避けられない戦い
鉱牙鼠が1匹、ナギの水を飛び越えた。
真っ直ぐ俺へ来る。
銃を向けるには近すぎる。
身体を半歩ずらし、反対側の腰へ手を伸ばした。
灰銀の短剣を抜く。
刃へ魔力を流すと、手の中でほんの少し硬さが増した感覚があった。
噛みついてきた前歯を、刃で受ける。
止めるんじゃない。
横へ逸らす。
腕に衝撃が来た。
想像していたより重い。
それでも刃は欠けなかった。
鉱牙鼠の身体が俺の横を抜ける。
そこへシズルの剣が入った。
「圭くん、よく耐えた」
ほんの少しの時間だったけど、やり過ごせた。それだけでも短剣を持っている意味はあった。
前方の魔獣は残り4匹。
ナギが両手を低く構える。
【水縛】
床を走った水が、先頭の2匹の前脚へ絡みつく。
動きが鈍ったところで、残りが左右へ割れた。
俺はシズルへ【加速補助】を1度だけ入れる。
右側をシズルが処理する。
左側は倒さず、岩陰へ逃がす。
全部を殺す必要はない。
橋までの道が空けばいい。
最後の鉤爪猿が壁を登って消えた。
静かになった。
俺はすぐ端末を開く。
『緊急報告:黒晶特別個体』
『位置:中級試験第3確認地点手前』
『上級判定パーティ《北極星》交戦中』
『周辺魔獣の移動あり』
送信。
数秒で返信が来た。
『受理』
『周辺ルート一時閉鎖開始』
『応援パーティ到着見込み:約15分』
15分。
短いようで、今は長い。
「橋、確認します」
ナギが先へ走らず、例の亀裂の手前で止まる。さっきより細かな石が落ちていた。黒晶岩熊の衝撃がここまで伝わっている。
細い水を亀裂へ流し込む。
水が途中から右へ抜けた。
「さっきより亀裂が広がってます」
「渡れる?」
ナギはすぐ答えず、橋の端と中央を見比べた。
「左寄りなら。中央は踏まない方がいいです。次に大きく揺れたら、その後は分かりません」
なら、ここを使えるうちに確保する。
「シズル、橋の向こう行ける?」
「行く」
1人ずつ。試験でやった通りに渡る。
シズルが左端を通り、向こう岸へ着く。周囲を確認して、短く手を上げた。
安全が確認できたようだ。
俺とナギはこっち側へ残った。
《北極星》の5人が戻ってきた時、全員が渡れるようにしておくためだ。
ナギが橋の安全な部分へ薄く水を這わせた。青白い苔の光を反射して、左側だけが細く光る。
「帰る時、ここ踏んでください」
「即席の誘導線か」
ナギが頷く。
こういう使い方が、今のナギらしい。
奥からまた衝撃が来た。
今度は空気だけじゃない。
通路の壁が低く唸り、橋の下へ小石が落ちる。
ナギが亀裂を見る。
まだ持つ。
「……大丈夫ですかね」
「俺たちが心配しても仕方ない」
そう言いながら、俺も同じことを考えていた。
少しだけ通路の奥を覗く。
ここからでも、戦闘の一部が見える。
宗吾さんが大盾で黒晶岩熊の正面を取り、透さんが横へ回る。朱音さんは魔法を連射せず、黒い結晶の光が弱くなった瞬間だけ雷を撃っている。少し後ろでは湊さんが障壁を張り直していた。
先程とは戦い方が変わっている。
その全部を、怜司が後ろから動かしていた。
「宗吾、右肩切れ。次、前」
宗吾さんの足元へ魔法が入る。
「3秒だけ耐衝撃。受けずに押せ」
別の魔法が重なる。
「透、今。目ぇちゃう、首」
透さんの肩へ、また違う光。
「湊、前だけ薄く! 朱音は待て!」
湊さんの障壁が宗吾の前へ重なり、朱音さんは杖を下げたまま機会を待つ。
1人へ1つじゃない。
必要な場所へ、必要な瞬間だけ。
支援魔法が入ったことすら見落としそうなくらい短い。
