第13話 首輪の少女(前編)
これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。
主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……
――夏の盛り、初日。
その朝、王都の南で井戸を覗き込んだ者が何人もいた。
毎年この日から水が濁る。濁った水を飲んだ子どもが、数日のうちに何人か死ぬ。それがこの二十年の夏だった。
今年、どの井戸も澄んでいた。
碧は奴隷市へ向かう前に、南外壁通りの井戸へ寄った。
三日前、最初に桶を満たした井戸だった。列はできていたが、誰も急いでいない。桶が下りて、満ちて、上がる。その繰り返しに、待つ者の顔が慣れ始めていた。
列の中ほどに、見覚えのある母子がいた。三日前、倒れた桶に頭を預けていた子どもが、今日は自分の背丈ほどの桶を両手で抱えて、母親の前に立っている。
子どもは碧に気づくと、桶を持ったまま手を振ろうとして、水をこぼした。母親が笑いながら、その頭を軽く小突いた。こぼれた水が石畳を濡らし、朝の光を跳ね返した。
「アオイ様」
隣で、ミリアが帳面を開いていた。
「本日、夏の盛り初日。南の区画、死者の欄、ゼロでございます」
「そうか」
「昨年のこの日は、三名でございました。一昨年は、四名」
少女はそこで羽根ペンを置いた。死者の欄に何も書かないまま帳面を閉じようとして、途中で手が止まった。
「……ヨナが熱を出したのも、この日でございました」
ミリアは井戸の列を見ていた。
「三年前の、夏の盛りの初日でございます。あの日も、この井戸の水は濁っておりました」
碧は何も言わなかった。言うべきことがあるとすれば、それはもう井戸の水が言っていた。
ミリアは帳面を閉じた。空白の欄を、そのまま中に閉じ込めるような閉じ方だった。
「以上でございます」
いつもの報告の調子だった。それでも最後の一語だけが、少しかすれていた。
列の前のほうで、老人が桶を引き上げた。澄んだ水が縁から溢れ、石畳に落ちて光った。誰も、それを惜しまなかった。
南の区画から神殿へ礼を言いに来た者が、その日だけで四百人を超えた。ミリアが数え、記録に残した。
碧はその数を、奴隷市へ向かう車の中で聞いた。
王都に奴隷市があることを、碧は知らなかった。
正確には、この八日間、誰もその話をしなかった。城でも神殿でもギルドでも、酒場の雑談ですら一度も出てこなかった。そういう話題は、出さないという合意が街ぜんたいにできあがっているらしい。
「西区の第三市場でございます」
翌朝、リュシェが持ってきた資料にはそう書かれていた。王女は一睡もしていない顔をしていたが、背筋だけはいつも通り伸びていた。
「毎月、三の日と七の日に開かれます。表向きは家畜と農具の競りです」
「表向き」
「午前が家畜で、午後が人です」
碧は資料をめくった。
取引の記録が並んでいる。数字だけを見れば、確かに家畜の取引に見えた。頭数と、価格と、買い手の名前。ただし単価が異常だった。牛が銀貨八枚のところに、銀貨三百枚の行が混ざっている。
「この三百枚のやつが」
「人です。そして、三百枚は高すぎます」
「相場は」
「成人の労働力で、銀貨四十から六十。子どもで二十前後」
リュシェの声は平坦だった。数字を読み上げる訓練をしてきた人間の言い方だ。
「銀貨三百枚が動くのは、獣人の子どもの場合のみでございます」
碧は、資料を卓に置いた。
「なんで、獣人だと高いんですか」
「……アオイ殿」
「教えてください」
王女はしばらく黙っていた。それから、顔を上げずに答えた。
「珍しいからです」
「それだけですか」
「それだけです。人は珍しいものに高い値をつけます。牛や馬と同じ理屈で、獣人にもそれが適用されているというだけの話です」
碧は、その答えを咀嚼した。
理解はできた。納得はしなかった。
元の世界にも似た話はいくらでもあった。数が少ないというだけで値段が跳ね上がるものを、碧は何度も見てきている。ただしそれは生き物の話ではなかったし、少なくとも値段をつけられる側に言葉が通じることはなかった。
