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第12話 灰区のビーフシチュー(前編)

初評価!

ありがとうございます。

⭐︎5をいただけるよう頑張りたいと思います。


これは、異世界に呼ばれた高校生が、もらいすぎた力で水を通し、飯を作る話です。


主人公は強いです。たぶん、作中の誰よりも。けれど彼が三万人の前に立って最初に言うのは、救えるかはわからない、でも飯なら作れる、という一言だけでした……


――夏の盛りまで、あと一日。


 王都へ戻ったのは、翌日の昼だった。

 北の砦での一夜は、碧にとって奇妙な時間になった。三万の魔物を退けた男として扱われるのかと思っていたら、実際に起きたのは千五百人ぶんの洗い物と、朝までかかった配膳の後片付けだった。おかわりを配って回るうちに夜が明け、気がついたら兵たちと一緒に中庭の石段に座って、堅パンをかじっていた。

 帰りの車では、全員が眠っていた。ゴルドーだけが起きていて、ずっと外を見ていた。

「若いの」

 老人が、風の音に紛れるような声で言った。

「昨日、記録をつけなかったと言ったな」

「数えてませんでした」

「それでいい。数え始めたら終わりだ」

 碧は、その言葉の意味を訊かなかった。訊かなくても、なんとなくわかった気がしたからだ。

 王都の門をくぐったとき、待っていたのは歓声だった。

 早馬が先に着いていたらしい。北の砦が守られ、犠牲者がゼロだったという報せは、碧が帰還するより六時間も早く市民に届いていた。門から中央広場まで、人が二列に並んで道を作っていた。

 碧は車を降り、歩いた。

 歩きながら、自分が笑えていないことに気づいた。

 悪い気分ではなかった。ただ、この歓声の量と、昨日自分がやったことの間に、うまく橋がかからない。三万の魔物を消したという事実を、碧自身がまだ処理しきれていなかった。

「アオイ殿」

 隣を歩くリュシェが、前を向いたまま言った。

「顔が硬いです」

「わかりますか」

「わたくしは十九年これをやっております。作り笑いの善し悪しなら、この国で三本の指に入ります」

「自慢になってませんよ」

「自慢ではございません」

 王女は小さく息を吐いた。

「無理に笑わなくてよろしい。あなたが笑わないと、民は不安になります。ですが、笑える者が笑うほうがよほど自然です」

 そう言って、リュシェは沿道に向かって完璧な微笑みを作った。

 歓声が、一段大きくなった。

 碧は素直に感心した。この人は、たぶん自分よりずっと強い。


 城に戻って半日、碧は報告書の山に埋もれていた。

 北の砦の件、南の水道の件、ギルド登録の件。どれも碧がやったことなのに、碧の手元には書類しか残らない。文官たちは嬉々として碧の署名を集めにきて、そのたびにリュシェが内容を検めてから通していた。

