初迷宮
「……今から!?」
「そ、今から」
聞き間違いではなかった。
トウカ先生はそのまま新人センターを出て、俺にもついてくるよう手招きした。
「あのー、今日は装備の説明を聞きに来ただけなんですが」
「説明は終わったでしょ」
「銃、1回も撃ってませんよ」
「だから現地で確認した方が早いの」
とんでもない先生だと思う。
でも、腰の魔力銃と探索用の装備を見下ろすと、断る気にもなれなかった。
迷宮へ行ってみたいと思ったのは自分だ。
それが予定より少し早くなっただけ。
心の準備はもうできている。
……たぶん。
◇
新人センターから専用の公共交通機関で20分ほど。
着いた場所は、想像していたよりずっと普通だった。
駅のような広い入口に探索者協会の窓口。壁には今日の危険情報と入場可能区域が表示され、装備姿の探索者が何人も出入りしている。
「もっとこう、洞窟の穴がそのまま開いてるのかと」
「昔はそんな所も多かったみたいだけどね。ここは初心者が多いから、だいぶ整備されてる」
ゲートに端末をかざすと、短い電子音が鳴った。
【初心者区画・入場可】
その表示を見た瞬間、急に現実味が増した。
昨日まで映像でしか見たことのなかった場所に、今から自分が入る。
「緊張した?」
「ちょっと」
「いいね。そのくらいでちょうどいい」
ゲートの先には、下へ続く緩やかな通路があった。
数十メートル進んだところで人工灯が途切れる。
代わりに、岩壁に張りついた青白い苔がぼんやり光っていた。
街より冷たく、少し湿った空気。土と石、それから水の匂い。
壁の隙間からは半透明の茸が生え、その奥では細い地下水が岩の間を流れている。
「……すげえ」
思わず足が止まった。
「見学は歩きながらね」
鳴海先生のあとを追う。
「まずは周り。床、壁、音、匂い。さっきまでと違うところがないか見る」
言われて意識を切り替える。
濡れた床。岩壁の割れ目。水音。
その先で、何かが動いた。
灰色の毛玉みたいな小動物が、岩陰からこちらを覗いている。
猫より少し大きい。丸い身体に長い尾。その先には黒い針のような棘が何本も生えていた。
「針尾鼠。初心者区画じゃよくいるやつ」
そいつが低く身体を沈める。
反射的に腰の銃へ手を伸ばしかけた。
「まず銃は抜かなくていい」
「え?」
「君の本職から試そっか」
鳴海先生が右手を上げる。
指先の前に、赤い火が集まった。
【火球】
小さい。
でも、近くにいるだけで頬に熱を感じる。
針尾鼠が岩を蹴った。
こっちへ来る。
「水原君」
分かってる。
魔法を見るんじゃない。
人を見る。
肩。指先。呼吸。魔力の流れ。
訓練室より情報が多い。足音も、水音も、目の前の魔獣も邪魔をする。
それでも、鳴海先生の流れは1度合わせたことがある。
【制御補助】
意識を重ねた瞬間、火球の表面にあった細かな揺れが消えた。
火が少しだけ細く締まり、色が濃くなる。
――入った。
そう思った直後だった。
鳴海先生の手が動く。
火球が一直線に走った。
飛びかかってきた針尾鼠の胸元へ吸い込まれ、赤い光が弾ける。
灰色の身体が勢いごと横へ吹き飛び、岩の上を転がった。
動かない。
「……へえ」
鳴海先生が火の消えた指先を見て、それから俺を見る。
「今、ちゃんと補助できてました?」
「うん。しかも思ったよりちゃんと」
胸の奥が少し浮く。
「実戦1発目でそこまで合わせられるなら、やるじゃん」
「珍しく素直に褒めましたね」
「褒める時は褒めるよ」
訓練室ほど長くは維持できなかった。
それでも、動いている相手を前にして通った。
その事実だけで、少しだけ自信が出る。
鳴海先生は倒れた針尾鼠を確認すると、さらに奥へ視線を向けた。