俺がシズルやナギに補助魔法をかける時は、重心、足、視線を必死に追っていて、対象者以外を確認する余裕はない。
なのに、怜司さんは4人を同時に見ていた。
しかも黒晶岩熊まで。
完成形という言葉が頭に浮かんだ。
その時、背後で爪音がした。
「圭くん、3」
橋の向こうからシズルの声。
鉤爪猿が3匹、別の横道から飛び出していた。
1匹は床。もう1匹は壁。3匹目は天井近くの出っ張りへ爪を立てている。
俺は反射的に手を上げる。
【加速補助】を――
「いらない」
シズルが短く言った。
「温存」
次の瞬間、1匹目が飛び込んだ。
シズルは前へ出ない。
橋を背負ったまま、固い地面の上で半歩だけ身体をずらす。
爪が肩の横を抜ける。
剣が手首へ入った。
深追いしない。
1匹目が横へ流れた時には、もう2匹目へ向いていた。
2匹目はシズルではなく橋へ走った。
そこだけは通さない。
低く踏み込み、膝裏を斬る。
猿の身体が橋の手前で崩れた。
3匹目が壁を蹴った。
上から落ちてくる。
シズルは振り返らなかった。
身体だけを沈める。
爪が髪の上を抜けた。
立ち上がる動きのまま、剣を返す。
一閃。
3匹目が地面へ転がった。
10秒もかかっていない。
橋には1匹も乗っていなかった。
シズル自身も、1度も傷んだ部分を踏んでいない。
速いだけじゃない。
どこで戦えばいいかまで分かっている。
俺は上げかけた手を下ろした。
頼もしい仲間だ。
前では《北極星》が黒晶岩熊と戦っている。
後ろでは俺たちが退路を確保。
同じ戦場にいるけど、やっている仕事は違う。
それでいい。
黒晶岩熊が大きく身体を振った。
宗吾さんが盾を引いてかわす。
前脚が地面を叩いた。
結晶が光る。
「離れろ!」
衝撃波。
《北極星》の4人が一斉に距離を取る。
朱音さんが岩へ肩をぶつけた。
湊さんの障壁が間に入ったおかげで直撃ではない。でも、構えていた魔法が乱れる。
黒晶岩熊がそちらへ顔を向けた。
宗吾さんが割って入る。
熊が進路を変えた。
こちら――橋の方へ少しだけ向く。
怜司さんが一瞬で距離を見る。
「ナギ! 右後ろ足だけ崩せるか!」
突然名前を呼ばれたナギが、それでも迷わず両手を下げた。
「やります!」
大量の水は出さない。
床へ薄く広げる。
黒晶岩熊の右後ろ足、その着地点だけに魔法を放つ。
【水縛】
巨体を止めるほどの力はない。
でも踏み込んだ右足が、数センチ外へ滑った。
熊の肩がわずかに開く。
「十分!」
宗吾さんが横から大盾を押し込み、長槍の柄で熊の進路を奥へ戻した。
ナギが息を吐く。
上級探索者と同じ相手を倒したわけじゃない。
ほんの1歩、向きをずらしただけ。
でも、それで宗吾さんが間に合った。
怜司さんはもう次を見ている。
朱音さんが魔法を作り直した。
さっき壁へ肩をぶつけたせいか、雷の先端が揺れているのが見えた。
撃てば当たる。
でも、たぶん黒い結晶にも当たってしまう。
そうしたら、また魔法が吸われてしまう。
考えるより先に手が動いた。
【制御補助】
俺の魔力が、朱音さんのまとめている魔力へ触れる。
広がっていた先端を締める。
漏れていた流れを中央へ寄せる。
俺が魔法を作るわけじゃない。
彼女が作っているものを、崩れにくくするだけ。
細くなった雷槍が、黒晶岩熊の前脚と胸の境目へ突き刺さった。
熊が吠える。
怜司さんが一瞬だけ、こっちを見た。
「……お前、その支援」
「今それ聞きます!?」
怜司が笑った。
「せやな。あとや!」
すぐ戦場へ視線を戻す。