 日が傾いた頃、ミリアが部屋に飛び込んできた。

 扉を叩いていない。この少女がそれをやるのは初めてだった。

「アオイ様」

「どうした」

「見つけました」

 ミリアは卓の上に一冊の台帳を置いた。埃をかぶっている。神殿の記録庫の奥から掘り出してきたものらしく、彼女の袖口が灰色になっていた。

「南の水道を引いたとき、わたし、ずっと数が合わないと思っておりました」

「数」

「人口でございます」

 少女は台帳を開き、指で一行をなぞった。

「南の区画の人口は三万五千と記録されております。ですが、昨日わたしが井戸ごとの利用者を数えましたら、三万一千二百ほどにしかなりませんでした」

「四千人、足りない」

「はい」

 ミリアは別の頁をめくった。

 そこには、王都の地図の写しが貼ってある。南の区画のさらに南、外壁のすぐ内側に、小さな区画が斜線で塗り潰されていた。

「ここは」

「灰区でございます」

 その名を口にしたとき、ミリアの声がわずかに低くなった。

「疫を得た者が送られる場所です。壁で囲まれ、門は一つ。中へ入った者は、出てまいりません」

 碧は、その斜線を見つめた。

 昨日、南の全域を歩いたつもりでいた。井戸を掘り、下水を通し、千人の住民に囲まれて歩いた。その半日のあいだ、誰一人としてこの区画の話をしなかった。

「なんで、誰も言わなかったんだ」

「言えないのです」

 ミリアは台帳を閉じた。

「灰区の者を身内に持つと、その家族も出入りを制限されます。ですから皆、身内が送られたことを黙ります。黙ったまま、いないことにします」

「ミリアは、なんで知ってる」

「わたしの家の並びに、二軒ございました」

 少女はそこで一度、言葉を切った。

「一軒は、母親が。もう一軒は、五つの男の子でした。どちらも三年前の夏です」

 碧は立ち上がった。

「案内してくれ」

「……はい」

「あと、ダインさんとリュシェ様を呼んでくれ。それから」

 碧は少し考えた。

「騎士団の宿舎から、三人連れてきてくれるか」


 灰区の門は、思っていたより粗末だった。

 高さ五メートルほどの石壁に、木の扉が一枚。その前に番小屋があり、槍を持った男が二人立っている。壁の上に見張り台はなく、警備は最小限だった。

 逃げ出す者がいない、ということなのだろう。逃げるだけの体力が残っていないのだ。

「勇者様」

 門番の男は、碧の顔を見ると露骨に青ざめた。

「こ、ここは、お立ち寄りになる場所では」

「開けてください」

「なりませぬ。ここへ入れば、勇者様とて」

「病気はうつりません」

 碧は自分の胸を指した。

「毒も効かないので、たぶん病気も無理です。試したことはないですけど」

「試したことはない、と」

「今日、試します」

 門番は救いを求めるようにリュシェを見た。王女は無表情に頷いた。

「開けなさい。責任は王家が持ちます」

 閂が外された。

 扉が開いた瞬間、匂いが来た。

 碧は、それを嗅いだことがなかった。腐敗とも汚物とも違う。もっと乾いた、人間の身体が内側から弱っていくときの匂いだった。

 ダインが一歩前に出て、碧の進路を塞ごうとした。

「アオイ殿。せめて、わたくしが先に」

「ダインさん」

「はい」

「あなたは病気がうつります」

 剣聖は動きを止め、それから唇を噛んで道を譲った。

 碧は、灰区へ入った。


 中は、思っていたよりも静かだった。

 叫び声もうめき声もない。石造りの長屋が四列に並んでいて、その軒先に人が座っている。座ったまま動かない。こちらを見る者は何人かいたが、誰も立ち上がらなかった。

 長屋の壁には落書きがあった。子どもの背丈の高さに、棒人間のような絵がいくつも並んでいる。描いた者がまだここにいるのかどうかは、碧には確かめようがなかった。

 立ち上がるという動作に、意味を見いだせないのだ。

 碧は通りの真ん中で足を止め、周囲を見渡した。

 治癒の祝福が、勝手に働き始めた。

 見えた。

 軒先の老人は、肺をやられている。もう三年近く咳をしていて、肋骨が二本折れている。その隣の女は、腸に寄生虫がいる。さらに奥の男は、ただの栄養失調だった。病気ですらない。飯を食っていないだけだ。

 一軒目の奥に、子どもが三人いた。

 うち一人は、熱で意識がない。

 碧は、目を閉じた。

 見えているものが多すぎた。四千人ぶんの不具合が同時に頭へ流れ込んできて、そのひとつひとつに名前と原因と経過がついている。処理しきれる量ではない。

 それでも、一番奥で意識を失っている子どもの体温だけは、はっきりと数字になって残った。

 碧は目を開いた。

「ミリア」

「はい」

「何人いる」

「記録では、四千百二十三名。ですが、直近の更新が二年前の秋でございます」

「じゃあ、実数はわからないな」

「……わかりません」

 碧は両手を、地面に向けた。

 この八日間で覚えたことがある。この力は、規模を大きくしても難しくならない。一人を治すのも四千人を治すのも、碧にとって必要な手間はほとんど変わらなかった。

 やり方は、考えるまでもなかった。ここまで来れば、治癒というのは一人ずつ手を当てるものではない。この区画全体を一つの範囲として指定して、その中にあるすべての不具合を、同時に修正すればいい。

