第13話 首輪の少女(後編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
碧は、しゃがんだ。
立ったまま話しかければ、この子はまた指示を待つ姿勢になる。実家の店で小さな子ども連れの客が来たとき、父がいつも腰を落としていたのを碧は覚えていた。
目線を合わせる位置まで下げてから、声をかけた。
「立てるか」
返事はなかった。
「頭の布、取っていいか」
やはり返事はない。
碧はゆっくり手を伸ばし、布の結び目をほどいた。
耳が出た。
灰色の、大きな三角の耳。片方が、途中から欠けていた。古い傷だった。
そして、顔が上がった。
碧は、そこで息を呑んだ。
顔立ちが整っていたからではない。栄養状態が悪くて頬がこけていたからでもない。
目だった。
金色の、大きな目。その目に、何も映っていなかった。碧を見ているのに、見ていない。恐怖も、期待も、憎しみもない。そこにあるのは、次に何を命じられるかを待っているという、それだけの機能だった。
碧は、灰区で見た顔を思い出した。
軒先に座ったまま、こちらを見ても立ち上がらなかった人たちの顔。あれと同じだった。
ただし、あちらは身体を治せば動き出した。この目に映っていないものは、治癒の祝福では届かない場所にある。碧はそれを、触れる前から理解していた。
「名前は」
少女は答えなかった。
「名前、あるか」
数秒あって、掠れた声がした。
「……十八番、です」
碧は、目を閉じた。
一度だけ、深く息を吸った。
「それは番号だ。名前を聞いてる」
「番号しか、ありません」
「前は」
「前」
「売られる前だ。何か呼ばれてただろう」
少女の目が、わずかに揺れた。
初めて、そこに動きが生まれた。
「……ミュウ」
声はほとんど息だけだった。それでも、番号を答えたときとは音の質が違っていた。
「ミュウ」
「母が、そう」
そこで言葉が途切れた。
その先を言わせるのは酷だと、碧は判断した。
碧は、その名前をもう一度口の中で繰り返した。
母親が呼んでいた名前だ。番号をつけられる前に、この子にも名前を呼ぶ人間がいた。それだけのことが、いまこの土間ではひどく重たい情報として響いた。
「ミュウ。俺は天野碧だ。アオイでいい」
少女は、碧の顔を見た。
まだ何も映っていない目だった。それでも、さっきよりは焦点が合っている。
「ご主人様」
「違う」
「……」
「俺はあんたの主人じゃない。買ったのは事実だけど、それは首輪を外すためだ。あんたはもう誰のものでもない」
ミュウの目に、理解が追いついていなかった。
当たり前だった。この少女の知っている世界に、そういう概念がない。
「どこへ、行けばいいですか」
「どこでもいい」
「……行く場所が、わかりません」
碧は、その答えを予想していた。
灰区で四千人を治したときと、まったく同じ構図だった。壊れたものを直しても、直った先の行き場までは作ってやれない。
だから今度は、先に用意することにした。
「なら、当面うちに来い」
「うち」
「城の部屋だ。飯は出る。仕事はない。寝てていい」
「……仕事が、ないのですか」
「ない」
ミュウの耳が、ぴくりと動いた。
「それは、困ります」
「なんでだ」
「仕事がないと、置いてもらえません」
碧は、頭を掻いた。
この少女の中では、存在していい理由と、役に立つことが完全に同じものになっている。それを一言で解きほぐす方法を、碧は持っていなかった。
急いで解く必要もないと、碧は判断した。
三年ぶんの灰区や、十年ぶんの首輪を、半日で消せるとは思っていない。今日できるのは、明日も生きていていい理由をひとつ渡すことだけだった。
だから、別の答えを出した。
「じゃあ、飯を食ってくれ」
「え」
「俺は飯を作る。あんたはそれを食う。それが仕事だ」
ミュウは、しばらく黙っていた。
「……それは、仕事ですか」
「立派な仕事だ。作った側にはわかる」
金色の目が、また少し揺れた。
