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FXで破産した俺、地下40kmから人生をやり直す  作者: 旗良北 九内
地下で生きる

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2/26

魔法

 「やるか」と言ってから、10分もしないうちに俺は少しだけ後悔していた。


 魔獣そのものを解体させられるわけではない。俺の担当は床の洗浄と、処理の終わった皮や骨を載せた台車の運搬補助。それでも、視界の端を巨大な角が横切ったり、作業台の上で見たこともない肉の塊が切り分けられていたりする。


 そして何より、床が滑る。


 血と水と脂が混じった赤黒い液体を、柄の長いブラシで排水溝へ押し流す。見た目ほど難しい仕事ではないが、思った以上に腕と腰にくる。


「……日給1万8000円、そういうことか」


 高いには高いなりの理由があるらしい。

 ただ、不思議と嫌ではなかった。汚れている場所をこすれば、そのぶんだけ床が綺麗になる。台車を押せば、物はちゃんと目的地まで動く。何をすればいいかが目の前にあるだけで、今の俺には妙にありがたかった。

 しばらく黙々とブラシを動かしていると、少し離れたところで水音がした。

 最初は誰かがホースを使っているんだと思った。

 でも、ホースがない。


 1人の女性が、作業台の脇に立っていた。


 俺より少し年下だろうか。小柄で細身、全体に華奢な印象だった。肩につかない短い髪は黒より少し淡く、白い肌の上に無造作に落ちていた。伏し目がちな目元までどこか色素が薄く、全体に柔らかい色合いをしている。姿勢は少し気だるげで、片手を腰に当てながら、もう片方の手だけを前へ出していた。


 その手の先に、水が浮いていた。

 拳ほどの透明な水球が、空中で止まっている。


「……え」


 水球が細長く伸びた。

 2本に分かれる。さらに枝分かれする。床へ降りた水は、生き物みたいに作業台の脚を回り込み、赤い汚れだけを拾いながら排水溝へ向かっていった。


 途中、流れの1本が俺の長靴へ近づいてくる。

 反射的に足を引いた。

 水は俺の靴の手前で左右に分かれ、そのまま後ろで再び1つになった。


「……すげえ」


 ブラシを持ったまま、完全に手が止まっていた。


 魔法だ。


 もちろん存在は知っている。地上には魔素がないから、向こうではどれだけ適性がある人間でも魔法は使えない。でも、地下で撮影されたニュース映像や競技番組なら何度も見たことがあるし、学校でも魔素や適性について一通り習った。

