第11話 スタンピード(前編)
第2シーズンは、楔を抜く話です。
一本抜くたびに土が戻り、何十年も涸れていた井戸に水が湧きます。そのかわり、主人公の中から何かがひとつ減ります。
減ったぶんは、誰かが代わりに持ちます。痛がる子がいて、止める王女がいて、疑う闇将がいて、全部を書き留める記録係がいます。
主人公は、まだ強いです。ただ今回は、強さだけでは戻せないものに、初めて出会います。
それでも彼は、行く先々で、やっぱり飯を作ります。
おはようございます。
私もそうですが、今日からお仕事の方多いと思います。
大変かとお思いますが頑張ってくださいね。
私も頑張ってきます!
馬は、いらなかった。
碧がギルドの前の通りで手をかざすと、石畳の上に骨組みが生えた。車輪が四つ、その上に箱があり、前方に流線型の頭部が突き出している。屋根はなく、座席が六つ並んでいた。
「……これは」
ダインが、顔を引きつらせた。
「馬車です。馬がいないやつ」
「何が引くのでございますか」
「引きません。押します」
碧は後部に手を当て、そこへ構造を追加した。空気を後ろへ押し出す仕組みを二基。動力は魔力ではなく、圧縮した空気の膨張にした。碧がいなくても動くようにしておきたかった。
「乗ってください」
誰も乗らなかった。
「……アオイ殿」
リュシェが、珍しく声を硬くしていた。
「これは安全なのですか」
「たぶん」
「たぶん」
「乗り物を作るのは初めてなので」
背後で、ギルドマスターのゴルドーが吹き出した。
老人は誰より先に座席へ飛び乗り、手すりを掴んだ。
「俺は乗る。死んだら記録に残る」
「マスター、それ記録の意味が違います」
受付嬢のニナが悲鳴を上げた。彼女は緊急連絡の伝令役として、なぜか一緒に来ることになっていた。
結局、全員が乗った。ダインは最後まで難色を示していたが、リュシェが乗ったので従うしかなかった。
碧が前方の座席に着き、右手を操作盤に置く。
車体が、浮いた。
正確には、車輪が石畳から二センチほど離れた。
「浮きました」
「浮かせないでください!」
「そのほうが速いので」
碧は、出した。
王都から北の砦まで、馬で丸一日。
それを、一時間二十分で走った。
街道の上を、鉄の箱が音もなく滑っていく。すれ違った隊商が全員荷を落とした。牛が逃げた。畑の真ん中で農夫が鍬を取り落として膝をついた。
後部座席では、ニナが両手で口を押さえたまま何かを唱え続けていた。祈りらしい。
その隣でゴルドーが大笑いしていた。
「いいぞ! もっと出せ!」
「これ以上出すと、後ろの人が飛びます」
「飛ばしてかまわん!」
「マスター!」
ダインは石像のように身を硬くしたまま、一言も喋らなかった。
リュシェだけが、風で髪を乱しながら、前を見ていた。
「アオイ殿」
「はい」
「これが十台ございましたら、この国の物流は変わります」
「作りますよ」
「……本気で言っておりますか」
「帰ってから作ります。今日は間に合わせないと」
王女は何か言いかけて、やめた。
やめた代わりに、前を向いたまま小さく笑った。
北の砦が見えてきたのは、昼前だった。
石造りの城壁が、谷の入口を塞ぐように築かれている。高さは十メートルほど。その向こうに大森林が広がり、木々の輪郭が地平まで続いていた。
砦の手前で、碧は車を止めた。
城壁の上に、人が並んでいる。弓を構えた兵が、こちらを振り返った。
「止まれ! 何者――」
「冒険者ギルド王都支部だ!」
ゴルドーが立ち上がって叫んだ。
「マスターのゴルドーが来た! 指揮官を出せ!」
門が開くのに、三分かかった。
迎えに出てきたのは、まだ三十そこそこの男だった。甲冑のあちこちが凹んでいて、左腕に血の滲んだ布を巻いている。
「砦司令代理、レンドルと申します」
「代理」
「司令は昨夜、斥候に出て戻りませんでした」
男は淡々と言った。感情を出す余裕がないのだ。
碧は、その顔を見て理解した。この人はもう、自分が今日死ぬと決めている。決めた人間の顔は、妙に静かになる。
「状況を」
「森の縁が、昨夜から動いております」
レンドルは城壁のほうを指した。
「最初は地響きでした。夜明けに斥候を三隊出して、戻ったのが一隊。報告では、先頭はゴブリンとコボルト。その後ろにオーク。さらに後ろに、見たことのない個体が」
