第11話 スタンピード(後編)
第2シーズンは、楔を抜く話です。
一本抜くたびに土が戻り、何十年も涸れていた井戸に水が湧きます。そのかわり、主人公の中から何かがひとつ減ります。
減ったぶんは、誰かが代わりに持ちます。痛がる子がいて、止める王女がいて、疑う闇将がいて、全部を書き留める記録係がいます。
主人公は、まだ強いです。ただ今回は、強さだけでは戻せないものに、初めて出会います。
それでも彼は、行く先々で、やっぱり飯を作ります。
やがて群れは完全に向きを変え、森へ向かって走り出した。
来たときと同じ地響きが、今度は遠ざかっていく。その音が小さくなっていく時間は、ひどく長く感じられた。地平の向こうで黒い帯が細くなり、やがて森の輪郭に溶けて見えなくなるまで、碧はその場を動かなかった。
城壁の上は、無音だった。
千五百人が、誰ひとり声を出さなかった。
最初に音を立てたのは、弓を落とした若い兵だった。
トルグは城壁の縁に手をついて、そのまま座り込んだ。膝が笑って立てないらしい。それが伝染した。三十秒後、城壁の上のほぼ全員が座り込んでいた。
レンドルだけが立っていた。
砦司令代理は、谷の出口に立つ碧の背中を見つめたまま、微動だにしなかった。
碧が城壁へ戻ったとき、千五百人が道を空けた。
誰も声をかけなかった。かけられなかったのだ。
レンドルが、碧の前に立った。
「……お尋ねしてよろしいでしょうか」
「はい」
「何体、倒されましたか」
「数えてません」
男の顔が、わずかに歪んだ。
「わたくしどもは、一体につき記録をつけます。誰が何を倒したかを。遺族への報告に必要ですので」
「……そうですか」
「本日、その記録は不要になりました」
レンドルは片膝をついた。
「千五百名、全員生存しております」
碧は、返す言葉を探した。
一体につき記録をつける、という言葉が耳に残っていた。誰が何を倒したかを書き留め、その積み上げで遺族に報告する。この砦では、それが当たり前の業務だったのだ。
今日その記録が不要になったということは、今日この砦から一通の訃報も出ないということだった。
探しているうちに、城壁の上から声が上がった。最初は一つ、それが二つになり、やがて千五百になった。言葉になっていない。ただの叫びだった。
その中で、碧は別のことを考えていた。
魔物が、逃げた。
理性のない魔物は逃げない。それがこの世界の常識だと、ギルドの道中でゴルドーが言っていた。スタンピードは止まらないから恐ろしいのだと。
なのに、逃げた。
つまり、あの群れにはまだ理性が残っていた。残っていたのに、押し寄せてきた。
碧は、城壁の外へ目をやった。
壁の向こうには、自分が作った五本の壁が残っている。その手前の地面には、踏み荒らされた土と、折れた木と、無数の足跡があった。死骸はほとんど残っていない。碧が消した分は、最初から存在しなかったかのように何も残していなかった。
その不自然さが、かえって引っかかった。
碧は壁を降り、谷の入口まで歩いた。
踏み荒らされた土の上に、魔物のものではない品が落ちていた。
荷車の車輪の破片。子ども用の革靴が片方。布に包まれたままの干し肉。どれも土に半分埋まっていて、群れに踏まれた跡がついている。
森の縁で商いをしていた行商の一家のものらしい、と後ろから来たレンドルが言った。森が動き出す前に逃げ込んだ者がいたかもしれない、とも。
碧は、その品々をしばらく見下ろしていた。
谷を抜けてきたものは、全部消した。順番に、まとめて、構成を解いた。そこに何が混ざっていたのかを、碧は確認していない。
確認していないのではない。確認しないと決めたのだ。
谷の出口で、碧はそれを一秒で判断した。判断は正しかったと思う。あの一秒を別の使い方にしていたら、砦は抜けていた。
ただ、正しかったことと、確かめなかったことは別の話だった。消したものは残らない。数えていれば、あるいは数が合ったかもしれない。碧は数えなかった。
だから、いなかったのかもしれない。いたのかもしれない。
どちらとも言えないまま、これは永久に閉じない。
碧は自分の胸に手を当てた。
心拍は、ひとつも上がっていなかった。
