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FXで破産した俺、地下40kmから人生をやり直す  作者: 旗良北 九内
地下で生きる

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3/26

青灯亭

 解体場を出ると、さすがに身体が重かった。地上から地下まで19時間。着いたその日に住む場所を決め、岩猪串を食べ、そのまま働いた。

 冷静に考えると、よく動いたと思う。というか、動きすぎた。


 隣を歩くナギさんは、そんな俺をちらりと見てから歩幅を少し落とした。気のせいかもしれない。聞いたらたぶん「道が混んでるので」とか言う気がする。


「店、遠いです?」

「5分くらいです。そこまで歩けます?」

「さすがに疲れましたけど、それくらいは大丈夫です」


 大通りから1本細い路地へ入る。頭上には配管が何本も走り、壁際には古い看板が並んでいた。地上なら薄暗く感じそうな通りなのに、天井近くを這う発光苔のおかげで青白く見える。

 その中に、本当に青いランプが1つぶら下がっていた。入口の上には木製の看板。


 青灯亭《ブルーランプ》。


「ブルーランプ?」

「そう読みます」

「初見殺しだ」

「地下だとわりと普通です」


 扉を開けると、最初に来たのは腹を直撃する匂いだった。焼いた肉。煮込んだ根菜。香ばしい油。それに、少し甘い醤油みたいな匂い。

 さっきまで「疲れた」が勝っていた身体が、急に腹だけ元気になる。

 店内は広くない。カウンターが7席ほどと、4人掛けのテーブルが3つ。壁には手書きのメニュー札がずらっと並び、ところどころ油で色が変わっている。いかにも昔からある定食屋だった。


「いらっしゃいませー。あ、ナギさん」


 店の奥から、エプロン姿の若い女の子が顔を出した。ナギさんを見るなり慣れた感じで片手を上げ、それから隣の俺へ視線を移す。


「珍しいですね。人連れてくるの」


 女の子は楽しそうに笑いながら水を2つ置く。

 その奥の厨房では、50歳くらいの男が大きな鍋をかき混ぜていた。こっちを1度見ただけで、特に何も言わない。

 ナギさんはカウンターの端へ座り、俺も隣へ腰を下ろした。


「何食べます?」


 壁のメニューを見る。

 岩猪の煮込み定食、720円。洞窟茸と根菜の炒め物、580円。魔獣肉の香草焼き、850円。

 知らない食材だらけなのに、値段だけは安心する。


「おすすめあります?」


 聞いた瞬間、ナギさんの目が少しだけ上を向いた。さっきまで仕事の話をしていたときより、わずかに真剣だ。


「初めてなら岩猪の煮込みですね。あと、洞窟茸のバター焼き」

「2品いきます?」

「バター焼きは半分ずつなら大丈夫です」

「好きなんですか?」


 1拍。


「……美味しいので」


 少し嬉しそうにそう話す。

 なるほど。この人、美味しいものが好きなんだ。普段は何でも面倒そうに見えるのに、メニューを見る目だけは少し違う。


「じゃあそれで」

「あと煮込みの汁、麦飯に少しかけると美味しいです」

「結構詳しいですね」

「よく来るので」


 岩猪の煮込み定食を2つと、洞窟茸のバター焼きを1皿頼む。


 少しして、厨房の男が無言で深皿を置いた。濃い褐色の煮汁の中に、厚く切られた肉と地下茸、根菜がごろごろ沈んでいる。横には麦飯と透明なスープ。


「熱いぞ」


 店主らしい男は、それだけ言って厨房へ戻った。


「いただきます」


 肉へ箸を入れる。ほとんど力がいらなかった。繊維に沿ってほろりと崩れ、濃い煮汁が中から染み出す。


 1口。

 その瞬間、俺は箸を止めた。


「……うま」


 昨日までなら、料理を食ってこんな間の抜けた声を出すことはなかったと思う。肉は柔らかいのに脂っこすぎず、噛むと奥から濃い旨味が出てくる。煮汁は少し甘くて、あとから香草の匂いが抜けた。

