第14話 女神の不機嫌(前編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
朝、目を覚ますと、寝台の横に女神がいた。
椅子に腰かけ、膝の上で手を組み、こちらをじっと見ている。銀の髪が床まで垂れて、朝の光を受けて白く光っていた。
碧は二秒ほど動けずにいて、それから上体を起こした。
「……おはようございます」
「おはようございます」
「いつから、そこに」
「二時間ほど前からです」
エルフィリアは表情ひとつ変えずに答えた。
「ずっと見てたんですか」
「寝顔を見ていました。問題がありますか」
「大ありです」
「そうですか」
まったく悪いと思っていない声だった。
碧は頭を掻き、それから改めて彼女を見た。
こうして明るいところで正面から見るのは、考えてみれば初めてだった。神殿では光の中にいたし、精霊のように現れては消えていく。まともに顔を突き合わせる時間が、これまで一度もなかった。
睫毛が長い。指が細い。首の線が、想像していたよりずっと人間に近い。神という言葉から連想する造形とはまるで違って、ただ綺麗な少女がそこに座っていた。
召喚の日から九日。この人が碧の前に姿を見せたのは、数えてみれば四回しかない。それも全部、長くて十分程度のやり取りだった。
「どこにいたんですか」
「神殿の奥です」
「何を」
「確認です」
エルフィリアは膝の上の手をほどき、そこで初めて視線を落とした。
「世界の亀裂を見ていました。北の森、東の湿地、西の岩山。あなたが砦で気づいたあれの、全部の位置です」
「三本ですか」
「六本です」
碧は、すぐには言葉が出なかった。
三本だと思っていた。三日前、北の砦で地脈を覗いたとき、森の中心にあるものを見つけて、それが例外的な異常なのだと考えていた。
「あなたが見たのは、いちばん大きい一本です。小さいものを含めると、この大陸だけで六本あります」
「いつから」
「五百年前からです」
その数字に、碧は覚えがあった。神殿の記録庫で見た、最後の召喚者の記録。以後、召喚を禁ず、と書かれていた頁。
「……それ、俺に言ってよかったんですか」
「よくありません」
エルフィリアは顔を上げた。
「ですから、言いに来るのに九日かかりました」
その言い方には、彼女なりの必死さがあった。神には神の手続きがあるのだろう。碧はそれ以上訊かないことにした。
かわりに、別のことを言った。
「じゃあ、九日ぶんの埋め合わせをしてください」
「え」
「毎日どこにいるのか、俺は知りませんでした。心配くらいはしてたので」
エルフィリアの動きが、完全に止まった。
それから、顔が急速に赤くなった。耳の先、首筋、鎖骨のあたりまで一気に色が変わっていく。碧はこの九日で、この人の体温の上がり方にだけはやたら詳しくなっていた。
「心配、ですか」
「しますよ。普通に」
「わたしは、神ですが」
「神だから心配しないって法はないでしょう」
エルフィリアは両手で自分の頬を押さえた。
そして、小さな声で言った。
「……それを、もっと早く言ってください」
「言う機会がなかったんです。あなたがいなかったので」
「わたしのせいですか」
「半分は」
「半分は、誰の」
「たぶん、この九日で四千人くらい助けたやつのせいです」
女神が、噴き出した。
笑い方が、また不器用だった。声を出すつもりがなかったのに漏れてしまった、という種類の笑いで、本人が慌てて口を押さえている。押さえた指の隙間から、まだ息が漏れていた。
碧はその様子を見ながら、九日ぶんの不在を許すことにした。
その噴き出し方が、まずかった。
扉が開いたのだ。
「アオイ様、朝の――」
ミリアが盆を持って立っていた。
その後ろに、リュシェがいた。
さらにその後ろに、ミュウがいた。昨日連れ帰ったばかりの狼獣人の少女は、碧の外套をまだ羽織ったまま、耳を伏せて縮こまっている。
三人が、部屋の中を見た。
寝台に座った碧。その真横の椅子に、顔を真っ赤にした女神。
沈黙が落ちた。
碧はこの九日で、沈黙にはいくつか種類があることを学んでいた。北の砦で三万の群れを見たときの沈黙と、灰区で四千人が立ち上がったときの沈黙は、まったく別物だった。
いま部屋を満たしているのは、そのどちらでもない。もっと日常的で、もっと逃げ場のない沈黙だった。
「……朝から、お盛んでございますね」
最初に口を開いたのは、リュシェだった。声が平坦すぎた。
「違います」
「何がどう違うのか、順を追ってご説明いただけますか」
「説明するようなことは何も」
「では、なぜ女神様は赤面しておられるのですか」
「それは」
碧が言い淀んだ瞬間、エルフィリアが立ち上がった。
神としての威厳を取り戻そうとしたのだろう。銀の髪が広がり、部屋の空気が一段暖かくなる。窓の外で小鳥が一斉に鳴き出した。
そして、言った。
「心配していただきました」
威厳が、一秒で崩壊した。
リュシェが額を押さえた。ミリアが盆を落としかけた。ミュウだけが、何が起きているのかわからないという顔で三人を見比べていた。
朝食は、六人で食べることになった。
