第19話 兄を拾うか、倒すか
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**長野県上田市・旧研究施設地下**
**正午十二時三分**
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「俺を……拾ってくれ」
神谷零の言葉が、静かな地下室に響いた。
蓮は刀を構えたまま、動けなかった。
目の前にいるのは、妖怪の姿になった兄。
それでも、その声だけは記憶の奥に残っている気がする。
『俺が一緒にいるから』
幼い頃に聞いた言葉。
誰に言われたのかも分からなかった。
今までは。
「……本当に、兄さんなのか?」
蓮が尋ねる。
零は苦しそうに目を伏せた。
「そうだ」
「どうして、こんな姿に?」
「妖魂を入れられた」
「誰に?」
「この施設にいた連中だ」
零の身体から黒い妖気が漏れ出す。
それは意思を持った生き物のように、腕や首へ絡みついていた。
「最初は一つだった」
零がゆっくり話し始める。
「妖魂を一つ入れて、適合するかを見る。それだけの実験だった」
「……」
「俺は適合した」
零の口元が歪む。
「適合したから、次を入れられた」
蓮は黙って聞いていた。
「次も適合した。その次も。その次も……」
零の身体から妖気が噴き出す。
「気づいた時には、自分の中に何体の妖怪がいるのか分からなくなっていた」
蓮は妖魂解析を使った。
視界が切り替わる。
零の身体の中には、いくつもの妖魂が絡み合っている。
鬼。
蛇。
狼。
そして、蓮が知らない妖怪の魂まで。
「……こんなに」
「俺は実験に成功した人間じゃない」
零は自嘲するように笑った。
「失敗した人間だ」
「だったら、どうして生きてる?」
「死ねなかったんだ」
その言葉が重く響いた。
「妖魂が俺の身体を食い始めた。それでも死なない。だから連中は、さらに妖魂を入れた」
蓮の拳が震える。
「……誰がそんなことを」
「研究者だ」
「名前は?」
「分からない」
「この施設を作った組織は?」
「それも分からない」
零は首を振った。
「俺が知っているのは一つだけだ」
その瞳が蓮を見る。
「連中は、お前を次の器にしようとしていた」
「俺を?」
「ああ」
蓮の背後で、政府職員が息を呑む。
「十一歳のお前は、まだ妖魂に触れても拒絶反応を起こさなかった」
零は続ける。
「だから、俺の次に実験する予定だった」
「……俺が?」
「そうだ」
「じゃあ、俺はどうして覚えていない?」
零は答えなかった。
その代わり。
蓮の胸元を見た。
「俺が逃がした」
蓮の目が見開かれる。
「……兄さんが?」
「お前を研究施設から連れ出した」
「それで?」
「その後のことは、ほとんど覚えていない」
零の顔が苦しそうに歪んだ。
「俺は妖魂に飲まれた」
「……」
「お前だけは逃がしたかった」
蓮の脳裏に、また記憶が浮かぶ。
暗い廊下。
小さな手。
誰かに引っ張られて走っている。
『蓮、走れ』
『兄ちゃんは?』
『俺は後から行く』
『一緒に来てよ』
『大丈夫だ』
そこで記憶が途切れた。
蓮は頭を押さえる。
「……兄さん」
「思い出してきたか」
「少しだけ」
「それでいい」
零は笑った。
「それ以上、思い出さなくていい」
「どうして?」
「俺が、お前に忘れていてほしかったからだ」
その瞬間。
零の身体が大きく震えた。
「ぐっ……!」
黒い妖気が全身を覆う。
「兄さん!」
「来るな!」
零が叫んだ。
「俺の中の妖怪が……起きる」
妖気が膨れ上がる。
地下室の壁が次々とひび割れていく。
政府職員が後退する。
「神谷さん、危険です!」
「分かってます!」
蓮は零から目を離さない。
妖魂解析が警告を出している。
零の中にある妖魂が、一斉に活性化している。
このままでは。
「兄さん!」
蓮が叫ぶ。
「俺が止める!」
「無理だ!」
「やってみないと分からない!」
「お前には無理だ!」
零の身体が跳ねた。
次の瞬間。
拳が蓮へ飛んでくる。
蓮は刀で受け止めた。
衝撃で床が割れる。
「くっ……!」
鬼腕を使っても押し返せない。
零の腕に宿った妖魂の力は、蓮の鬼腕を上回っていた。
「兄さん!」
「来るな!」
零が腕を振り抜く。
蓮は壁まで吹き飛ばされた。
背中を強く打ちつける。
「神谷さん!」
「大丈夫です!」
蓮は立ち上がる。
零の目が赤く染まっている。
もう、意識が薄れている。
「……蓮」
かすかな声。
「逃げろ」
「嫌だ」
「俺を殺せ」
「嫌だ!」
蓮は刀を握り直す。
「兄さんを殺すために、ここまで来たんじゃない!」
零が咆哮する。
四本の腕が蓮へ迫る。
蓮は伸縮を使って距離を取る。
風刃を放つ。
零の腕を一本切り裂いた。
黒い血が飛び散る。
すぐに再生が始まる。
「再生する……」
蓮は妖魂解析を使った。
そして、見つけた。
零の胸の中心。
無数の妖魂が絡み合っている。
その中心に、人間の魂がある。
小さな光。
「兄さんの魂は、まだ残ってる」
蓮の目に力が戻る。
「だったら――」
刀を構える。
「妖魂だけを切り離せばいい!」
蓮は走った。
零も迎え撃つ。
拳。
爪。
妖気の刃。
次々と攻撃が飛んでくる。
蓮は鬼腕で受け、金剛体で耐え、伸縮でかわしながら零の懐へ入り込む。
そして。
「妖魂解析!」
零の内部構造が、すべて見えた。
妖魂同士を繋いでいる黒い糸。
その中心に、人間の魂。
「ここだ!」
風刃を極限まで細くする。
狙うのは身体ではない。
妖魂同士を繋いでいる糸だけ。
「切れろ!」
――ザンッ!