 でも、映像の中で見るのと、自分の目の前で水が空中に浮いて、意思があるみたいに動くのとでは、まるで違った。

 しかも使っている本人は、ものすごく普通の顔をしている。


「……そこ、終わってます?」


 女性がこっちを見た。


「え?」

「床です。そっち、全然進んでないみたいなので」


 声まで気だるげだった。


「あ、すみません」


 慌ててブラシを動かす。

 3往復くらいして、また横を見る。

 今度は水が壁を登っていた。

 また手が止まった。


「……そんなに珍しいです?」

「珍しいです。めちゃくちゃ」


 即答すると、女性は少しだけ眉を上げた。


「ただの生活魔法ですよ、これ」

「生活魔法でも魔法は魔法でしょう」


 そもそも生活魔法がなんなのか、地下に来たばかりの俺には分からない。

 女性は一瞬黙り、それから小さく肩をすくめた。


「地上の人ですか?」

「今日来ました」

「今日?」


 そこで初めて、彼女の視線が少しだけ俺に向いた。


「……今日来て、今日ここで働いてるんですか?」

「はい」

「仕事は来る前に決めてたんです?」

「いや、さっき求人アプリで見つけて」

「住むところは?」

「寮を紹介してもらいました」


 女性は数秒、何も言わなかった。なぜか足元から前掛けまで1度だけ確認するように見て、それから視線を戻す。


「……なんですか?」

「行動力だけはすごいなと思って」


 褒められている感じはあまりしなかった。

 こうして会話している間も水は止まらない。彼女が指先を少し動かすたび、細い流れが自在に曲がり、汚れを剥がしていく。


「それ、どうやって動かしてるんですか?」

「うーん、感覚です」

「1番分からない答えきたな」


 今度は、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


「水を出すところまではそんなに難しくないです。量とか、流れとか、圧を細かく変えるのは慣れですけど」


 そう言って、彼女は掌を上に向けた。

 排水溝へ流れていた水の一部がふわりと持ち上がり、掌の上で小さな球になる。

 近くで見ると、本当にただの水だった。透明で、照明を反射して揺れている。それなのに落ちない。


「触ってもいいですか?」

「……水ですよ?」

「いや、そうなんですけど」


 我ながら何を言っているんだと思う。でも、触りたかった。

 女性は少し呆れたように水球を俺の方へ寄せた。


「どうぞ」


 1歩、近づく。

 その瞬間、長靴の底が滑った。


「うわっ」


 さっき自分で散々こすっていた床だ。水と脂がまだ薄く残っていたらしい。身体が前へ持っていかれ、咄嗟に手を伸ばす。


 女性も反射的に俺の腕を掴んだ。

 おかげで転倒はしなかった。

 ただ、勢いまでは止まりきらなかった。

 肩同士がぶつかり、俺はほとんど彼女に体重を預けるような格好になる。その拍子に、目の前に浮かんでいた水球がぱしゃりと崩れた。


 冷たい水が、まともに頭から降ってくる。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 顔を上げると、彼女の顔がすぐ近くにあった。息がかかりそうな距離で目が合う。