納得したわけではないのだろう。ただ、与えられた役割としては受け取れる形になったらしい。ミュウは小さく頷いて、それから初めて自分の意思で半歩、碧のほうへ近づいた。
半歩だった。それでも、さっきまで一歩も動かなかった少女にとっては、大きな距離だったはずだ。
小屋を出る前に、碧は商人のほうを振り返った。
男は壁際で縮こまっていた。
「ひとつ聞きます」
「な、なんなりと」
「この子、どこから来ましたか」
「北方の、獣人連合からでございます。正規の交易で」
「嘘です」
碧は静かに言った。
「灰区から、月に二、三回、夜中に子どもが運び出されてます。あなたのところに来てますよね」
商人の顔が、完全に白くなった。
「わ、わたくしは仲買でございまして、仕入れの経路までは」
「仕入れ先の名前だけでいい」
「……申し上げられません」
「なんでですか」
「申し上げたら、明日には、わたくしが」
男はそこまで言って、口を押さえた。
碧は、それ以上追及しなかった。追及しても、この男は本当に知らない可能性が高い。組織というのは、末端に何も持たせないように作られている。カイたちがそうだったように。
碧は小屋の扉に手をかけ、そこで足を止めた。
「最後にひとつ」
「は、はい」
「今日の競り、あと何人残ってますか」
「……九名でございます」
「全部、買います」
商人が、目を剥いた。
「ぜ、全部と申しますと」
「今日この市場に出ている人間、全員です。値段は言い値で結構です」
背後で、リュシェが小さく息を呑んだのが聞こえた。
碧は振り返らずに続けた。
「ただし、条件があります」
「じょ、条件」
「領収書を書いてください。買った人数と、値段と、仕入れ先の欄つきで」
商人の表情が、凍りついた。
碧は、初めて笑った。
「書けないなら、値段は倍にします」
商人は口を開け、閉じ、それからもう一度開いた。
金は欲しい。だが書けば残る。残れば、仕入れ先に知られる。男の頭の中でその三つが同時に回っているのが、見ていてわかるほどだった。
結局、男は震える手で羽根ペンを取った。
その様子を土間の隅から見ていたカイが、ごく小さな声で言った。
「……あなたは、組の連中より質が悪い」
「褒めてます?」
「褒めております」
碧は九人分の代金を支払い、九本の首輪を外させた。
外れた首輪は、土間の隅に積み上がった。十個で、思っていたより小さな山にしかならなかった。
ミュウは、その山をじっと見ていた。
碧が声をかけると、少女は初めて自分から口を開いた。
「……アオイ様」
「アオイでいい」
「これ、持って帰ってもいいですか」
碧は、その意味を測りかねた。
「どうして」
「わたしのだったので」
少女は自分の首に触れた。まだそこに何かがあるかのような触り方だった。
「なかったことに、したくないので」
碧は、しばらく黙った。
それから、自分の外套を脱いでミュウの肩にかけた。
「持って帰ろう。全部だ」
外へ出ると、日が傾いていた。
市場の喧騒が遠い。石畳に十人分の影が伸びて、そのいちばん小さな影が、碧の半歩後ろをついてきていた。
九人は、リュシェとダインが先に連れていった。城で保護の手続きをするためだ。カイたちが同行し、ミリアが名簿を作りに走った。
結果として、碧とミュウだけが市場の裏通りに残った。
二人は、城までの道を歩いて戻ることにした。
ミュウは、首輪の入った袋を両手で抱えていた。十個分の重さは、この少女の細い腕にはそれなりのはずだった。碧が持とうかと言うと、首を横に振られた。
三つ目の角を曲がったところで、少女が口を開いた。
「アオイ様」
「うん」
「訊いても、いいですか」
碧は足を止めた。
ミュウが自分から質問をするのは、これが初めてだった。
「いいぞ」
「アオイ様は」
少女は袋を抱え直した。
「誰かに、値段をつけられたことがありますか」
碧は、答えられなかった。
考えた末に出てこなかったのではない。考えるまでもなく、答えは「ない」だった。その「ない」を、どう言えばいいのかがわからなかった。
「……ないな」
「そうですよね」
ミュウは、責めていなかった。