「数は」
「二万と申し上げましたが、修正いたします」
男は、そこで初めて言葉を詰まらせた。
「三万を超えます」
城壁の上の兵たちが、こちらを見ていた。
千五百人が、三万を相手にする。計算が成立していない。
「避難は」
「村への伝令は出しました。ですが、いちばん近い村まで馬で三時間。住民が荷をまとめて動くには、丸一日かかります」
「砦がもつのは」
「半日でございます」
レンドルは、そこで初めて碧の顔を正面から見た。
「勇者様。お越しいただいたことには感謝いたします。ですが、お引き取りください」
「は」
「ここは死ぬ場所でございます。貴方様が死ぬ場所ではございません」
碧は、その言葉を最後まで聞いた。
聞いてから、城壁のほうへ歩き出した。
城壁の上に立ったとき、碧は初めて、それを見た。
想像はしていた。三万という数字も聞いていたし、地響きも足の裏で感じていた。それでも、実物を見るまで数字は数字のままだった。
森が、動いていた。
木々の隙間ではない。森の縁そのものが、黒い帯になって押し寄せてきている。距離は三キロほど。その帯の幅は、視界の端から端まで途切れることがなかった。
音が、遅れて届いた。
地響きと、咆哮と、何千という足が同時に地面を叩く音。それが混ざり合って、一つの低い唸りになっている。
城壁の上で、若い兵が弓を落とした。
拾おうとして、手が震えて拾えなかった。
碧は、その兵の横に立った。
年齢は自分とそう変わらないように見えた。兜が大きすぎて、頭の上でわずかにぐらついている。支給品のサイズが合っていないのだろう。
「名前は」
「え」
「名前です」
「……ト、トルグと申します」
「トルグさん。今日、死ぬ予定ですか」
兵が、碧を見上げた。
「予定でございます」
「じゃあ、予定を変えましょう」
碧は城壁の縁に手を置いた。
石に触れた瞬間、この砦がどう作られているかが全部わかった。基礎の深さ、石の積み方、二百年前の補修の跡、そして現在の脆い箇所が十七か所。
碧は右手を城壁の外へ向けた。
「みなさん、下がってください」
誰も動かなかった。
「下がってください」
二度目で、ようやく兵たちが後退した。それでも全員が下がりきったわけではなく、何人かは城壁の縁にしがみついたまま動かなかった。見届けるつもりなのだ。
碧は、地面に意識を向けた。
やることは、南の井戸と変わらない。地面の下に何があるかを見て、そこへ手を入れる。違うのは規模だけだった。
碧は、押した。
砦の前方、三百メートルの地点で、大地が盛り上がった。
土が隆起し、岩が押し上げられ、それが幅二キロにわたって同時に起きた。盛り上がった土は競り上がりながら空中で締め固められ、表面から順に石へ変わっていく。
碧がやっているのは、土を積むことではなかった。地中にある岩盤の一部をそのまま引き上げ、足りない分を周囲の土から補って再構成している。地面に手を触れた瞬間から、どこにどれだけの材料があるかは全部見えていた。
地響きは、魔物の群れが立てているものより大きかった。城壁の上の兵が、手すりにしがみついて姿勢を保っている。
三十秒後、そこには高さ二十メートルの城壁が生えていた。
城壁の上の千五百人が、声を失った。
碧は手を止めなかった。
二つ目の壁を、その二百メートル手前に作った。三つ目を、さらに手前に。四つ目、五つ目。
ただの壁ではなかった。それぞれの壁は、中央に向かってごくゆるやかに傾斜している。壁を登れない個体は自然と横へ流れ、流れた先でまた次の壁に当たる。何度もそれを繰り返すうちに、群れは一本の道へ押し込まれていく。
発想の元は、実家の裏にあった溝だった。母が雨水を逃がすために掘ったもので、まっすぐではなく、わざと折れ曲がっていた。水は勢いを殺されながら流れ、最後には静かに排水口へ落ちる。
三万の魔物を止めるのに、その理屈がそのまま使えるとは思わなかった。
碧は最後に、その谷の出口に立った。
壁を五本作るのに、四分もかからなかった。魔力は一滴も減っていない。疲労もない。あるのは、これから自分がやることへの静かな覚悟だけだった。
自分が立つべき場所は、そこだった。谷から出てくるものは、全部ここを通る。ここを通らせなければ、この先に何も行かない。
