地下へ
初投稿です。よろしくお願いします。
人生が終わったのは、午前2時13分だった。
スマホの画面に表示されたのは、ロスカット完了の通知だった。少し前まで8桁あった口座残高は、ほとんど何も残っていない。生活費まで入れた。カードローンから借りた金も入れた。それでも戻ると思っていた。
画面を閉じても、もう1度開いた。数字は変わらなかった。
「……っ」
声は、出なかった。
ここ数年、俺の仕事は相場だけだった。朝起きてチャートを見て、飯を食いながらチャートを見て、夜中まで数字を追う。会社に行く必要もなければ、上司も同僚もいない。それで生活できていたし、少なくとも昨日までは、うまくやっているつもりだった。
全部なくなった。
水原圭、25歳。職業、専業トレーダー。貯金ほぼゼロ。借金387万2000円。
その日は眠れなかった。翌日も、その次の日も、ほとんど眠れなかった。腹が減った気はするのに何を食べたのか覚えていない。コンビニへ行った形跡だけはレシートで分かった。
何度も銀行残高を見た。何度も借入残高を見た。見たところで数字が変わるわけでもないのに、他にやることが思いつかなかった。返さないといけない。どうやって。考えようとすると、頭の中が止まった。
今までなら、損失が出ても次の手を考えた。でも今は、その「次」に使う金がない。俺は初めて、相場のない時間に何をすればいいのか分からなくなった。
3日目の夜だったと思う。検索履歴には「借金 返済」「高収入 仕事」「即金」みたいな単語が並んでいた。その中で、1件の広告が目に入った。
【地下第1都市・就労支援登録】
【未経験可の高収入求人多数】
【日給2万8000円以上の求人あり】
【住居紹介・移住手続きサポート】
対象地域、地下第1都市。地表から約40キロ。
地下第1都市そのものは知っている。ニュースにも旅行番組にも出るし、学校でも習う。何十万人も暮らす巨大地下都市で、観光客だって普通に行く。普段なら、仕事も決めずに40キロ地下へ移住する話なんて、もう少し考えただろう。
そのときの俺は、ほとんど考えなかった。
「……2万8000円」
計算だけは速かった。月に20日働けば50万円を超える求人もある。少なくとも、この部屋で残高を眺め続けるよりはましに思えた。
運営元が行政の地下就労支援ページにも載っていることだけ確認して、登録ボタンを押した。
◇
翌日のオンライン面談で、担当者に職歴を聞かれた。
「専業でトレードしてました」
「会社で働いた経験は?」
「ないです」
「希望する仕事はありますか?」
「稼げるやつで」
担当者が一瞬だけ黙った。
「こちらは就職先を決める面接ではありません。登録後、現地の求人アプリからご自身で仕事を選んでいただきます。こちらで手配できるのは、移動便と住居紹介窓口までです」
「分かりました」
たぶん、半分くらいしか分かっていなかった。
「では、1週間後の便を押さえますか?」
「お願いします」
反射的に答えた。通話が切れてから、しばらく画面を見つめる。
1週間後。地下40キロ。住む場所は現地で紹介してもらう。仕事は、まだ決まっていない。
「……俺、何してるんだろ」
ようやく少しだけ我に返った。それでもキャンセルはしなかった。あの頃の俺には行き先より、ここではないどこかへ移動することの方が重要だった。
そして1週間後、本当に俺は地上を離れた。
◇
深層軌道エレベーター は、俺が想像していたエレベーターとは全然違った。巨大なターミナルに改札が並び、その先には長距離列車みたいな乗降口がある。座席指定で、売店も食堂もある。所要時間、約19時間。
「……長」
周囲には作業員、旅行らしい家族、武器ケースを背負った若者までいる。誰も特別な顔はしていない。
観光ポスターには、発光樹の並木や地下湖、迷宮産素材を使った料理が並んでいた。魔法も魔獣も、地上にいた頃から知識としては知っている。ニュースで討伐映像が流れるし、子どもの頃には魔獣図鑑を眺めたこともある。