 駅前で食べた岩猪串とは全然違う。同じ肉なのに、こっちは別の食べ物みたいだった。


「ですよね」


 見ると、ナギさんがほんの少し得意そうだった。自分が作ったわけでもないのに。


「ナギさん、今ちょっと嬉しそうですね」

「そんなことないです」


 言いながら、自分も1口食べる。その瞬間、普段ほとんど変わらない口元が明らかに緩んだ。

 分かりやすい。


「好きなんですね、美味しいもの」

「嫌いな人いるんです?」

「……俺、少し前まで結構どうでもよかったです」


 ナギさんの箸が止まった。


「食べることが?」

「味が、ですかね。栄養取れて腹が満たせればいいというか」


 専業で相場を見ていた頃は、食事の時間すら惜しいことがあった。何を食うかより、早く食えて必要なものが入っているか。腹が減ったら適当に詰め込んで、また画面へ戻る。

 うまい店を探そうと思ったこともほとんどない。


「……もったいない」


 今日1番、感情が乗った声だった。


「そんなに?」

「そんなにです。毎日食べるのに」


 ナギさんは洞窟茸のバター焼きを俺の小皿へ取り分けた。


「これも食べてください」

「布教が始まった」

「知らないままなのがもったいないので」


 1口食べる。表面は香ばしく、中は驚くほど瑞々しい。噛むたびにバターと茸の香りが広がった。


「……これもうまい」

「でしょう」


 また少し嬉しそうだ。

 そこで、ふと思った。

 岩猪串を食べたとき、「次に食えばいい」と考えた。あの瞬間から、何かがおかしくなったのかもしれない。

 今まで食事なんて栄養補給だったのに、今日はもう「次は何がうまいんだろう」と考えている。


「俺、美味しいもの好きになったかもしれないです」

「1日で?」

「地下で初めて食べた岩猪串に胃袋をやられました」


 ナギさんは数秒こっちを見て、それから小さく笑った。


「じゃあ、地下は結構楽しいと思いますよ」

「そんなに色々あるんですか?」

「あります。第1都市だけでも全然回りきれないですし、街ごとに名物も違います」


 食べ物の話になった途端、いつもより言葉が多い。


「第2中継所の燻製肉とか、南区の水晶魚の塩焼きとか。季節によって出る茸も違うし、迷宮の浅層でしか採れない香草もあります」

「全部食べてみたいですね」


 今度は俺の返事が早かった。


 ナギさんが少しだけ目を丸くしたあと、また笑う。


「……気が合うかもですね、そこは」


 何気ない一言だった。

 でもなぜか、煮込みとは別のところが少し熱くなった気がした。


 店を出る頃には、腹も気分もかなり満たされていた。

 会計は1人1000円ちょっと。1万8000円を稼いだ直後とはいえ、借金持ちの身には無駄遣いできる金額じゃない。それでも、不思議と後悔はなかった。


「いい店教えてもらいました。ありがとうございます」

「ついでです。私も食べたかったので」


 出た。ついで。

 少し歩いたところで、ナギさんは分かれ道を指した。


「寮、ここから真っ直ぐです。入口に青い案内板あります」

「ナギさんは?」

「私は反対なので、ここでさよならです」


 つまり店までは同じ方向でも、その先は別だったらしい。

 さっき「寮と同じ方向ですし」と言っていた気がするが、細かいことは言わないでおいた。


「適性検査は明日。今日はちゃんと寝てくださいね」

「了解です」

「あと、次また青灯亭行くなら、香草焼きも美味しいです」

「もう次のおすすめ出てきた」

「美味しいので」


 やっぱりナギさんは美味しいものに目がないらしい。



◇



 ナギさんと別れて寮へ戻る。玄関をくぐると、昼に見たときより人が増えていた。作業着姿の男たちが廊下を行き来し、共用ラウンジでは何人かがテレビを見ながら飯を食っている。

 とりあえず風呂へ行こうとして、廊下で止まった。


「……風呂、どっちだ」


 昼に説明された気はする。でも、たぶん聞き流した。

 壁の案内板を探していると、後ろから声が飛んできた。


「風呂ならその角右だぞ。タオル持ったか?」


 振り返ると、洗面器を持った大柄な男が立っていた。


「ありがとうございます。タオルはあります」

「石鹸は中の使っていい。ロッカーは登録証かざすやつな。初日?」

「今日来ました」

「そりゃ分からんわ。洗濯機は風呂の奥。乾燥機は別料金だから気をつけろよ」


 それだけ教えると、男はさっさと先に行った。名前も聞かなかったのに、聞いていないことまで教えてもらった。

 地下に来てから、こういうことが何度か続いている。仕事のルールを知らなければナギさんが直してくれた。飯の心配までされて、美味い店へ連れていかれた。今度は知らない寮の住人が風呂の使い方を教えてくれる。


 地上にいた頃、別に人付き合いを避けていたつもりはない。ただ、1人でチャートを見て、1人で飯を食って、1人で損益を受け止める生活が長すぎた。

 頼んでもいないのに人から何かをしてもらうことが、こんなに多かっただろうか。


 風呂は広かった。熱い湯へ肩まで浸かった瞬間、身体の奥に溜まっていた疲れが一気に浮かび上がる。


「……今日、長すぎだろ」


 19時間かけて地下へ来た。

 魔獣を食べた。

 働いた。

 魔法を見た。

 飯に連れていってもらった。


 部屋へ戻ると、すぐにスマホを机へ置き、ベッドへ横になる。隣の部屋から小さく笑い声が聞こえた。廊下を誰かが歩く音もする。

 1人部屋なのに、1人きりではない。

 その夜は、久しぶりにまともに眠れた。

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