「アオイ殿!」
城壁の上から、リュシェの声が飛んだ。
「一人で行かれるのですか!」
「はい」
「なぜ!」
碧は振り返った。
城壁の上には千五百人の兵がいて、その全員がこちらを見ていた。
「三万いるので」
碧は答えた。
「誰かが手伝うと、誰かが死にます」
最初の波が、壁に当たった。
ゴブリンだった。小柄な個体が数千、壁にぶつかり、登ろうとして落ち、後続に踏み潰されながら横へ流れていく。
流れた先に、次の壁がある。
群れは、碧の作った谷へ吸い込まれていった。
その光景は、上から見ていた兵たちにとって現実感のないものだった。黒い帯が壁に当たり、割れ、横へ流れ、また当たる。それを四度繰り返すうちに、視界を埋めていた三万の塊が、一本の細い線へと変わっていく。
二番目の波はコボルトだった。三番目がオーク。谷の幅は最終的に五十メートルまで絞られ、そこを毎秒数百体が通過していった。
碧は、その出口に立っていた。
一人で。
そのとき、碧は気づいた。
谷へ吸い込まれていく密度のなかに、魔物ではないものが混ざっているかもしれない。森の縁には人が住んでいた。群れが動き出したあと、逃げ遅れた者が巻き込まれていない保証はどこにもない。
確かめる方法はあった。
構成をほどく前に、一体ずつ中身を見ればいい。碧の目なら、生き物の内側を読むのに数秒あれば足りる。
数秒だった。
いま、谷の出口を通過しているのは毎秒数百体である。一体に数秒かければ、その間に千体が背後へ抜ける。抜ければ谷は溢れ、溢れた先には砦の千五百人がいて、その向こうに村が四つあり、住人が二千人いる。
碧は、確かめないことを選んだ。
選ぶのに、一秒もかからなかった。
最初の一体が、谷を抜けた。
二メートルを超えるオークだった。棍棒を振り上げ、まっすぐに突っ込んでくる。目には血が溜まり、口の端から泡が垂れている。理性のある生き物の走り方ではなかった。
碧は右手を上げた。
光は出なかった。音もしなかった。
ただ、そのオークが立っていた場所に、オークがいなくなった。
碧がやったのは、攻撃魔法ではなかった。創造の力を逆向きに使っただけだ。ものを作れるということは、ものを構成する関係をほどけるということでもある。碧はその関係を、必要な範囲だけ解いた。
次の三体が同じように消えた。次の十体。次の五十体。
消えた個体は、痛みを感じる時間すら持たなかった。それが碧にとって唯一の救いだった。
碧は歩かなかった。腕も振らなかった。ただ、そこにいてほしくないものが、そこからなくなっていく。
そのあいだじゅう、碧は自分の内側を観察していた。
嫌悪感がなかった。罪悪感もなかった。三万の生き物を消している最中だというのに、心拍は一定で、呼吸も乱れていない。まるで台所で野菜の皮を剥いているときと、同じ精神状態だった。
これは、いけないやつだと思った。
人間がこれだけのことをすれば、普通は手が震える。震えないということは、何かの感覚が最初から欠けているか、あるいはあとで一気に来るかのどちらかだ。
碧は覚えておくことにした。今日の自分が、何も感じなかったということを。
城壁の上から見ていた兵たちには、何が起きているのか理解できなかった。谷の出口に一人の若者が立っていて、その前方の空間が、少しずつ空になっていく。それだけだった。
一分が過ぎた。
五分が過ぎた。
谷の中の密度が、目に見えて下がり始めた。
十分が過ぎたとき、後続が止まった。
止まったのだ。押し寄せていた群れが、谷の手前でぴたりと足を止め、それから少しずつ後ずさり始めた。
先頭の個体が向きを変え、それに後続が続く。押し合いになり、転んだものが踏まれ、それでも全体としては後退していく。
理性のない魔物が、逃げようとしていた。
碧は、そこで初めて手を下ろした。
逃げる背中を撃つ気にはならなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話もお楽しみにしていただけると嬉しいです。
感想やご指摘をいただけると、今後の励みになります。
今日は2回投稿でした。
少しハラハラする内容でしたがいかがでしたでしょうか?
(更新:毎日8時投稿予定)
隠岐群青