風の刃が零の身体を通過した。
「ぐあああああっ!」
零が絶叫する。
無数の黒い妖魂が身体から飛び出した。
鬼。
蛇。
狼。
見たことのない妖怪。
それらが次々と消えていく。
そして。
最後に残ったのは、一つの黒い妖魂だった。
蓮は手を伸ばす。
妖魂が、蓮の手の中へ吸い込まれた。
その瞬間。
《特殊妖魂を確認》
《対象――神谷零》
《妖魂取得が可能です》
《警告》
《対象妖魂には高濃度の人間由来魂魄が含まれています》
《取得した場合、妖魂適合率が大幅に上昇します》
蓮は手を止めた。
目の前には、倒れた零がいる。
もう妖怪の姿ではない。
普通の人間に戻っていた。
白髪になった髪。
痩せた身体。
それでも。
確かに兄の顔だった。
「兄さん……」
零が目を開く。
「……蓮」
「ここにいる」
「そうか」
零は小さく笑った。
「大きくなったな」
蓮の目から、涙が一滴落ちた。
「兄さんも……」
言葉が続かない。
零はゆっくり手を伸ばす。
蓮がその手を握った。
「……もう、逃げなくていい」
「蓮」
「今度は俺が守る」
零は目を閉じた。
そして。
「……ありがとう」
静かに息を吐いた。
蓮の手の中には、黒い妖魂が残っている。
システムは取得を要求している。
けれど。
蓮は、その妖魂を握り潰さなかった。
「俺は……」
蓮は零を見つめる。
「兄さんを、力にはしない」
妖魂を取得しない。
初めて蓮は、自分の意思で妖魂を拒絶した。
その瞬間。
《妖魂取得をキャンセルしました》
《対象妖魂を保留状態へ移行します》
《特殊条件を確認》
《新機能――『妖魂保護』を獲得しました》
蓮は目を見開いた。
「妖魂保護……?」
その能力が何なのか。
まだ分からない。
けれど。
蓮には一つだけ分かったことがある。
妖魂は、必ずしも奪わなければならないものではない。
守ることもできる。
その可能性を知った瞬間。
蓮の中で、「妖怪拾い」という職業の意味が少しだけ変わった。
そのときだった。
地下施設の奥から、警報音が鳴り響く。
――ビーッ。
――ビーッ。
政府職員がモニターを見る。
「神谷さん!」
「どうしました?」
「この施設の地下深くから、異常な妖気反応が出ています!」
蓮が妖気感知を使う。
先ほどまで一つだった反応が。
今は――三つ。
「三体……?」
「違います」
女性が青ざめる。
「もっと多い」
地下施設の奥。
暗闇の中から。
無数の妖気が、一斉に目を覚ました。
そして。
施設のスピーカーから、あの男の声が響く。
『神谷蓮』
蓮は顔を上げた。
『君は、やはりそうすると思っていた』
「……お前か」
『兄を拾わなかった』
男が笑う。
『それでいい』
「何?」
『それこそが、十年前のお前と違うところだ』
蓮の表情が変わる。
『さあ、神谷蓮』
地下深くで、巨大な扉が開いていく。
『次は、お前が何を拾うのか見せてもらおう』
轟音とともに扉が完全に開いた。
その奥から。
数え切れないほどの妖怪の気配が押し寄せてくる。
蓮は刀を握り直した。
兄を守る。
そのためにも。
ここから生きて帰る。
「……全部、倒す」
蓮は静かに前を向いた。
「兄さんには、もう触らせない」
地下施設の奥から。
無数の咆哮が響き渡った。