確認しただけの声だった。
「わたしは、四回あります」
少女は歩きながら言った。
「最初は、五つのときです。村から売られました。銀貨で八枚だったそうです」
「……」
「二回目は十歳です。そのときは四十枚でした。大きくなると、上がるみたいです」
「ミュウ」
「三回目は十三です。百二十枚でした。買った人が病気で死んだので、また売られました」
少女の口調は、どこまでも平坦だった。
「四回目が、今日です。五百枚でした」
碧は、その数字を聞いた。
自分がさっきつけた値段だった。
「あの」
「怒っていません」
ミュウは先回りして言った。
「アオイ様が五百と言ったとき、わたし、嬉しかったです」
「……嬉しい」
「はい」
少女は足を止め、袋を胸に抱えたまま碧を見上げた。
「いままででいちばん高かったので」
碧は、その場から動けなくなった。
何かを言わなければならない。それははっきりしているのに、何を言っても違う気がした。
「ミュウ」
「はい」
「それは、値段じゃない」
「でも、金貨を払いました」
「払った」
「わたしを買いました」
「買った」
碧は、正直に認めた。
「買った。それは事実だ。誤魔化さない」
ミュウの耳が、わずかに動いた。
「でも、あのとき俺が考えてたのは、あんたの値段じゃない」
「では、何ですか」
「誰も追いかけてこない金額だ」
碧は言った。
「三百に少し足しただけだと、また誰かが競る。競ってる間、あんたはずっとあの台の上にいる。それが嫌だったから、一回で終わる数字を出した」
少女は、しばらく動かなかった。
「……台の上は」
「うん」
「長いです」
ミュウは、そう言った。
「値段が上がっていくあいだ、ずっと立っています。声が飛んでくるのが、上からも横からも聞こえます。目を閉じると怒られるので、開けています」
「……」
「今日が、いちばん短かったです」
碧は、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
理解して、そして自分の顔が歪むのがわかった。
少女は袋を抱え直し、また歩き出した。碧は半歩遅れて、その後ろをついていった。
しばらく黙って歩いたあと、ミュウが振り返らずに言った。
「アオイ様」
「うん」
「値段をつけられたことがない人は、つけられた人のことがわかりません」
「わからない」
「わかりません。だから、わからないままでいてください」
少女は、そう言った。
「わかる人になるには、四回売られないといけないので」
碧は、その背中を見ていた。
十五歳の少女が、十八歳の自分に気を遣っている。それが何よりも応えた。
「ミュウ」
「はい」
「その袋、持つ」
「重くありません」
「持つ」
碧は答えを待たずに、袋の端を掴んだ。
少女は少しだけ抵抗して、それから手を離した。
二人は、袋の持ち手を片方ずつ持って歩いた。城までの残り二十分、どちらも何も言わなかった。
城門の前で、先に戻っていたリュシェが待っていた。
「アオイ殿。今日の買い物は、銀貨にして四千枚を超えております」
「返します」
「返さなくてよいと申し上げました。それより、問題は別にございます」
王女は懐から、たったいま書かせた領収書を出した。
「仕入れ先の欄に、商会の名がございます。カルヴァレス商会」
「公国の名前ですね」
「はい。そして、この商会の王都支店を認可したのは」
「宰相ですか」
「宰相でございます」
碧は空を見上げた。
八日間で、全部の糸が同じ一点に集まってきていた。暗殺者の前金、灰区の管理、奴隷市の認可。どれも単体では決定打にならない。ただ、三本を束ねれば話は変わる。
「リュシェ様」
「はい」
「これ、あと何本集めれば足りますか」
王女はしばらく考えてから、静かに答えた。
「一本です。父上を動かすには、あと一本」
碧は頷いた。
半歩後ろで、ミュウが首輪の入った袋を両手で抱えていた。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




