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第12話 灰区のビーフシチュー(後編)

これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。


主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……


 肉に塩を振り、焼いた油を張った鍋へ落とした。

 じゅう、と鳴った。

 音が先に立って、匂いが遅れて来る。脂が熱に触れて焦げる匂いだ。甘いのとも香ばしいのとも違う、腹の底を直接叩いてくる種類の匂いだった。切り口から透明な脂が滲み出し、鍋底に落ちて跳ね、そのたびに白い煙が立ち上がる。

 表面だけを固める。火を通しすぎない。この工程を飛ばすと、煮ているうちに旨味が全部出ていってしまう。父に最初に叩き込まれたのがこれだった。

 通りのほうで、誰かが立ち上がる気配がした。匂いが届いたのだ。

 中学に上がった年の夏、碧は面倒がってこの手順を抜かしたことがある。できあがったシチューを一口食べた父は何も言わずに鍋を下げ、そのまま作り直した。叱られはしなかった。ただ、作り直された鍋の味が答えだった。

 あれから四年たって、碧はまだ同じ手順を守っている。

 玉ねぎを炒める。

 最初は、水の音がする。薄く切った玉ねぎが鍋の熱で汗をかき、しゃりしゃりと軽い音を立てながら嵩を減らしていく。この段階の匂いは、まだ刺す。目に来る。

 それが十分ほどで変わる。音がしゃりしゃりから、ぱちぱちへ。透明だった端が茶色を帯び始め、匂いから刺すものが抜けていく。

 二千個ぶんの玉ねぎが飴色になるまでの時間だけは、どうやっても短縮できなかった。碧は十二の鍋を同時に見ながら、木べらを動かし続けた。

 三十分後、鍋の中身は元の五分の一になっていた。茶色い。甘い。玉ねぎだったものが、まったく別の何かに変わっている。

 この匂いを嗅いで、腹が鳴らない人間はいない。

 いつの間にか、手伝う者が現れていた。

 灰区の住人だった。最初は一人の中年女が黙って隣に立ち、木べらを取った。それが二人になり十人になり、やがて五十人を超えた。誰も碧に指示を求めなかった。何をどうすればいいのかを訊く者もいなかった。ただ鍋の前に立って、目の前の作業を始めた。

 碧にはその気持ちがわかった。三年ぶんの無為を身体が覚えている人間にとって、手を動かせる場所があるというのは、たぶん治癒よりも効く薬だった。

「あんた」

 最初の女が、玉ねぎを混ぜながら言った。

「何もんだい」

「天野碧です」

「そうじゃない。あんた、これ、いつもやってんのかい」

「実家が洋食屋なので」

「よう、しょく」

「……飯屋です」

 女は、ふん、と鼻を鳴らした。

「道理で。手つきが、お偉いさんのそれじゃない」

 碧は、その一言でようやく肩の力が抜けた。

 王都に来て八日。初めて、対等な口の利かれ方をした気がした。

 焼いた肉を鍋へ戻し、飴色の玉ねぎと、ぶどう酒を注いだ。

 酒が熱い鍋底に触れた瞬間、しゅわ、と大きな音を立てて湯気が噴き上がった。鍋にこびりついていた焦げが浮いて溶けていく。ここに旨味の半分が貼りついている。

 水を足し、香草を放り込む。別の鍋で小麦粉をバターで炒って作ったルウを、少しずつ溶いた。ルウが混ざるにつれて、茶色い液体がとろりと重くなっていく。木べらを引くと、跡が一瞬だけ残って、それからゆっくり閉じた。

 あとは、待つ。

 三時間、待った。

 待っているあいだじゅう、匂いが育っていった。

 最初の一時間は肉の匂いだった。焼いた脂と香草の匂いが強く出て、通りの端まで届いた。

 二時間目で、それが丸くなる。玉ねぎの甘みが肉の匂いを包んで、角が取れていく。

 三時間目の匂いは、もう名前をつけられない。肉でも玉ねぎでも酒でもない、そのどれでもある匂いだった。実家の店で、日曜の午後にだけ立ち上る匂いだ。

 その三時間は、碧にとって久しぶりに何もしなくていい時間だった。この八日間、碧は常に何かを作っていた。水道を通し、壁を建て、魔物を消し、その合間に書類に署名をしていた。鍋の前で待つというのは、それらとはまったく種類の違う時間の使い方だった。