 緊急事態だというのに、綺麗な瞳だな、と余計なことを考える。


「……ご、ごめんなさい!」


 弾かれたみたいに身体を離す。

 1歩下がってから、今度は滑らないよう慌てて踏ん張った。

 前髪から水がぽたぽた落ちる。

 女性は数秒、濡れた俺を見ていた。


「……床、滑るって分かってましたよね」

「はい」

「自分でさっき言ってましたよね」

「はい」

「魔法に夢中になって忘れたんですか」

「……はい」


 女性はしばらく俺を見たあと、少しだけ肩を落とした。


「怪我してないならいいですけど」

「本当にすみません」

「次からは魔法より先に足元見てください」

「肝に銘じます」


 完全に呆れられていた。

 気まずさをごまかすように、今度こそ慎重に作り直してもらった水球へ指先を入れる。


 冷たい。


 ただの水の感触だった。

 なのに、指を引き抜いても水球は崩れず、空中に残っている。


「……すげえ」


 つい口元が緩んでしまうのを止められない。

 魔法は知識として知っていた。けれど、こんなふうに触れられるものだとは思っていなかった。


「俺にもできます?」


 聞くと、女性はあっさり答えた。


「適性があれば。地上の人でも関係ないですよ。地上じゃ魔素がないから使えないだけなので」

「適性」

「魔法適性検査、受けてないんですか?」

「なんですか、それ」


 また少し間が空いた。


「地下で働くなら、普通は登録のときに受けますけど」

「そうなんですか?」

「……たぶん、説明されてます」


 心当たりがあった。

 オンライン面談の後、長い案内メールが届いていた気がする。移動便の時間だけ確認して、ほとんど読んでいない。


「あー……」

「読んでないですね、これは」

「はい」


 なぜか初対面の人に即座に見抜かれた。


「就労支援センターで無料で受けられますよ。寮が中央駅側なら、帰り道からそんなに外れないです」

「そこまで分かるんですか」

「この辺の寮、だいたい場所同じなので」


 さらっと答えて、彼女はまた床へ視線を戻した。わざわざ道順まで考えてくれたようにも聞こえたが、本人は何でもないことみたいな顔をしている。


「マジですか」


 思わず声が少し大きくなる。

 俺にも魔法が使えるかもしれない。

 その可能性だけで、胸の奥が妙に軽くなった。


 地上で相場を見ていた頃なら、こんな不確かな話に期待するのは嫌いだったはずだ。数字で出ないものは信用しない。少なくとも、そういうつもりでいた。

 でも今は、適性があるかどうかすら分からないのに、少し楽しみだった。


 そういえば、ここまで話しておいて名前も知らない。


「あ、そうだ。俺、水原圭です」


 彼女は1度、俺の胸元へ視線を落とした。


「知ってます」

「え?」

「名札。ずっと付いてます」


 言われて前掛けを見る。

 胸元に『水原圭』と、思ったより大きな字で書いてあった。


「……ほんとだ」


 ちょっと恥ずかしい。


「冬木ナギです」

「冬木さん」

「ナギです」

「……ナギさん」

「はい」


 ようやく、さっきから世話を焼いてくれている人の名前を知った。

 それから俺は、ナギさんと同じ区画の清掃を担当することになった。

 俺がブラシで大きな汚れを寄せ、ナギさんが水魔法で細かい部分を洗い流す。仕事の速さは明らかにナギさんの方が上だった。気だるそうに歩いているのに、手はほとんど止まらない。

 途中、俺が無理に重い骨箱を持ち上げようとすると、横から淡々と止められた。


「それ、1人用じゃないです」

「でも持てそう」

「持てるかどうかじゃなくて、1人で持たない決まりです」

「なるほど」

「たぶん、これも最初に説明されてます」

「……なるほど」


 2回目は少し気まずかった。

 ナギさんはため息をつくでもなく、反対側の取っ手を持った。


「せーので行きますよ」

「お願いします」


 そんなことを何度か繰り返しているうちに、最初は気になって仕方なかった獣臭にも少し慣れてきた。

 暫く経った頃、作業終了の放送が流れた。

 前掛けと長靴を返し、俺はそのまま出口へ向かおうとした。


「あの」


 後ろから呼ばれて振り返る。


「打刻してないです」

「打刻?」


 ナギさんが壁際の端末を指さす。見ると、自分の登録証はもう手にしまっている。どうやら打刻はとっくに終わっていたらしい。


「あれ押さないと、今日働いたことにならないです」


 危うく1万8000円を無にするところだった。


「……もしかして、俺が押すの待ってました?」


 一瞬だけ、ナギさんの視線が横へ逸れた。


「1万8000円消えるの、もったいないので」

「ありがとうございます。命の恩人ですね」

「1万8000円の恩人です」


 真顔で訂正された。

 端末へ登録証をかざすと、勤務完了の表示と一緒に報酬額が出た。


【本日の報酬 1万8000円】


 数字を見た瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。

 相場で何十万、何百万という数字を動かしていた頃なら、1万8000円なんて小さく見えただろう。

 でも今日は、自分の身体を動かして稼いだ金だった。

 妙に重みがあった。


「次またここ入るなら、案内メール読んできた方がいいですよ」

「善処します」

「読まない人の返事ですね、それ」


 図星だった。

 俺が出口へ向き直ると、背後からもう1度声がした。


「水原さん。このあと、ご飯は?」


 振り返る。


「まだですね。寮戻ってから何か食べようかなと」

「寮の食堂、何時までか知ってます?」

「……知らないです」


 ナギさんは、やっぱりという顔をした。


「今日来たばっかりなら、そうですよね」


 一瞬だけ迷うように視線を横へやってから、何でもないことみたいに続けた。


「私もこれから食べるので。近くに安くて美味しい店あります。寮と同じ方向ですし、ついでに案内しますよ」

「それって、一緒に飯食うってことですか?」


 ほんの少し間が空いた。


「……結果的には」

「じゃあ、お願いします」


 答えると、ナギさんは小さく頷いた。


「あと、適性検査は明日でいいです」

「今から行こうとしてたの、ばれました?」

「顔に書いてあります」


 そんなに分かりやすい顔をしていたらしい。


「19時間かけて地下に来て、その日のうちに働いたんですよね。魔法は逃げないので、今日はご飯食べて、お風呂入って、寝てください。というか、今の時間はもう窓口閉まってます」


 言い方は淡々としていた。でも、初対面の人間にここまで言う必要は本来ない気がする。

 地下では、これくらい普通なんだろうか。

 それとも、この人が少しだけ世話焼きなんだろうか。

 まだ分からなかった。


 この日、俺は地下で初めて金を稼いだ。

 初めて魔法に触れた。

 ついでに初対面の女性へかなり情けないところを見せて、その本人に夕飯まで連れていってもらうことになった。

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