試験中止
「《暁》。止まれ」
怜司さんの声を聞いた瞬間、俺たちは全員その場で止まった。
さっきまで試験中は何も教えないと言っていた男が、自分から口を出した。その意味を考える必要はなかった。
「ゆっくり3歩下がれ。音立てんな」
シズルも剣を抜かない。ナギも魔法を出さない。
1歩。
2歩。
3歩。
斥候の透さんだけが前へ出た。腰の魔力銃には手をかけず、黒い欠片にも触れない。壁際の地面、岩の削れ方、通路の奥へ続く擦れ跡を順番に見る。
しゃがんだまま少しだけ顔をしかめた。
壁の高さ、人間の肩より上の位置に、浅い引っかき傷が続いている。
地面には丸く大きな足跡。
爪の先が、石へ食い込んでいた。
透はそれ以上進まず戻ってきた。
「岩熊の足跡だ。かなりでかい。しかも黒晶片」
その言葉に、ナギの表情が固くなる。
「岩熊って、この辺に出るんですか?」
返事をしたのは怜司さんだった。
「出えへん。もっと奥や。少なくともこの試験ルートで出るやつちゃう」
関西弁の軽さがない。
怜司は端末を開き、地図を一瞬だけ確認する。
「直近の記録にもなし。移動個体か、押し出されたか……どっちにしても予定外やな」
また音がした。
今度は近い。
岩が削れる音。
硬いものが壁へ擦れ、細かな石がぱらぱら落ちる。
通路の奥、暗がりの中から大きな前脚が出た。
最初に見えたのは爪だった。次に肩。そこから生えている、黒い結晶。
身体が全部出てくる。
大きい。
頭の位置が俺よりずっと高い。四足なのに、肩だけで人間の胸くらいある。灰色の毛皮の上を、黒い石英みたいな結晶が鎧のように覆っていた。
背中の結晶同士が擦れるたび、乾いた音がする。
普通の岩熊を見たことはない。
それでも分かった。
これは普通じゃない。
黒晶岩熊――そんな分類があるなら、たぶんこいつだ。
怜司さんが1度だけ息を吐き、端末を操作した。
『中級昇級試験:中断』
「試験中止。あれはお前らにやらせる相手ちゃう」
言い切るのと、熊が頭を上げるのはほとんど同時だった。
鼻先が動く。
こっちを見た。
黒晶岩熊が吠えた。
空気が震える。
腹の奥まで響く低い声だった。
俺の身体が反射的に固くなる。
その前へ、前衛の橘宗吾が出た。
大盾を構え、長槍の石突きを床へ滑らせる。後ろへ逃がすために前へ出る。迷いがない。
怜司さんの声が飛ぶ。
「宗吾、前2歩。受けんな、流せ」
同時に、いくつもの支援の光が走った。
宗吾さんの脚。
朱音さんの腕。
湊さんの指先。
透さんの肩。
別々の支援だ。
しかも、ほとんど同時。
黒晶岩熊が突っ込む。
宗吾さんは真正面から止めない。大盾の縁を肩口へ当て、長槍の柄で軸を押しながら身体ごと斜めへずれる。
巨体の進路が半歩だけ外れた。
それだけで十分らしい。
透さんの魔力弾が耳の後ろを撃ち抜く。
朱音さんが細身の杖を振る。
青白い雷が1本の槍みたいに収束し、肩の黒い結晶へ突き刺さった。
結晶が光った。
――吸った。
そう見えた。
青白い光の一部が、黒い結晶の奥へ沈む。
「止め! 追撃すんな! 吸われてる!」
朱音さんが次の魔法を作りかけた手を止める。
透さんも2射目を見送った。
湊さんが前へ薄い障壁を展開する。
次の瞬間、黒晶岩熊が前脚を地面へ叩きつけた。
黒い結晶が一斉に光る。
衝撃が来た。
見えない壁に殴られたみたいに、空気が前から押し寄せる。
宗吾さんは盾を立てたまま半歩滑った。
湊さんの障壁が軋み、衝撃を散らす。