「それと、もうひとつございます」
リュシェが付け加えた。
「獣人は、我が国の法において人ではございません」
碧は顔を上げた。
「グランヴェル王国法第一条。国民とは、王国内に居を構える人間をいう。この『人間』に、獣人は含まれません」
「じゃあ、何なんですか」
「定義されておりません」
王女の指が、資料の端を強く握った。
「定義されていないものは、保護されません。ですから、殺しても罪になりません」
碧は、その一文を頭の中で何度か繰り返した。
悪意のある条文ではないのだろう。おそらく千年前にこの法を書いた人間は、獣人という存在をそもそも想定していなかった。想定しなかった結果として空白が残り、その空白に誰かが商売を見つけた。
昨日の灰区と、構造がまったく同じだった。誰も悪くない形をしていて、それでも人が死んでいく。
西区の第三市場は、屋根のある大きな広場だった。
石柱が何本も立ち、そこに布の日除けが渡してある。午前の競りが終わったばかりらしく、牛と羊の匂いが残っていた。床には藁が敷かれ、荷車が何十台も並んでいる。
匂いのほかに、音があった。荷を下ろす音、値を読み上げる声、藁を掃く音。市場としてはごく健全な音の集まりで、そこに異常なものは何ひとつ混ざっていない。
碧たちは、商人の一団に紛れて入った。
外套を羽織り、フードを目深にかぶる。ダインは大きすぎるので荷運びの人夫に扮し、樽を担いでいた。リュシェは今日も背筋がどうにもならず、結局「商家の娘」という設定に落ち着いた。
ミリアは連れてこなかった。灰区の炊き出しの指揮を任せてある。本人は最後まで同行を主張したが、碧が折れなかった。あの少女は記録を取ろうとする癖があり、この場所でそれをやれば命に関わる。
かわりに、三人連れてきた。
カイ、セン、トウジ。
「ここは、我々の庭です」
カイが低い声で言った。三人とも、市場に入った瞬間から動きが変わっていた。歩幅が短くなり、視線が下がり、気配が薄くなる。
「組の仕事で、何度も来ております」
「買いに来たのか」
「運びに来ました」
碧は、それ以上訊かなかった。
「午後の競りは、奥の区画です。招待状が必要ですが」
カイは懐から一枚の木札を出した。
「三枚、手に入れました」
「どうやって」
「訊かないほうがよろしいかと」
碧は木札を受け取った。
木札には数字と、二頭の獣が剣を支える紋が焼き付けられていた。昨夜の封蝋と同じ意匠だった。碧はそれを指でなぞり、何も言わずに懐へしまった。
この三人を連れてきたのは、市場に詳しいからというだけではなかった。昨夜、灰区から戻った碧が話を持ちかけたとき、真っ先に立ち上がったのがトウジだったからだ。
十七歳の少年は、こう言った。
――俺たちは、運ぶほうでした。
それ以上は、何も言わなかった。
奥の区画は、扉一枚で仕切られていた。
中に入ると、空気が変わった。
半円形に石段が組まれ、五十人ほどが座っている。全員が上等な服を着ていた。商人、貴族の使用人、そして司祭の法衣を着た者まで混じっている。
石段の中央下に、木の台があった。
台の上に、人が立たされていた。
碧は、そこで足を止めた。
止めたのは、その光景があまりに静かだったからだ。鎖を鳴らす者も、泣く者も、抵抗する者もいない。台の上の全員が、まるでそこに立つことが今日の業務であるかのような顔をしていた。
石段の五十人も同じだった。彼らは飲み物を手にし、隣の者と世間話をしながら、時々値を吊り上げている。午前中の牛の競りと、何ひとつ態度が変わっていない。
十人ほどが一列に並んでいる。全員が首に金属の輪をはめられ、それが一本の鎖で繋がれていた。年齢はばらばらだった。老人がいて、中年の女がいて、碧と同じくらいの若者がいる。
そして、いちばん端に子どもがいた。
小柄だった。頭に布を巻かれていて、顔はうつむいているせいで見えない。ただ、布の下から灰色の房がはみ出している。
尻尾があった。