 その三時間のあいだ、灰区の通りは奇妙な熱気に包まれていた。誰もが鍋の周りに集まり、匂いを嗅ぎ、時々かき混ぜ、そして待っていた。子どもたちが炉の周りを走り回り、大人がそれを叱り、叱られた子どもがまた走った。

 碧は、その光景を見ていた。

 三時間前まで、この通りには誰も立っていなかった。


 配り始めたのは、日が落ちてからだった。

 最初の一杯を受け取ったのは、あの熱で寝ていた女の子だった。

 碧がしゃがんで椀を渡すと、女の子は両手でそれを受け取った。

 まず、湯気を見た。

 顔を近づけて、匂いを嗅いだ。嗅いでから、一度だけ碧の顔を見上げた。飲んでいいのかを確かめる目だった。碧が頷くと、少女は匙を握り、ほんの少しだけ掬って口へ運んだ。

 止まった。

 碧は、その顔をずっと覚えていることになる。

 驚きでも感動でもなかった。その子はただ何が起きたのかわからないという顔で、椀の中を見下ろしていた。口の中に入ってきたものを、自分の知識のどこにも分類できずにいる表情だった。

「……あまい」

「甘いです。玉ねぎが」

「たまねぎ、あまいの」

「時間をかけると、甘くなります」

 女の子は、もう一口飲んだ。

 今度は掬う量が多かった。三口目でさらに多くなり、四口目からは椀を持つ手に力が入っていた。誰かに取られるかもしれないという持ち方だった。

 泣かなかった。泣く前に、食べていた。

 その光景が、通り全体に広がっていった。

 泣いている者もいたが、ほとんどは泣いていなかった。泣くより先に、食べていた。

 食べ方は、それぞれ違った。

 老人は、時間をかけて噛んでいた。肉の一切れを三十回以上噛んで、それから飲み込む。歯が弱いのではない。終わらせたくないのだ。

 中年の男たちは、速かった。椀の底が見えるまでの時間が、ほとんど同じだった。

 子どもは、ばらばらだった。夢中で掻き込む子がいて、一口ごとに周りを見回す子がいて、椀を抱えたまま動かない子がいた。動かない子の前に、碧はもう一杯置いた。

 碧は鍋の縁に手をついて、その音を聞いていた。

 匙が椀に当たる音がしていた。それが四千人分、同時に鳴っている。

 実家の店の昼の混雑時と同じ音だった。土曜の一時前、席が全部埋まって、誰も喋らずに食べている数分間。父はその時間がいちばん好きだと言っていた。

 碧はその意味を、ようやく理解した気がした。


「アオイ殿」

 声をかけてきたのは、さっきの中年女だった。

 名をハンナといった。三年前に流行り病で灰区へ送られ、そこで生き延びていた。

「ひとつ、聞いてもいいかい」

「どうぞ」

「あんた、明日もここに来るかい」

「来ます」

「そうかい」

 ハンナは鍋の底をさらいながら、そっけなく言った。

「なら、言っとく」

 その言い方で、碧は身構えた。

 この女は最初から、ここまで話すつもりで隣に立っていたのだ。玉ねぎを炒めながら、椀を配りながら、この若造が信用に値するかどうかを半日かけて測っていた。

 女の手が、止まった。

「ここ、去年から子どもが減ってる」

 碧は、顔を上げた。

「病気でですか」

「病気なら、死体が出る。出てないんだよ」

 ハンナは通りの奥を顎で示した。

「夜中に、門が開く日がある。月に二、三回だ。朝になると、子どもが何人かいなくなってる」

「……どこへ」

「知らないよ。あたしらは、聞いちゃいけないことになってる」

 女は椀を置き、初めて碧の目を見た。

「でもね、うちの並びにいた娘っ子は、五つだった。耳が長くてね、獣人の子だった」

 碧の手の中で、木べらが止まった。

「獣人の子は、高く売れるらしいよ」


 ハンナが鍋を片付けに行ったあと、碧はしばらく炉の前に残った。

 通りではまだ人が食べている。四千人分の器を洗う作業が始まっていて、その水音があちこちから聞こえてきた。

 隣に、ミリアが座った。

 帳面は持っていなかった。この少女が帳面を持たずに碧の隣に座るのは、たぶん初めてだった。

「アオイ様」

「どうした」

「この通りの、三つ目の長屋でございます」

 ミリアは、通りの先を指した。

「三年前、そこに二人おりました」

 碧は、その指の先を見た。

 何の変哲もない長屋だった。いま、その軒先では治ったばかりの老人が二人、並んで椀を傾けている。

「名前を、申し上げてもよろしいでしょうか」

「聞く」