「レンドルさん」
「はい」
「魔物は、なんで森から出てきたんですか」
男が、顔を上げた。
「……といいますと」
「餌ならあるはずです。森のほうが広いし、隠れる場所もある。わざわざ人間の砦に突っ込んでくる理由が、俺にはわかりません」
レンドルは答えなかった。
かわりに答えたのは、ゴルドーだった。老人はいつの間にか碧の隣に来ていた。
「出てきたんじゃない。追い出されたんだ」
「追い出された」
「森の奥で、何かが起きておる。ここ三年、ギルドには似た報告が上がってきておった。北の森、東の湿地、西の岩山。どこも魔物が縁へ押し出されてきておる」
ゴルドーは、森を睨んだ。
「原因はわからん。だが、森の中心に何かがある」
碧は、地面に手を当てた。
目を閉じる。
地脈が見えた。南の井戸で見たのと同じ、地下を流れる力の道。それが、森の中心に向かって収束している。
そして、その収束点で、道が捻じ曲げられていた。
何かが刺さっている。
細く、長く、この世界のものではない質感をした何かが、地脈の本流に真っ直ぐ突き立っていた。
碧は目を開けた。
「……あります。何かが」
「見えるのか」
「北へ、たぶん六十キロくらい。森の真ん中です」
ゴルドーが、碧を見た。片目が鋭くなっていた。
「行くのか」
「行きます。でも今日じゃありません」
森の中心に何かがあるとして、それは昨日や今日に刺さったものではない。三年前から報告が上がっていたのなら、少なくとも三年はそこにある。
ならば、今日はまだ先にやることがあった。
碧は立ち上がり、城壁の上の兵たちを見渡した。
千五百人が、まだ泣いていたり、抱き合っていたり、座り込んだままだったりしている。
「先に、飯を作ります」
「……は」
「千五百人分です。鍋、足りますか」
レンドルが、口を開けたまま動かなくなった。
その横で、ゴルドーが声を上げて笑い始めた。老人は笑いながら城壁の縁を叩き、それから涙を拭って言った。
「やれ。この砦の連中は、三日前から干し肉と堅パンしか食っておらん」
結局、鍋は足りなかったので作った。
碧は砦の中庭に炉を十二基並べ、鍋を二十据えた。材料は砦の備蓄を全部出させた。塩漬けの肉と、乾燥した豆と、芽の出かけた根菜。上等なものは一つもない。
それでも、やれることはあった。碧は豆を先に戻し、肉の塩を抜き、根菜の芽を落とし、そこへ創造で作った香草と油を足した。
ニナとミリアが配膳を仕切り、リュシェが列の整理をし、ダインが薪を割った。王女が兵に椀を手渡すたびに、受け取った側が硬直するという場面が何度も繰り返された。
最初に食べたのは、弓を落としたあの若い兵だった。
トルグは椀を両手で持ち、ひとくち飲んで、そこで止まった。
それから、また泣き出した。
「……すみません。今日、泣いてばかりで」
「いいんじゃないですか」
碧は次の椀をよそいながら言った。
「今日は、そういう日です」
その夜、碧は砦の見張り台にいた。
千五百人分の後片付けが終わり、兵たちは交代で眠りについている。碧は眠る必要を感じなかったので、上に登った。谷の向こうの森が、月明かりで銀色に見えた。
階段を上ってくる音がした。
リュシェだった。
王女は何も言わずに隣に立ち、それから腰を下ろした。石の床に、直接。王女がそういう座り方をするのを、碧は初めて見た。
「アオイ殿。お時間、よろしいでしょうか」
碧は頷いた。
「読んでいただきたいものがございます」
差し出されたのは、三枚の紙だった。
古い。四隅が擦り切れて、折り目のところが薄くなっている。何度も開いては閉じられた紙だった。
「これは」
「四年前、わたくしが書いたものでございます」
碧は、受け取った。
言語理解の祝福で、文字は一目で読める。だが碧はあえてゆっくり読んだ。
一枚目は、南の区画への給水計画だった。井戸を十二本掘り、北の水脈から管を引く。必要な予算と人員と工期が、細かく書かれている。
二枚目は、獣人の法的地位について。国民の定義に「人間」以外を含める改正案。
三枚目は、灰区の段階的解消計画だった。
「……三枚目、灰区のこと書いてありますね」
「ええ」
「四年前に」
「十五歳のときでございます」
