成長の自覚
第4標識の向こうへ進んだのは、その4日後だった。前回と同じ黒い柱の前で1度足を止める。腰には魔力銃。反対側には、前回拾った灰銀の短剣。
短剣を抜くような場面には遭遇したくないけど、何もなかった頃よりは少し安心感がある。
標識の先は、急に別世界になるわけではなかった。ただ、道は少し細くなり、壁を伝う水の量が増えている。青白い苔の光も弱く、曲がり角の先が見えにくい。
「この辺から、横道が増えます。帰り道、ちゃんと覚えておいてくださいね」
「俺に言ってる?」
ナギがこっちを見る。
「水原さん、そういうの苦手そうですし」
否定できなかった。シズルは先頭で地面の傷と壁の影を確認しながら進んでいる。
いつも通り口数はないけど、第4標識を越えたせいか少しだけ楽しそうに見えた。
◇
最初の戦闘は、標識から10分ほど進んだところだった。上から爪が岩を擦る音がする。
「3」
シズルが呟く。
見上げると、岩棚に鉤爪猿が3匹いた。2匹はシズルを見ている。残り1匹だけが、俺とナギの方へ身体を向けた。
シズルが剣を抜く。
猿が飛ぶ。
【加速補助】
シズルの1歩が伸びる。
1匹目の爪を外し、そのまま脇へ潜り込む。俺の視線はシズルに残したままだった。
その横で、もう1匹がナギへ飛んだ。
ナギが右手を上げる。
【水弾】
水の塊が真っ直ぐ飛ぶ。鈍い音がして、鉤爪猿の身体が途中で完全に止まった。
次の瞬間、そのまま後ろへ弾かれて岩壁へ叩きつけられる。
俺は思わずそっちを見た。ナギも見ていた。自分が吹き飛ばした猿を。
「……あれ?」
猿が壁際で立ち上がろうとする。ナギはもう1度手を向けた。
【水縛】
床を這った細い水が2本に分かれ、猿の両足首へ巻きつく。立ち上がりかけた身体がぐらりと前へ崩れた。
そこへシズルが回り込み、短く刃を走らせる。残りの2匹も長くは持たなかった。
戦闘が終わってから、ナギはしばらく自分の右手を見ていた。
「水原さん」
「ん?」
ナギが俺を見る。いつもより少しだけ眉が寄っている。
「今、私に補助しました?」
「してない。最初ずっとシズル見てた」
ナギがもう1度、自分の手を見る。その横でシズルが倒れた鉤爪猿を確認しながら言った。
「強くなってる」
「そういや最近、ナギに【制御補助】かける時、前より楽なんだよな」
「楽?」
最初の頃は、ナギが水を集めるたび、広がりすぎる流れや偏った圧力を俺が外から少しずつ整えていた。
でも最近は、補助を入れた時点ですでに形がかなりできている。
「前は俺が魔力の流れを結構直してた。でも最近、ほとんど触らなくても最初からまとまってる」
ナギは少し考え込んだ。
「……水原さんの補助を受けてる時の方が、感覚分かりやすいんですよ。このくらい流したら崩れるとか、この角度ならまとまるとか」
言いながら、両手の間に少量の水を出す。丸い水の塊が細長く伸び、途中で1度揺れたものの、すぐ形を保った。
「それ、俺の魔法で練習してるようなもんじゃん」
「そうですね、勝手に教材にしてました」
ふふふ、と笑うナギ。
まあ、もしかしたらパーティメンバーの魔法の矯正も支援術師の仕事のうちなのかもしれない。
「ナギって、そもそも水魔法どれくらいやってるの?」
聞くと、ナギは少し考えた。
「ちゃんと覚えてないですね。物心ついた頃には使ってました。実家が何でも屋だったので」
「何でも屋?」
「協会でも受けないような小さい仕事を請け負っていたんです。」
自宅の床を掃除する。荷物についた泥だけを落とす。魔獣素材に残った血を流す。熱を持った工具を冷やす。薬草を傷めない強さで汚れを落とす。狭い隙間へ水を通して詰まりを取る。