「圭、もう1回だけ借りる! 制御だけ! 広げんな!」
今度は明確な指示だった。
朱音さんがもう1度魔力を集める。
さっきより細い。
俺は【制御補助】を重ねる。
自分の魔力が減る。
でも、まだいける。
怜司さんの支援が宗吾さんへ入った。
「宗吾、今や!」
宗吾さんは頭を狙わない。
盾で前脚を外側へ弾き、長槍の柄で胸を開かせる。
黒い結晶が薄い場所。
朱音さんの一撃がそこへ入る。
熊の身体が初めて大きく傾いた。
倒せる。
一瞬、そう思った。
同時に、腰の銃へ手が行きかけた。
今なら俺の1発も入るかもしれない。
特別個体。
大きな魔石。希少素材。報酬。
いくらになるんだろう。
そんな言葉が、ほんの一瞬だけ頭の端を通った。
昔なら、その一瞬に乗っていたのかもしれない。
次の値動きだけ見て、ここで入れば取り返せると考えていた頃なら。
でも、銃は抜かなかった。
俺の役割はそこじゃない。
後ろで、小さな爪音がした。
「水原さん、後ろ!」
鉱牙鼠が2匹、また通路へ出ている。
俺は熊から目を離した。
「シズル!」
橋の向こうでシズルが振り返る。
【加速補助】
シズルが橋を戻ってくる。
ナギが水を走らせる。
【水縛】
俺は銃を抜く。
今度の1発は、ちゃんと俺たちの仕事だった。
1匹を撃って横へ流す。
もう1匹をシズルが止める。
ナギは橋の手前へ細い水流を走らせ、奥から来る個体の足元だけを払う。
背後で、大きな音がした。
岩熊の咆哮。
盾が地面を擦る音。
雷が一点へ収束する音。
魔力銃が2度鳴る。
最後に、重いものが倒れた。
しばらく誰も声を出さなかった。
俺は橋の向こうを見たまま、銃口を下げない。
ナギも水を消さない。
シズルも剣を構えたまま。
数秒後、怜司さんの声が聞こえた。
「終わり! 《暁》、その場維持!」
俺たちは動かなかった。
さらに数分。
《北極星》の5人が戻ってくる。
全員、自分の足で歩いていた。朱音さんの肩だけ少し赤くなっている。宗吾さんの腕にも擦り傷があるが、湊さんがその場で確認している。大きな怪我はなさそうだった。
怜司さんは橋の手前まで来ると、黒晶岩熊の話より先に俺たち3人を見た。
「3人とも怪我は?」
「ありません」
シズルも首を横に振る。俺も大丈夫だと答えた。
怜司はそこで初めて肩の力を抜いた。
「よし。橋、どこ歩けばええ?」
ナギが事前に水で薄く光らせた線を指す。
「この線です。1人ずつお願いします」
怜司さんが橋を見る。それからナギを見る。
「了解。ええ仕事するなあ」
ナギが少しだけ嬉しそうに目を細めた。
1人ずつ橋を渡った。
最後に怜司さんが渡り切った直後、奥から遅れて崩れる音がした。
橋そのものではない。
でも全員の歩みが1度止まる。
その時、透さんが橋の向こうに残った鉤爪猿の跡へ視線を向けた。
それからシズルを見る。
「さっき、向こう3匹いたよな」
シズルがこくりと頷いた。
「一人でやったの?」
「……朝飯前」
透さんは一瞬だけ目を細めた。
「……今日1日後ろから見てたけど、なかなかいい足さばきだったな」
シズルは少しだけ目を瞬かせてから、また小さく頷いた。
「どうも」
それだけだった。
本人は特に気にしていない顔をしているけど、俺はシズルが褒められてちょっと嬉しかった。
「もうええ。帰るで」
「試験は?」
聞くと、怜司さんが1度だけ端末を見る。
「中止のままや」
やっぱり。
少しだけ胃が重くなった。
でも、今はそれでいい。
全員で帰れたことが収穫だった。