リュシェは膝を抱えて、谷のほうを見ていた。
「宰相府に提出いたしました。三日後に呼ばれ、たいへん立派な文書であると褒められました」
「そのあとは」
「時期尚早である、と」
王女は、淡々と言った。
「一枚目の給水計画には、工期が三年と書いてございます。四年前に通っていれば、去年の夏には水が出ておりました」
碧は、紙の端を見た。
三枚とも、右下が特に薄くなっていた。親指で押さえて、何度も読み返した跡だった。
「よく読んでたんですね」
「……お恥ずかしい話でございます」
リュシェは目を伏せた。
「年に何度か、引き出しから出して読み返しておりました。どこが悪かったのかを探すためでございます。書き方が拙かったのか、数字が甘かったのか、出す相手を間違えたのか」
「どこも悪くないです」
「そう思っておりました」
王女は、自分の膝を見下ろした。
「十五の頃は、そう思っておりました。十八になるころには、悪かったのは書類ではなく、書いたのがわたくしだったからだと思うようになりました」
碧は、何も言わなかった。
この人がこういう話し方をするのを、初めて聞いたからだ。
「王女という立場は、おかしなものでございます」
リュシェは、少し笑った。
「言葉は誰よりも届きます。父に会えますし、大臣に会えますし、書類を出す資格もございます。ですが、決める権限だけがない」
「……」
「届くのに、動かない。これほど無力な立場も、そうはございません」
夜風が、谷を吹き抜けた。
碧は三枚の紙を膝に置いたまま、しばらく黙っていた。
「リュシェ様」
「はい」
「これ、俺が読んだのは何人目ですか」
王女の動きが、止まった。
しばらくして、小さな声が返ってきた。
「……二人目でございます」
「一人目は」
「書いた本人でございます」
碧は、紙をもう一度読み返した。
四年間、この三枚を読んだ人間は、この世に一人しかいなかったことになる。
碧は紙を丁寧に折り、王女に返した。
「一枚目は、もう要りません」
「……そうですね」
「二枚目も、これから通します」
「はい」
「三枚目も、まだです」
碧は言った。
「灰区、まだ手をつけてません。戻ったら行きます」
リュシェは、三枚を受け取ったまま動かなかった。
やがて、顔を伏せたまま言った。
「アオイ殿」
「はい」
「わたくしは、この四年間で一度も泣いておりません」
「はい」
「本日も、泣きません」
王女の声は、しっかりしていた。
ただ、三枚を持つ手だけが震えていた。
碧は、その手の上に自分の手を置いた。
それ以上は、何もしなかった。二人はそのまま、谷が白み始めるまで見張り台にいた。
同じ頃、森の中。
巨木の枝の上に、一人の男が立っていた。
赤い髪を無造作に後ろへ流し、褐色の肌に古い火傷の跡が走っている。背は二メートルを超え、両腕には枷のような金属の輪がはまっていた。
魔王軍四天王が一人、炎将ガルム。
彼は谷の出口を見ていた。六十キロ離れた地点から、魔族の視力はそこまで届く。
「……一人で、止めやがった」
声は低く、掠れていた。
ガルムは自分の右手を見た。
震えている。恐怖ではなかった。千年を生きた魔族の身体が、六十キロ離れた場所にいる存在に対して、勝手に反応していた。
これは、格上を前にしたときにだけ起きる現象だった。ガルムがこれを経験したのは、生涯で一度きりしかない。主君ヴァルガルドに初めて会った日だ。
あの日、ガルムはまだ二百歳にもならない若い炎の魔族で、魔王領の東で好き放題に暴れていた。討伐に来たヴァルガルドを前にして、彼は剣を抜くことすらできなかった。
あれから八百年。二度目が来るとは思っていなかった。
武器を抜くな、と主君は言った。
兵は連れるな、とも。
あのとき、ガルムはその命令を理解できなかった。
いまは、わかる。
抜いたところで、意味がない。
「陛下は、これを見越しておられたのか」
炎将は枝を蹴った。
南へ向かって、一人で。
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(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