「……ネラさんと、ヨナです」

 少女の声は、事務的だった。事務的にしないと言えないのだと、碧にはわかった。

「ネラさんは、わたしの母の友人でございました。宿の洗濯を手伝ってくださる方で、指が太くて、力が強くて、シーツを絞るのがとても上手でした」

「うん」

「三年前の夏に熱を出して、三日目に役人が来ました」

 ミリアは膝の上で手を組んだ。

「連れていかれるとき、ネラさんは荷物を持っておりませんでした。すぐ戻ると言っておりましたので」

 碧は、黙って聞いていた。

「ヨナは、五つでした」

 少女の声が、少しだけ変わった。

「うちの二軒隣の子でございます。男の子で、いつも宿の裏で遊んでおりました。わたしが帳簿をつけていると、足元に座って数字を読むのを聞きたがりました」

「数字を」

「はい。三十七、とか、二百十二、とか。意味はわからないのに、面白かったようでございます」

 ミリアは、そこで一度言葉を切った。

「ヨナが連れていかれたのは、ネラさんの八日後でございます。同じ熱でございました」

 碧は、灰区の通りを見渡した。

 四千人がそこにいる。治って、食べて、話している。そのどこにも、二人はいない。

「ミリア」

「はい」

「今日、探したか」

 少女の肩が、跳ねた。

「……探しました」

 声が、震えた。

「門を入ってすぐ、探しました。四千人おりますので、時間はかかりましたが、炊き出しの列を配りながら、全員の顔を見ました」

「そうか」

「おりませんでした」

 ミリアは、膝の上の手を強く握った。

「三年でございます。三年、ここに配給が来ていなかったのでございますから、おりませんでした」

 碧は、何も言えなかった。

 言うべき言葉を探して、見つからなかった。この少女は三年前から答えを知っていて、それでも今日ここへ来て、四千人の顔を全部確かめたのだ。

「アオイ様」

「うん」

「わたしが記録を取るのは」

 ミリアは顔を上げた。

「名前が残らないからでございます」

 炉の火が、小さく爆ぜた。

「灰区の台帳は、二年前で止まっておりました。死んだ者の欄は、疫の一字だけでございます。ネラさんも、ヨナも、その一字になりました」

 少女の声は、もう震えていなかった。

「わたしは、それが我慢なりませんでした」

「だから、書いてるのか」

「はい」

「全部か」

「全部でございます」

 ミリアは、そう答えた。

「井戸の数も、椀の数も、アオイ様が何を召し上がったかも、全部書いております。無駄だと言われます。ですが、書いておけば、後から誰かが数えられます」

 碧は、その横顔を見ていた。

 この少女が帳面を手放さない理由を、碧は八日かけてようやく知った。

「ミリア」

「はい」

「今日の分、何人書いた」

「四千百二十三名でございます」

「全員の名前か」

「全員の名前でございます」

 ミリアは、そう言った。

「本日、門を出た者は一人もおりません。ですから、四千百二十三名は全員生きております」

 碧は、その数字を聞いた。

 そして、初めてこの帳面が何なのかを理解した。

 これは記録ではない。名簿だった。誰も一字にしないための名簿だ。

「ミリア」

「はい」

「俺の名前、書いてあるか」

 少女は、きょとんとした顔をした。

「……一行目でございます」

 通りでは、まだ四千人が食べていた。

 匙の音と、子どもの笑い声と、誰かが誰かを呼ぶ声が混ざっている。半日前には音のなかった場所で、生活の音が鳴っていた。

 碧はその音を聞きながら、木べらを鍋の縁に立てかけた。

「ハンナさん」

「なんだい」

「明日、また来ます。鍋は置いていきます」

「そうかい」

「それと、もうひとつ約束します」

 碧は顔を上げた。

「ここの門、なくします」

 ハンナの手が止まった。

 女はしばらく碧を見て、それから鼻を鳴らした。

「安請け合いすると、覚えてるよ」

「覚えててください」

 門の向こうでは、日がすっかり落ちていた。

 リュシェはまだそこに立っていた。碧と目が合うと、王女は小さく頷いた。今夜のうちに動くという合図だった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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