青灯亭
解体場を出ると、さすがに身体が重かった。地上から地下まで19時間。着いたその日に住む場所を決め、岩猪串を食べ、そのまま働いた。
冷静に考えると、よく動いたと思う。というか、動きすぎた。
隣を歩くナギさんは、そんな俺をちらりと見てから歩幅を少し落とした。気のせいかもしれない。聞いたらたぶん「道が混んでるので」とか言う気がする。
「店、遠いです?」
「5分くらいです。そこまで歩けます?」
「さすがに疲れましたけど、それくらいは大丈夫です」
大通りから1本細い路地へ入る。頭上には配管が何本も走り、壁際には古い看板が並んでいた。地上なら薄暗く感じそうな通りなのに、天井近くを這う発光苔のおかげで青白く見える。
その中に、本当に青いランプが1つぶら下がっていた。入口の上には木製の看板。
青灯亭。
「ブルーランプ?」
「そう読みます」
「初見殺しだ」
「地下だとわりと普通です」
扉を開けると、最初に来たのは腹を直撃する匂いだった。焼いた肉。煮込んだ根菜。香ばしい油。それに、少し甘い醤油みたいな匂い。
さっきまで「疲れた」が勝っていた身体が、急に腹だけ元気になる。
店内は広くない。カウンターが7席ほどと、4人掛けのテーブルが3つ。壁には手書きのメニュー札がずらっと並び、ところどころ油で色が変わっている。いかにも昔からある定食屋だった。
「いらっしゃいませー。あ、ナギさん」
店の奥から、エプロン姿の若い女の子が顔を出した。ナギさんを見るなり慣れた感じで片手を上げ、それから隣の俺へ視線を移す。
「珍しいですね。人連れてくるの」
女の子は楽しそうに笑いながら水を2つ置く。
その奥の厨房では、50歳くらいの男が大きな鍋をかき混ぜていた。こっちを1度見ただけで、特に何も言わない。
ナギさんはカウンターの端へ座り、俺も隣へ腰を下ろした。
「何食べます?」
壁のメニューを見る。
岩猪の煮込み定食、720円。洞窟茸と根菜の炒め物、580円。魔獣肉の香草焼き、850円。
知らない食材だらけなのに、値段だけは安心する。
「おすすめあります?」
聞いた瞬間、ナギさんの目が少しだけ上を向いた。さっきまで仕事の話をしていたときより、わずかに真剣だ。
「初めてなら岩猪の煮込みですね。あと、洞窟茸のバター焼き」
「2品いきます?」
「バター焼きは半分ずつなら大丈夫です」
「好きなんですか?」
1拍。
「……美味しいので」
少し嬉しそうにそう話す。
なるほど。この人、美味しいものが好きなんだ。普段は何でも面倒そうに見えるのに、メニューを見る目だけは少し違う。
「じゃあそれで」
「あと煮込みの汁、麦飯に少しかけると美味しいです」
「結構詳しいですね」
「よく来るので」
岩猪の煮込み定食を2つと、洞窟茸のバター焼きを1皿頼む。
少しして、厨房の男が無言で深皿を置いた。濃い褐色の煮汁の中に、厚く切られた肉と地下茸、根菜がごろごろ沈んでいる。横には麦飯と透明なスープ。
「熱いぞ」
店主らしい男は、それだけ言って厨房へ戻った。
「いただきます」
肉へ箸を入れる。ほとんど力がいらなかった。繊維に沿ってほろりと崩れ、濃い煮汁が中から染み出す。
1口。
その瞬間、俺は箸を止めた。
「……うま」
昨日までなら、料理を食ってこんな間の抜けた声を出すことはなかったと思う。肉は柔らかいのに脂っこすぎず、噛むと奥から濃い旨味が出てくる。煮汁は少し甘くて、あとから香草の匂いが抜けた。
駅前で食べた岩猪串とは全然違う。同じ肉なのに、こっちは別の食べ物みたいだった。
「ですよね」
見ると、ナギさんがほんの少し得意そうだった。自分が作ったわけでもないのに。
「ナギさん、今ちょっと嬉しそうですね」
「そんなことないです」
言いながら、自分も1口食べる。その瞬間、普段ほとんど変わらない口元が明らかに緩んだ。
分かりやすい。
「好きなんですね、美味しいもの」
「嫌いな人いるんです?」
「……俺、少し前まで結構どうでもよかったです」
ナギさんの箸が止まった。
「食べることが?」
「味が、ですかね。栄養取れて腹が満たせればいいというか」
専業で相場を見ていた頃は、食事の時間すら惜しいことがあった。何を食うかより、早く食えて必要なものが入っているか。腹が減ったら適当に詰め込んで、また画面へ戻る。
うまい店を探そうと思ったこともほとんどない。
「……もったいない」
今日1番、感情が乗った声だった。