透さんは先に岩陰へ身体を入れている。
俺たちは後ろにいたのに、1歩押された。
ナギの肩が俺へ当たる。
天井から小石が落ちた。
奥の壁に入っていた細い亀裂から、砂みたいな粉がこぼれる。
「これ……受けた魔力を返してる?」
「たぶんな。衝撃も混じってる。黒晶個体や。下手に全員で殴ったら、こっちが食らう」
言いながらも、怜司さんはこっちを見ていない。
仲間4人と熊を全部視界に入れている。
それまで試験官だった5人が、もう完全に探索者の顔へ変わっていた。
「《暁》、戻れ。2つ目の確認地点まで下がって協会へ緊急報告。橋は1人ずつや。走んな」
俺は反射的に頷いた。
「分かりました」
ここで俺たちが一緒に殴れば役に立つ――とは思わなかった。
あの衝撃波を1回見れば十分だった。
俺たちが残ったら、《北極星》は俺たちを守りながら戦うことになる。
それは援護じゃない。邪魔だ。
「ナギ、シズル。戻る」
シズルは一瞬だけ熊を見た。
前衛として、ここで撤退するのが悔しいのかもしれない。
でも剣は抜かなかった。
「……分かった」
ナギもすぐ俺の後ろへつく。
走らない。
でも、急ぐ。
背後で盾へ何かがぶつかる重い音がした。
怜司さんの短い指示が続く。
振り返らない。
◇
最初の曲がり角を越えたところで、前方から音がした。
小さい。
たくさん。
シズルが足を止める。
「来る」
次の瞬間、鉱牙鼠が岩陰から飛び出してきた。
1匹ではない。
5、6、7。
後ろからさらに来る。
俺たちを狙っているというより、何かから逃げている。
耳を伏せ、こっちを見る暇もないまま走っている個体までいた。
これを全部避けて橋まで戻るのは無理だ。
だからといって、後ろの熊へ戻る選択肢はもっとない。
「ここで止める。熊の方には行かせない。橋までの道だけ作ろう」
ナギがすぐ頷く。
「全部倒さなくていいですよね」
「うん。横道に逃げるやつは逃がす」
シズルが剣を抜いた。
「前、やる」
もう試験じゃない。
評価も点数も関係ない。
ただ帰るための戦闘だ。
ナギが両手を低く広げる。
床すれすれを水が走った。
先頭の鉱牙鼠の前脚だけを払う。
1匹が転がり、後続がそれを避けて左右へ割れた。
その中央へシズルが入る。
【加速補助】
1歩。
右へ膨らんだ1匹の前へ出て、剣の腹で進路を変える。
2匹目の喉元だけを切る。
倒す相手と逃がす相手を分けている。
ナギが次の水を低く走らせる。
【水縛】
鼠の脚。
猿の着地点。
通路の中央ではなく、外側だけを崩す。
俺は銃を抜いた。
シズルの背中は撃たない。
ナギの横も通さない。
外側へ膨らみすぎた1匹だけを見る。
1発。
2発目は撃たない。
魔力を残す。
【制御補助】
ナギの広げた水が、乱れず2方向へ分かれる。
鉤爪猿2匹が別々の壁際へ押される。
シズルが中央を空ける。
道が少しずつ見えてきた。
その時、後ろからまた衝撃音が響いた。
岩壁が震える。
さっきより近く感じた。
ナギが1度だけ後ろを見る。
「来てませんよね?」
「来てたら怜司さんが先に叫ぶ」
そう答えた直後、通路の奥から声が飛んできた。
「《暁》! そっち任せる!」
俺は振り返らなかった。
「了解です!」
返事だけして、目の前の退路を見る。
試験官に守られているだけじゃない。
今この瞬間だけは、《北極星》も後ろを俺たちへ任せている。
俺たちが黒晶岩熊を倒す必要はない。
今やるべきことは、ここを通れる道に戻すことだった。