「じゃあ次」
「次?」
「今度は君が倒してみよっか」
さっきまで浮いていた気分が、一瞬で現実へ戻った。
岩陰から、もう1匹が姿を現す。
腰の魔力銃を抜く。
構えた瞬間、手が固くなった。
さっきまで鳴海先生の後ろにいた時とは違う。
今度は、あいつが俺を見ている。
「銃じゃなくて相手見て」
魔力を流す。
グリップの奥が熱を持つ。
狙う。
引き金を引いた。
1発目。
乾いた破裂音。
白い魔力弾は針尾鼠の横を抜け、後ろの岩壁で弾けた。
「外した!」
針尾鼠が床を蹴る。
一気に距離が縮まる。
焦って銃口を戻す。
2発目。
今度は脇腹へ当たった。
白い光が弾け、身体がぶれる。
――止まらない。
「まだ来る!?」
「急所じゃないからね。足りない」
銃口は跳ねていた。
でも、考えている余裕はなかった。
息を吸う。
銃ではなく、相手を見る。
3発目。
白い魔力弾が胸元へ入った。
針尾鼠の勢いが消える。
俺の数歩手前で身体が床へ落ち、そのまま滑って止まった。
静かになった。
俺は数秒、銃を構えたまま動けなかった。
「はい。指」
「え?」
「引き金から外す」
「あ」
慌てて指を離した。
心臓が速い。
たった1匹。しかも初心者向けの小型魔獣。
それでも、自分へ向かってくる相手を撃つのは思っていたよりずっと怖かった。
「……支援してる時より余裕ないですね」
「自分が狙われてるからね」
鳴海先生は倒れた針尾鼠を確認しながら言った。
「1発目は焦りすぎ。2発目は当てることしか考えてない。3発目でやっと相手見て撃てた」
「結構見てますね」
「先生だからね」
そのまま立ち上がる。
「でも、魔力を流すところでは1回も詰まらなかった」
「そういえば」
「あと、3発とも出力が安定してる。やっぱり君、制御だけはかなりいいね」
「じゃあ銃向いてる?」
「魔力を扱う部分はね。射撃は普通」
「そこは普通なんだ」
「初めてで上手かったら逆に怖いでしょ」
それはそうだ。
その後も浅層を少し歩いた。
濡れた岩を避ける。曲がり角では先を見る。足元だけじゃなく、壁の割れ目や天井にも気を配る。
街を歩くのとは、使っている神経の数が違う。
途中でもう1度だけ【制御補助】を試したが、今度は周囲を気にしすぎて上手く合わせられなかった。
1度できたからといって、いつでもできるわけじゃない。
それでも最初の1回が偶然ではないことは、なんとなく分かった。
◇
ゲートを抜けると、一気に人工灯の明るさが戻ってきた。
たった1時間ほどしか入っていない。
それでも外へ出た瞬間、妙にほっとした。
「初迷宮、お疲れ」
「思ったより全然余裕なかったです」
「最初はそれでいいよ。景色見て、怖さ知って、自分が何できるかと何できないか分かれば十分」
腰の魔力銃を見る。
撃つことはできた。
【制御補助】も、戦闘の中で1度は通った。
ただ、どちらもまだ自在に使えるわけじゃない。
昨日ナギさんに、浅いところなら一緒に来るかと誘われたことを思い出す。
あの時は、もう少し気軽に考えていた。
今なら分かる。
足手まといにならないだけでも、思っていたより難しい。
「次は誰かと行く予定?」
「あります」
「じゃあ今日のこと、ちゃんと覚えといて。最初から役に立とうとしなくていいから」
「そんなもんですか」
「まずは怪我せずに帰るのが大事、新人は」
否定できない。
初迷宮は、緊張の連続だった。
トウカ先生が横にいたから不安はあまりなかったが、魔獣は想像以上に攻撃的だった。迷宮は危険な場所なのだと、あらためて実感した。
それでも。
もう1度、あの青白い光の向こうへ入ってみたいと思っている自分がいた。