膝の裏あたりまで届く、灰色の太い尾。それが力なく垂れて、床の藁に触れていた。
「――次、十八番」
競売人の声が響いた。
「北方産、狼系獣人の雌。推定十五歳。健康、発語可能、識字なし」
石段が、ざわついた。
さっきまで退屈そうにしていた男たちが、身を乗り出した。
「純血種でございます。近年、この品質のものは市場に出ておりません」
「開始、銀貨二百」
声が上がった。
「二百二十」
「二百五十」
「二百八十」
碧は、動かなかった。
動けなかったのではない。逆だった。動いたら、この市場を更地にする自信があった。
創造の逆向きの力は、一昨日三万の魔物に対して使ったばかりだった。あれを人間に向けてはいけないという線引きは、碧の中にかろうじて残っている。ただし、その線がどれくらい太いのかは、碧自身にもわからなかった。
だから動かなかった。手を出さないという選択が、いまの碧にできる唯一の自制だった。
八日前、召喚されてすぐの頃なら、たぶん考える前に手が出ていた。いまは、そうしなかった。ここで暴れれば、台の上の十人は混乱の中で逃がされるか、あるいは証拠隠滅のために処分される。碧はこの八日で、その程度の計算はできるようになっていた。
「三百」
値が三百に届いた。
競売人が槌を持ち上げる。
「三百、ほかにございませんか」
槌が、頂点で止まった。
碧の視界の端で、台の上の少女が一度だけ身じろぎした。値段が確定するという意味を、この子は理解している。理解したうえで、何の反応も示さないことにしている。
「五百」
碧は、片手を上げていた。
自分の口が勝手に動いたわけではない。ちゃんと考えて出した数字だった。
三百に少し上乗せする程度では、また誰かが競ってくる。競り合いが続けば、それだけ台の上の少女が晒される時間が延びる。だから、誰も追いかけてこない金額を一度で出す必要があった。
金勘定としては最悪の手だった。父が見たら呆れるだろう。それでも、この場で最も安い買い方でもあった。
石段が、静まり返った。
誰かが「倍か」と呟いた。別の誰かが振り返って、碧を見ようとした。
「……五百、入りました」
競売人の声が、わずかに上ずっていた。
石段の何人かが立ち上がり、碧のほうを覗き込もうとした。フードの下は見えない。それでも、この市場で顔を隠したまま銀貨五百枚を出す人間というのは、それ自体が情報として厄介だった。
「五百、ほかにございますか」
誰も手を上げなかった。
「五百で、落札」
槌が鳴った。
支払いは、金貨で行われた。
碧が差し出した袋は、リュシェが用意したものだった。王家の紋は入っていない。中身は彼女の私財だった。
「アオイ殿。これは貸しでございます」
「返します」
「返さなくて結構です。かわりに、最後まで付き合っていただきます」
受け渡しは、市場の裏手の小屋で行われた。
狭い土間に、少女が立たされていた。
首輪はまだ外されていない。鎖の端を、恰幅のいい商人が握っている。男は碧たちが入ってくると、その鎖を軽く引いた。犬を呼ぶときと同じ引き方だった。
少女はよろけながら半歩前に出て、それからまた動かなくなった。
「毎度ありがとうございます」
商人は揉み手をした。
「鎖と首輪は別料金でございますが、いかがなさいます」
「外してください」
「は」
「首輪を、外してください」
商人の笑みが止まった。
「……旦那。外しますと、逃げますが」
「逃げたら追いません」
「それでは商品が」
「商品じゃありません」
碧は一歩前に出た。
声を荒らげたつもりはなかった。ただ、商人の顔が急速に青くなった。土間の温度が下がったように感じられたのは、たぶん気のせいではない。
男は震える手で鍵を出し、首輪を外した。
金属の輪が、土間に落ちた。
少女は、動かなかった。
自由になった首に手を当てることもせず、うつむいたまま立っている。逃げるどころか、その場から一歩も動こうとしなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




