魔法
「やるか」と言ってから、10分もしないうちに俺は少しだけ後悔していた。
魔獣そのものを解体させられるわけではない。俺の担当は床の洗浄と、処理の終わった皮や骨を載せた台車の運搬補助。それでも、視界の端を巨大な角が横切ったり、作業台の上で見たこともない肉の塊が切り分けられていたりする。
そして何より、床が滑る。
血と水と脂が混じった赤黒い液体を、柄の長いブラシで排水溝へ押し流す。見た目ほど難しい仕事ではないが、思った以上に腕と腰にくる。
「……日給1万8000円、そういうことか」
高いには高いなりの理由があるらしい。
ただ、不思議と嫌ではなかった。汚れている場所をこすれば、そのぶんだけ床が綺麗になる。台車を押せば、物はちゃんと目的地まで動く。何をすればいいかが目の前にあるだけで、今の俺には妙にありがたかった。
しばらく黙々とブラシを動かしていると、少し離れたところで水音がした。
最初は誰かがホースを使っているんだと思った。
でも、ホースがない。
1人の女性が、作業台の脇に立っていた。
俺より少し年下だろうか。小柄で細身、全体に華奢な印象だった。肩につかない短い髪は黒より少し淡く、白い肌の上に無造作に落ちていた。伏し目がちな目元までどこか色素が薄く、全体に柔らかい色合いをしている。姿勢は少し気だるげで、片手を腰に当てながら、もう片方の手だけを前へ出していた。
その手の先に、水が浮いていた。
拳ほどの透明な水球が、空中で止まっている。
「……え」
水球が細長く伸びた。
2本に分かれる。さらに枝分かれする。床へ降りた水は、生き物みたいに作業台の脚を回り込み、赤い汚れだけを拾いながら排水溝へ向かっていった。
途中、流れの1本が俺の長靴へ近づいてくる。
反射的に足を引いた。
水は俺の靴の手前で左右に分かれ、そのまま後ろで再び1つになった。
「……すげえ」
ブラシを持ったまま、完全に手が止まっていた。
魔法だ。
もちろん存在は知っている。地上には魔素がないから、向こうではどれだけ適性がある人間でも魔法は使えない。でも、地下で撮影されたニュース映像や競技番組なら何度も見たことがあるし、学校でも魔素や適性について一通り習った。
でも、映像の中で見るのと、自分の目の前で水が空中に浮いて、意思があるみたいに動くのとでは、まるで違った。
しかも使っている本人は、ものすごく普通の顔をしている。
「……そこ、終わってます?」
女性がこっちを見た。
「え?」
「床です。そっち、全然進んでないみたいなので」
声まで気だるげだった。
「あ、すみません」
慌ててブラシを動かす。
3往復くらいして、また横を見る。
今度は水が壁を登っていた。
また手が止まった。
「……そんなに珍しいです?」
「珍しいです。めちゃくちゃ」
即答すると、女性は少しだけ眉を上げた。
「ただの生活魔法ですよ、これ」
「生活魔法でも魔法は魔法でしょう」
そもそも生活魔法がなんなのか、地下に来たばかりの俺には分からない。
女性は一瞬黙り、それから小さく肩をすくめた。
「地上の人ですか?」
「今日来ました」
「今日?」
そこで初めて、彼女の視線が少しだけ俺に向いた。
「……今日来て、今日ここで働いてるんですか?」
「はい」
「仕事は来る前に決めてたんです?」
「いや、さっき求人アプリで見つけて」
「住むところは?」
「寮を紹介してもらいました」
女性は数秒、何も言わなかった。なぜか足元から前掛けまで1度だけ確認するように見て、それから視線を戻す。
「……なんですか?」
「行動力だけはすごいなと思って」
褒められている感じはあまりしなかった。
こうして会話している間も水は止まらない。彼女が指先を少し動かすたび、細い流れが自在に曲がり、汚れを剥がしていく。
「それ、どうやって動かしてるんですか?」
「うーん、感覚です」
「1番分からない答えきたな」
今度は、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「水を出すところまではそんなに難しくないです。量とか、流れとか、圧を細かく変えるのは慣れですけど」
