っておくことがあります」
「六本の亀裂の話ですか」
「それは、また今度にします」
彼女は首を振った。
「あなたの身体のことです」
碧は隣に腰を下ろした。
高さのわりに風が弱いのは、たぶん塔の形のせいだった。作ったときにそこまで考えた覚えはないが、結果としてここは王都でいちばん静かな場所になっている。
眼下の王都に、明かりが点り始めている。下町のほうにまで灯りが増えているのは、たぶん水が通ったせいだ。
「三日前、砦で三万を消しましたね」
「はい」
「そのとき、何も感じませんでしたか」
碧は、答えるまでに時間をかけた。
「……感じませんでした。それが、いちばん怖かったです」
「正常です」
「え」
「あなたの中の神の割合が、増えているからです」
エルフィリアは、風車の音を聞くように空を見上げた。
「祝福を渡すとき、わたしの力はあなたに移ったのではなく、あなたと繋がりました。繋がったものは、行き来します。あなたの力が増えると同時に、あなたの感じ方も、少しずつこちら側に寄ってきています」
「神様は、三万殺しても何も感じないんですか」
「感じません」
女神は、あっさりと肯定した。
「わたしは千年のあいだ、何百万人が死ぬのを見ました。数えられる範囲では、一度も泣いていません」
碧は、何も言えなかった。
「ですから、あなたには覚えていてほしいのです」
エルフィリアが、こちらを向いた。
「何も感じなかった、ということを。今日のあなたは、それをちゃんと怖いと思いました。それを忘れないでいてください」
「忘れたら、どうなりますか」
「わたしになります」
その言い方には、脅しの響きがまったくなかった。
事実を述べているだけなのだ。この人は千年かけて、自分がどういうものになってしまったかを正確に把握している。把握したうえで、それを碧に引き継がせたくないと言っている。
風が吹いた。
銀の髪が流れて、碧の肩に触れた。
碧は、少しだけ迷ってから、彼女の手を取った。
エルフィリアの身体が、びくりと跳ねた。
「……アオイ」
「約束したじゃないですか。壊れそうになったら止めてくれって」
「しました」
「じゃあ、逆も言っときます」
碧は、その手を握ったまま言った。
「あなたが泣けなくなってたなら、俺が代わりに怒ります。九日ぶんの飯の礼です」
エルフィリアは、何も答えなかった。
答えるかわりに、碧の肩に額を預けた。
重さは、ほとんどなかった。それでも、確かにそこに誰かがいるという感触だけは、はっきりと肩に伝わってくる。
碧は動かなかった。動いたら離れてしまう気がした。
その姿勢のまま、二人はしばらく動かなかった。王都の明かりが増えていく。風車が回る音がする。どこか遠くで、鐘が鳴った。
そのとき、塔の下から声がした。
「アオイ様ー!」
ミリアだった。全速力で走ってきたらしく、息が切れている。
「陛下が、至急お呼びでございます!」
碧とエルフィリアは、同時に下を見た。
ミリアの後ろに、リュシェが立っていた。
王女の顔から、血の気が引いていた。
「アオイ殿。宰相が動きました」
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