 問題は、それをやっていいのかということだった。

 碧は一秒だけ迷い、そしてやめた。迷っている間にも、奥の子どもの熱は上がっている。

 光は出なかった。

 かわりに、空気が一度だけ、大きく揺れた。

 軒先の老人が、咳き込むのをやめた。

 女が、腹を押さえていた手を離した。

 栄養失調の男が、自分の腕を見下ろして、そこに戻ってきた肉を撫でた。

 誰も、声を出さなかった。

 何が起きたのか、わからなかったのだ。

 最初に動いたのは、一軒目の子どもだった。

 熱で意識のなかった女の子が、目を開けて、身体を起こした。それから、自分の手を見て、足を見て、立ち上がった。

 その子が立ったことに、隣にいた二人の子どもが気づいた。

 そこから先は、波だった。

 一人が立ち、二人が立ち、十人が立った。長屋の奥から人が出てきた。通りに人が溢れた。誰もが自分の身体を確かめ、それから隣の人間の身体を確かめ、そして碧を見た。

 四千人が同時に立っていた。

 通りを埋めた人々の顔には共通した表情が浮かんでいた。喜びではない。信じていないのだ。二年も三年も痛みを抱えて生きてきた身体から、その痛みが一瞬で消えたという事実を、脳のほうが受け付けていなかった。

 何人かは自分の胸を何度も叩いていた。何人かは隣の人間の腕を掴んで揺すっていた。目の見えなかった老婆が壁に手をついたまま動けずにいて、その周りを家族が取り囲んでいた。

 碧は、その光景の中心に立ったまま何も言えなかった。


 問題は、そのあとに来た。

 歓声が上がるだろうと思っていた。実際、最初の数分はそうだった。だがそれは、すぐに別の種類のざわめきに変わった。

「……治った」

「治って、それで」

「どこへ行けばいい」

 碧は、その呟きを拾ってしまった。

 治った。だから、どうする。

 この人たちは二年前や三年前にここへ送られている。その時点で家族の帳面からは消されていて、多くの家ではすでに葬式まで済ませているはずだった。

 仕事はない。金もない。手に職があった者も、三年のあいだに居場所を失っている。門を出たところで帰る家がないという点では、全員が同じ条件に置かれていた。

 碧はそこで初めて、治すという行為の限界に触れた気がした。身体を直しても、その身体が戻る場所まで作ってやれるわけではない。

 そして、全員が空腹だった。

 碧は、治癒のついでにそれも見ていた。四千人のうち、まともに飯を食えている者は一人もいない。灰区への配給は、三日に一度、薄い粥が届くだけだった。

 碧は振り返った。

「ミリア」

「はい」

「食材が要る。城の備蓄を全部出してもらいたい」

「四千人分でございますか」

「四千人分だ。足りないなら、ギルドと商人に買い付けを頼む。金は」

「金は、王家が出します」

 背後からリュシェの声がした。

 王女は門のところに立っていた。中へは入れない。それでも、外へは一歩も出ていなかった。

 門の内側と外側の境目に爪先を揃えて立ち、背筋を伸ばしたまま、四千人の立ち上がった通りを見ている。その姿を見た灰区の住人が何人か、足を止めて彼女を見返していた。

 この国の王女が自分たちを見ている。それだけのことが、ここでは十年ぶんの出来事だった。

「アオイ殿。わたくしの権限で出せるのは、備蓄の三割までです。残りは父上の許可が要ります」

「間に合いますか」

「間に合わせます」

 リュシェは踵を返し、走り出した。

 王女が走るのを、碧は初めて見た。


 炉を二十基、通りに並べた。

 鍋は三十。全部その場で作った。碧は袖をまくり、門から運び込まれてくる荷を次々に確認していった。

 王家の備蓄倉から出された荷車が三十台。ギルドが買い集めた分が二十台。商人組合が自主的に寄越した分が十五台。最後のものについては、碧は誰にも頼んでいなかった。

 牛肉が三十頭分。玉ねぎが二千。人参、セロリ、じゃがいも。小麦粉。バター。ぶどう酒が樽で十二。

 碧はそれを見て、作るものを決めた。

 迷いはなかった。この材料で四千人を温めるなら答えはひとつしかない。それに、腹を空かせた人間に最初に出すものとして、父が選び続けてきた一皿でもあった。

 碧は袖をもう一段まくり上げた。

「ビーフシチューを作ろうと思います」

 誰もその名前を知らなかった。

 碧は説明しなかった。かわりに、肉を切り始めた。

 三十頭分の塊肉を、拳大に落としていく。

 包丁が筋に当たるたび、みし、と低い音がした。冷えた肉は切ると断面が白く光る。厚く切った。煮込みの肉は小さくすると存在感が消える。噛んだときに歯が押し返される厚みがないと、腹は満ちても記憶に残らない。

 手が止まらなかった。剣技の祝福が包丁にも効くのか、あるいは十年ぶんの厨房の経験のおかげなのか、碧自身にもわからない。ただ、これだけは誰に教わるまでもなく身体が知っている。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。


(更新:毎日8時投稿予定)

隠岐群青

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