碧の部屋の卓は四人がけだったので、碧が創造でひとまわり大きいものに作り替えた。ミリアが給仕をしようとしたので、座らせた。
「わたしは世話役でございます」
「今日は休みだ。昨日、灰区で十四時間働いただろう」
「十三時間半でございます」
「余計に悪い」
結局、ミリアは渋々と椅子に座った。座ってからも落ち着かず、五分ごとに立ち上がろうとしては、隣のリュシェに袖を引かれていた。
問題は、ミュウだった。
少女は椅子に座らなかった。碧の椅子の横の床に、正座で控えている。
「ミュウ。座れ」
「わたしは、ここで」
「椅子がある」
「床のほうが、慣れております」
碧は困った。
昨日からずっとこの調子だった。部屋を与えても寝台を使わず、床で丸くなって寝ていた。碧が気づいて声をかけると、寝台は柔らかすぎて眠れないと言った。たぶん嘘ではない。
「アオイ」
エルフィリアが、静かに言った。
「わたしが座らせます」
女神は席を立ち、ミュウの前にしゃがんだ。
ミュウの耳が、ぴんと立った。獣人の本能なのか、目の前にいるものが何なのかを正確に感知したらしい。少女は床に額をつけようとした。
その肩を、エルフィリアが支えた。
「やめてください。わたしは、あなたに頭を下げられる資格がありません」
「……え」
「この世界を作ったのは、わたしです。あなたの首に輪をはめる法を許したのも、結果としてはわたしです」
女神の声は、いつもの頼りない響きではなかった。
「謝ります。千年、遅れました」
ミュウは、金色の目を見開いていた。
何を言われているのか理解できていない。それでも、自分より圧倒的に上位の存在が自分に謝罪しているという事実だけは、伝わったらしい。
少女の耳が、ゆっくりと下がった。
「……わたし、どうすれば」
「座ってください」
エルフィリアは立ち上がり、椅子を引いた。
「それが、今日あなたにできる一番難しいことです」
ミュウは、たっぷり十秒かけて立ち上がった。
そして、椅子に座った。
座った瞬間、少女の尻尾がぴんと立った。本人も驚いた顔をしていた。
リュシェが無言でミュウの前に皿を置いた。ミリアが匙を置いた。誰も、よくやったとは言わなかった。それが正解だったのだと、碧はあとになって理解する。
碧は、その光景をじっと見ていた。
この人は、こういうことができる人なんだと思った。
碧がミュウにしてやれたのは、首輪を外して飯を食わせることだけだった。それは間違っていないと思う。ただ、この少女がずっと床に座り続けていた理由の根っこには、たぶん手が届いていなかった。
九日ぶりに現れた女神は、それを十秒で片付けた。しかも、謝るという方法で。
勝てないな、と碧は思った。悔しくはなかった。
朝食のあと、リュシェが碧を廊下へ呼び出した。
「アオイ殿。確認させていただきます」
碧は短く頷いた。
「女神様とは、どういうご関係ですか」
碧は、少し考えた。
「たぶん、説明できる関係じゃないです」
「では、説明できない関係ではあるのですね」
「言葉の罠がひどい」
「わたくしは外交を学んでおります」
リュシェの表情は動かない。動かないぶん、追及の圧だけが正確に上がっていく。碧はこの三日で、この王女の怖さをようやく理解し始めていた。剣を持つ人間より、書類を持つ人間のほうが厄介なのだ。
リュシェは腕を組んだ。
その仕草が、いつもの王女らしくなかった。この人が感情を出すのは、珍しい。
「率直に申し上げます。わたくしは、あなたに縁談を持ちかけるつもりはないと最初に言いました」
「聞きました」
「あれは撤回いたしません。政略としては、いまも不要です」
王女は、そこで一度言葉を切った。
「ですが、政略でないなら話は別でございます」
碧は、返事をしそこねた。
リュシェは碧の反応を待たずに、踵を返した。
「以上です。朝食が冷めますので」
「待ってください。いまのは」
「聞こえませんでした」
「言ったのそっちですよ」
王女は振り返らなかった。
ただ、耳が赤かった。
碧はしばらく廊下に立ち尽くしていた。
いま何を言われたのか、頭の中で三回ほど再生してみる。三回とも同じ結論に行き着いたので、碧はそれ以上考えるのをやめた。考えて解決する問題ではない。
部屋に戻ると、ミュウが椅子の上で丸くなって眠っていた。エルフィリアがその隣で、少女の尻尾を興味深そうに眺めている。ミリアが小声で「記録してよろしいでしょうか」と訊いてきたので、却下した。
その日の午後、碧は厨房に立った。
調理長のハルカスは、碧が厨房に現れるたびに全員を下がらせようとする。今日もそうしようとしたので、碧は止めた。かわりに、鍋をひとつ貸してほしいと頼んだ。
老人はしばらく迷ってから、いちばん古い、いちばん使い込まれた鍋を持ってきた。三十年使ってきたものだという。碧はそれを受け取って、礼を言った。
理由は単純で、エルフィリアが「あなたの作るものを食べたことがない」と言い出したからだ。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