そう言って、彼女は掌を上に向けた。
排水溝へ流れていた水の一部がふわりと持ち上がり、掌の上で小さな球になる。
近くで見ると、本当にただの水だった。透明で、照明を反射して揺れている。それなのに落ちない。
「触ってもいいですか?」
「……水ですよ?」
「いや、そうなんですけど」
我ながら何を言っているんだと思う。でも、触りたかった。
女性は少し呆れたように水球を俺の方へ寄せた。
「どうぞ」
1歩、近づく。
その瞬間、長靴の底が滑った。
「うわっ」
さっき自分で散々こすっていた床だ。水と脂がまだ薄く残っていたらしい。身体が前へ持っていかれ、咄嗟に手を伸ばす。
女性も反射的に俺の腕を掴んだ。
おかげで転倒はしなかった。
ただ、勢いまでは止まりきらなかった。
肩同士がぶつかり、俺はほとんど彼女に体重を預けるような格好になる。その拍子に、目の前に浮かんでいた水球がぱしゃりと崩れた。
冷たい水が、まともに頭から降ってくる。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
顔を上げると、彼女の顔がすぐ近くにあった。息がかかりそうな距離で目が合う。
緊急事態だというのに、綺麗な瞳だな、と余計なことを考える。
「……ご、ごめんなさい!」
弾かれたみたいに身体を離す。
1歩下がってから、今度は滑らないよう慌てて踏ん張った。
前髪から水がぽたぽた落ちる。
女性は数秒、濡れた俺を見ていた。
「……床、滑るって分かってましたよね」
「はい」
「自分でさっき言ってましたよね」
「はい」
「魔法に夢中になって忘れたんですか」
「……はい」
女性はしばらく俺を見たあと、少しだけ肩を落とした。
「怪我してないならいいですけど」
「本当にすみません」
「次からは魔法より先に足元見てください」
「肝に銘じます」
完全に呆れられていた。
気まずさをごまかすように、今度こそ慎重に作り直してもらった水球へ指先を入れる。
冷たい。
ただの水の感触だった。
なのに、指を引き抜いても水球は崩れず、空中に残っている。
「……すげえ」
つい口元が緩んでしまうのを止められない。
魔法は知識として知っていた。けれど、こんなふうに触れられるものだとは思っていなかった。
「俺にもできます?」
聞くと、女性はあっさり答えた。
「適性があれば。地上の人でも関係ないですよ。地上じゃ魔素がないから使えないだけなので」
「適性」
「魔法適性検査、受けてないんですか?」
「なんですか、それ」
また少し間が空いた。
「地下で働くなら、普通は登録のときに受けますけど」
「そうなんですか?」
「……たぶん、説明されてます」
心当たりがあった。
オンライン面談の後、長い案内メールが届いていた気がする。移動便の時間だけ確認して、ほとんど読んでいない。
「あー……」
「読んでないですね、これは」
「はい」
なぜか初対面の人に即座に見抜かれた。
「就労支援センターで無料で受けられますよ。寮が中央駅側なら、帰り道からそんなに外れないです」
「そこまで分かるんですか」
「この辺の寮、だいたい場所同じなので」
さらっと答えて、彼女はまた床へ視線を戻した。わざわざ道順まで考えてくれたようにも聞こえたが、本人は何でもないことみたいな顔をしている。
「マジですか」
思わず声が少し大きくなる。
俺にも魔法が使えるかもしれない。
その可能性だけで、胸の奥が妙に軽くなった。
地上で相場を見ていた頃なら、こんな不確かな話に期待するのは嫌いだったはずだ。数字で出ないものは信用しない。少なくとも、そういうつもりでいた。
でも今は、適性があるかどうかすら分からないのに、少し楽しみだった。
そういえば、ここまで話しておいて名前も知らない。
「あ、そうだ。俺、水原圭です」
彼女は1度、俺の胸元へ視線を落とした。
「知ってます」
「え?」
「名札。ずっと付いてます」