「そんなに?」
「そんなにです。毎日食べるのに」
ナギさんは洞窟茸のバター焼きを俺の小皿へ取り分けた。
「これも食べてください」
「布教が始まった」
「知らないままなのがもったいないので」
1口食べる。表面は香ばしく、中は驚くほど瑞々しい。噛むたびにバターと茸の香りが広がった。
「……これもうまい」
「でしょう」
また少し嬉しそうだ。
そこで、ふと思った。
岩猪串を食べたとき、「次に食えばいい」と考えた。あの瞬間から、何かがおかしくなったのかもしれない。
今まで食事なんて栄養補給だったのに、今日はもう「次は何がうまいんだろう」と考えている。
「俺、美味しいもの好きになったかもしれないです」
「1日で?」
「地下で初めて食べた岩猪串に胃袋をやられました」
ナギさんは数秒こっちを見て、それから小さく笑った。
「じゃあ、地下は結構楽しいと思いますよ」
「そんなに色々あるんですか?」
「あります。第1都市だけでも全然回りきれないですし、街ごとに名物も違います」
食べ物の話になった途端、いつもより言葉が多い。
「第2中継所の燻製肉とか、南区の水晶魚の塩焼きとか。季節によって出る茸も違うし、迷宮の浅層でしか採れない香草もあります」
「全部食べてみたいですね」
今度は俺の返事が早かった。
ナギさんが少しだけ目を丸くしたあと、また笑う。
「……気が合うかもですね、そこは」
何気ない一言だった。
でもなぜか、煮込みとは別のところが少し熱くなった気がした。
店を出る頃には、腹も気分もかなり満たされていた。
会計は1人1000円ちょっと。1万8000円を稼いだ直後とはいえ、借金持ちの身には無駄遣いできる金額じゃない。それでも、不思議と後悔はなかった。
「いい店教えてもらいました。ありがとうございます」
「ついでです。私も食べたかったので」
出た。ついで。
少し歩いたところで、ナギさんは分かれ道を指した。
「寮、ここから真っ直ぐです。入口に青い案内板あります」
「ナギさんは?」
「私は反対なので、ここでさよならです」
つまり店までは同じ方向でも、その先は別だったらしい。
さっき「寮と同じ方向ですし」と言っていた気がするが、細かいことは言わないでおいた。
「適性検査は明日。今日はちゃんと寝てくださいね」
「了解です」
「あと、次また青灯亭行くなら、香草焼きも美味しいです」
「もう次のおすすめ出てきた」
「美味しいので」
やっぱりナギさんは美味しいものに目がないらしい。
◇
ナギさんと別れて寮へ戻る。玄関をくぐると、昼に見たときより人が増えていた。作業着姿の男たちが廊下を行き来し、共用ラウンジでは何人かがテレビを見ながら飯を食っている。
とりあえず風呂へ行こうとして、廊下で止まった。
「……風呂、どっちだ」
昼に説明された気はする。でも、たぶん聞き流した。
壁の案内板を探していると、後ろから声が飛んできた。
「風呂ならその角右だぞ。タオル持ったか?」
振り返ると、洗面器を持った大柄な男が立っていた。
「ありがとうございます。タオルはあります」
「石鹸は中の使っていい。ロッカーは登録証かざすやつな。初日?」
「今日来ました」
「そりゃ分からんわ。洗濯機は風呂の奥。乾燥機は別料金だから気をつけろよ」
それだけ教えると、男はさっさと先に行った。名前も聞かなかったのに、聞いていないことまで教えてもらった。
地下に来てから、こういうことが何度か続いている。仕事のルールを知らなければナギさんが直してくれた。飯の心配までされて、美味い店へ連れていかれた。今度は知らない寮の住人が風呂の使い方を教えてくれる。
地上にいた頃、別に人付き合いを避けていたつもりはない。ただ、1人でチャートを見て、1人で飯を食って、1人で損益を受け止める生活が長すぎた。
頼んでもいないのに人から何かをしてもらうことが、こんなに多かっただろうか。
風呂は広かった。熱い湯へ肩まで浸かった瞬間、身体の奥に溜まっていた疲れが一気に浮かび上がる。
「……今日、長すぎだろ」
19時間かけて地下へ来た。
魔獣を食べた。
働いた。
魔法を見た。
飯に連れていってもらった。
部屋へ戻ると、すぐにスマホを机へ置き、ベッドへ横になる。隣の部屋から小さく笑い声が聞こえた。廊下を誰かが歩く音もする。
1人部屋なのに、1人きりではない。
その夜は、久しぶりにまともに眠れた。