ただ、それは恐竜や宇宙飛行士の話に近かった。実在するのは知っている。でも、自分の生活とは別世界のものだった。
発車して通信が切れると、眠って、起きて、車内食を食べ、また眠った。味は覚えていない。
19時間後。
【まもなく、地下第1都市中央駅です】
荷物を持って立ち上がった。何をしに来たんだっけ。借金を返すためだ。それは分かる。でも、その先は何も考えていなかった。
扉が開いた。
◇
地下第1都市は、知識で知っていたより遥かに大きかった。天井は霞み、巨大な柱の間を建物が埋め、頭上にも道路や通路が走っている。白い人工光の向こう、遠くの壁面まで無数の明かりが続いていた。
「……すご」
口からは出た。でも、まだ心が追いつかない。
それでも駅前へ出て、足が止まった。
犬ほどの大きさの蜥蜴が荷車を引いている。背中には黒い甲殻が並び、鼻先から薄い湯気を吐いていた。使役用の魔獣なのだろう。その爪が石畳を鳴らす音は、テレビ越しでは絶対に聞こえなかった。
少し先では、作業服の男が指先に小さな火を灯し、そのまま煙草へ火をつける。
「……マジでいるんだな」
いること自体は知っている。魔獣も魔法も教科書に載っている。それでも、自分の数メートル先を魔獣が歩き、人間が何気なく魔法を使っている光景は、知識とはまるで別物だった。
驚きなのか、怖さなのか。それとも昔、図鑑を開いたときみたいな気持ちなのか。胸の奥がほんの少しだけざわついた。
とりあえず住居紹介の窓口へ行こう。そう思って歩き出したときだった。
炭の煙と、焼けた肉の匂いに足を止められた。
駅前の屋台で、拳ほどもある肉の塊が串に刺されている。店主が返すたび、脂が炭へ落ちて、じゅうっと白い煙が立ち上った。
【迷宮産・岩猪串 1本480円】
「……岩猪」
名前だけなら聞いたことがあった。浅い迷宮域に棲む猪型の低級魔獣。昔、特集番組で見た気がする。
「兄ちゃん、1本?」
「ください」
考える前に答えていた。紙に包まれた串を受け取る。表面は照りが出るほど脂をまとい、焦げ目のついた端には粗い塩が残っていた。
改めて串を見る。
「俺、魔獣食うのか……」
ほんの少しだけ笑いそうになった。数日前まで自室で相場を見ていた俺が、今は地下40キロで、迷宮から獲ってきた魔獣を食べようとしている。
1口、噛んだ。
表面がぷつりと切れ、熱い肉汁が口いっぱいに広がった。
「っ……」
熱い。でも吐き出したくない。
炭火の香ばしさのあとから、濃い肉の旨味が追いかけてきた。豚肉に似ている。でももっと味が濃い。野性味があるのに臭みはなく、脂は驚くほど甘い。粗塩がその甘さを引き立て、飲み込んだあとに木の実みたいな香りが鼻へ抜けた。
気づけば2口目を食べていた。今度は少し冷まして、大きく噛み取る。柔らかい。噛むたびに肉汁が出る。
「……うま」
もう1口。
「……めちゃくちゃ、うまいな」
ロスカットされてから、初めて自分の声に感情が乗った気がした。
ここ数日、腹が減ったから食べていただけだった。何かを「うまい」と思ったのも、「もう1回欲しい」と思ったのも久しぶりだった。
最後の1切れを惜しみながら噛んで、顔を上げる。
さっきまでただ巨大なだけに見えていた街が、少し違って見えた。向こうでは青い湯気の立つスープを売っている。知らない食材、知らない看板。頭上では鳥型の魔獣が籠をぶら下げて飛んでいった。
あれは何だろう。あっちは、どんな味がするんだろう。
借金は387万2000円ある。仕事もまだしていない。地下の常識も知らない。それでも、この街には俺の知らないものが山ほどあるらしい。
「……もう1本」
財布を出しかけて、止めた。さすがに今は我慢した。でも、少し笑った。
次に食えばいい。
その「次」が自然に頭に浮かんだことが、不思議だった。