言われて前掛けを見る。
胸元に『水原圭』と、思ったより大きな字で書いてあった。
「……ほんとだ」
ちょっと恥ずかしい。
「冬木ナギです」
「冬木さん」
「ナギです」
「……ナギさん」
「はい」
ようやく、さっきから世話を焼いてくれている人の名前を知った。
それから俺は、ナギさんと同じ区画の清掃を担当することになった。
俺がブラシで大きな汚れを寄せ、ナギさんが水魔法で細かい部分を洗い流す。仕事の速さは明らかにナギさんの方が上だった。気だるそうに歩いているのに、手はほとんど止まらない。
途中、俺が無理に重い骨箱を持ち上げようとすると、横から淡々と止められた。
「それ、1人用じゃないです」
「でも持てそう」
「持てるかどうかじゃなくて、1人で持たない決まりです」
「なるほど」
「たぶん、これも最初に説明されてます」
「……なるほど」
2回目は少し気まずかった。
ナギさんはため息をつくでもなく、反対側の取っ手を持った。
「せーので行きますよ」
「お願いします」
そんなことを何度か繰り返しているうちに、最初は気になって仕方なかった獣臭にも少し慣れてきた。
暫く経った頃、作業終了の放送が流れた。
前掛けと長靴を返し、俺はそのまま出口へ向かおうとした。
「あの」
後ろから呼ばれて振り返る。
「打刻してないです」
「打刻?」
ナギさんが壁際の端末を指さす。見ると、自分の登録証はもう手にしまっている。どうやら打刻はとっくに終わっていたらしい。
「あれ押さないと、今日働いたことにならないです」
危うく1万8000円を無にするところだった。
「……もしかして、俺が押すの待ってました?」
一瞬だけ、ナギさんの視線が横へ逸れた。
「1万8000円消えるの、もったいないので」
「ありがとうございます。命の恩人ですね」
「1万8000円の恩人です」
真顔で訂正された。
端末へ登録証をかざすと、勤務完了の表示と一緒に報酬額が出た。
【本日の報酬 1万8000円】
数字を見た瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
相場で何十万、何百万という数字を動かしていた頃なら、1万8000円なんて小さく見えただろう。
でも今日は、自分の身体を動かして稼いだ金だった。
妙に重みがあった。
「次またここ入るなら、案内メール読んできた方がいいですよ」
「善処します」
「読まない人の返事ですね、それ」
図星だった。
俺が出口へ向き直ると、背後からもう1度声がした。
「水原さん。このあと、ご飯は?」
振り返る。
「まだですね。寮戻ってから何か食べようかなと」
「寮の食堂、何時までか知ってます?」
「……知らないです」
ナギさんは、やっぱりという顔をした。
「今日来たばっかりなら、そうですよね」
一瞬だけ迷うように視線を横へやってから、何でもないことみたいに続けた。
「私もこれから食べるので。近くに安くて美味しい店あります。寮と同じ方向ですし、ついでに案内しますよ」
「それって、一緒に飯食うってことですか?」
ほんの少し間が空いた。
「……結果的には」
「じゃあ、お願いします」
答えると、ナギさんは小さく頷いた。
「あと、適性検査は明日でいいです」
「今から行こうとしてたの、ばれました?」
「顔に書いてあります」
そんなに分かりやすい顔をしていたらしい。
「19時間かけて地下に来て、その日のうちに働いたんですよね。魔法は逃げないので、今日はご飯食べて、お風呂入って、寝てください。というか、今の時間はもう窓口閉まってます」
言い方は淡々としていた。でも、初対面の人間にここまで言う必要は本来ない気がする。
地下では、これくらい普通なんだろうか。
それとも、この人が少しだけ世話焼きなんだろうか。
まだ分からなかった。
この日、俺は地下で初めて金を稼いだ。
初めて魔法に触れた。
ついでに初対面の女性へかなり情けないところを見せて、その本人に夕飯まで連れていってもらうことになった。