「……ここで生きるか」
借金を返すために来た。それは変わらない。でも、返し終わるまで息を止めるみたいに暮らす必要はない。
働いて、飯を食って、知らないものを見る。画面の向こうにしかなかった魔獣も、魔法も、迷宮も、この街では全部が日常らしい。だったら、その日常を少しくらい見てみたい。
スマホを見る。残高、6万3520円。480円減っていた。
「……まあ、これはいいか」
たぶん、ここ数日で1番まともな金の使い方だった。
◇
岩猪串を食べ終えると、今度こそ住居紹介窓口へ向かった。登録証を見せると、案内されたのは地下就労者向けの共同寮だった。個室はあるが、風呂や洗濯場、食堂は共用。ひとまず1週間入れて、仕事が決まればそのまま延長もできるらしい。
寮は駅から歩いて10分ほどの古い建物だった。廊下では作業着姿の男が眠そうに欠伸をし、共用ラウンジの奥からは何人かの笑い声が聞こえてくる。地上から知り合い1人いない街へ来たはずなのに、完全に1人きりという感じはしなかった。
割り当てられた部屋は、ベッドと机と小さな収納だけの簡素な個室だった。キャリーケースを置けば、それだけで少しだけ「今日寝る場所」ができた気がする。時計を見ると、まだ午前中の早い時間だった。
「……じゃあ、働くか」
登録時にもらった求人アプリを開くと、鉱石運搬、水路清掃、発光苔の除去、迷宮域入口の資材搬入補助と、知らない仕事ばかりが並んでいた。
その中で、1件の求人が目に入った。
【解体場・清掃】
【日給1万8000円/即日払い/未経験可】
【勤務開始 1時間後】
「これだな」
清掃なら専門知識はいらなそうだ。俺は詳細欄をろくに開きもせず応募し、1分後には採用通知を受け取っていた。
そういうところだけは、妙に迷いがなかった。
地下第1都市 の中心部から乗合バスで工業区画へ向かう。窓の外を流れる倉庫を眺めているうちに、ふと1つの疑問が浮かんだ。
「……ところで、何を解体するんだろう?」
求人票には、ただ『解体場』としか書いていなかった気がする。
まあ、着けば分かるか。
◇
20分後、解体場に着いた瞬間、答えはだいたい分かった。
「……臭っ」
巨大な倉庫から、獣臭と鉄臭さが混ざった空気が流れてくる。入口脇には、俺の身長より大きな角と、青黒い鱗の束が積まれていた。
「ああ……そっちの解体か」
地下では魔獣が狩られ、肉や皮、角や骨が資源になる。それくらいは知っている。でも実物の角は、画面で見るよりずっと大きくて、生々しかった。
怖い。なのに、少しだけ胸が高鳴る。
本物だ。
子どもの頃、図鑑の見開きに載っていたようなものが、今は目の前に無造作に積まれている。
受付で名前を告げると、ゴム製の前掛けと長靴を渡された。
「初めて?」
「はい」
「じゃあ洗浄と運搬補助。刃物には触らない。赤線より奥にも行かない。床滑るから走らない。重いものは一人で運ばない」
「分かりました」
係員が奥の扉を開けた。冷たい空気と濃い獣臭。その向こうでは、見たこともない巨大な獣が作業台の上に横たわっている。湾曲した2本角。岩みたいに盛り上がった肩。脚1本だけでも俺の胴体より太い。
魔獣だった。
映像じゃない。図鑑でもない。本物の魔獣が、手を伸ばせば届きそうなところにいる。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。直後に床の赤さが目に入って、少しだけ現実に戻る。
「いや、すげえとか言ってる場合じゃないな……」
でも逃げようとは思わなかった。むしろ、さっきまでより少しだけ、この仕事をやってみたくなっていた。
画面の向こうにしかなかったものが、ここでは仕事になって、飯になって、人の暮らしにつながっている。
「やるか」
借り物の長靴で、赤い床へ1歩踏み出した。
地下生活、1日目。俺はようやく、自分から前へ進んだ。