「子どもの手伝いですよ。難しい仕事は両親がやってましたし」
「それ何年くらい?」
ナギはまた少し考える。
「10年以上は普通に」
俺はシズルを見る。シズルも俺を見る。
「それ、子供の頃から修行してるようなものじゃん」
「そうです?」
本気で分かっていない顔だった。毎日のように水量を変え、圧力を変え、壊したくないものには弱く、汚れを飛ばしたい時には強くする。それを10年以上。戦闘用の魔法ではなくても、今のナギの土台としては十分すぎる。
「基礎、長い」
「でも、父も普通にやってましたよ」
そこでなんとなく分かった。ナギにとっての『普通』の基準が、最初から高かったんだ。
もう1つ、ナギ自身が付け加えた。
「あと、迷宮慣れもあるかもしれません」
「迷宮慣れ?」
「迷宮適応です。潜る回数が増えると、少しずつ魔力量とか出力が上がることがあります。急に強くなるわけじゃないですけど」
最近の俺も、支援を2つ切り替えて銃まで使っても、最初の頃ほどすぐには疲れなくなっている。シズルも小さく頷いた。
「私も前より動ける」
特別な覚醒じゃない。迷宮へ潜って、魔力を使って、帰って休む。それを繰り返した分だけ、身体も少しずつ迷宮向けになっていくらしい。
長年の基礎。最近増えた実戦。俺の支援。そして迷宮適応。ナギはその全部が、今になって噛み合い始めたんだろう。
◇
休憩を終えてさらに奥へ進むと、通路の広がった場所で岩殻蟹が2匹、道を塞いでいた。
「水原さん。最初自力でやってみてもいいです?」
「OK。危なそうならすぐ入れる」
ナギが頷く。2匹の岩殻蟹が同時に鋏を上げた。
ナギは本体を狙わず、両手を低く広げる。
【水縛】
2本の水流が床を走った。右の蟹には前脚の内側へ絡み、左の蟹には踏ん張る側の脚だけへ巻きつく。
ナギが左右の手を別々に引く。
1匹は前へつんのめり、もう1匹は身体の向きが外へずれた。2匹の間に道が開く。
「空いた」
その間へシズルが入る。
【加速補助】
1歩。右の蟹の側面へ回り、脚の付け根を切る。
左の蟹がシズルへ向きを変え、そのまま間合いを詰めた。
ナギが片手を横へ払う。
【水刃】
薄く圧縮された水が半月状に走り、振り上げられた鋏の付け根を浅く切った。
初めて見る魔法だった。
「……今の何?」
「水刃です」
「いつ覚えたの?」
「昨日」
「昨日!?」
ナギは振り上げられた鋏を見ながら、少しだけ肩をすくめた。
「水弾を近距離で撃つより、薄くして横に払った方が早いかなって」
「そんなノリで覚えられるもんなの?」
「まあ、まだ浅くしか切れないですけどね」
さらりと話すナギだが、どう考えても普通じゃないのは地下に来たばかりの俺でも分かる。
解体場で偶然出会ったこの少女は、実はかなり非凡な才の持ち主なのかもしれないと思い始めた。
そうこうしているうちに蟹の鋏が反射的にそちらへ振れる。
その隙にナギが足元へ水を滑り込ませる。踏ん張る側だけが流れ、甲殻が傾いた。
「ナギ」
「はい」
【水弾】
水が斜め下から跳ね上がる。完全には裏返らない。でも腹側が見える。
シズルの剣が入った。
1匹目が動かなくなる。
残った1匹が俺の方へ向いた。
鋏を上げたまま距離を詰めてくる。
ナギの手がもう1度横へ走った。
【水刃】
半月状の水が前脚を浅く切り、踏み込みがわずかに鈍る。
俺は横へずれ、空いた角度から1発だけ撃つ。前脚の付け根。そこへナギの【水縛】が重なり、傷んだ脚が外へ流れた。
最後はシズルが仕留めた。
静かになる。俺は、ナギに1度も【制御補助】を使っていなかった。
「強い」
シズルが剣を拭きながら言う。ナギがそっちを見る。
「……もう1回言ってもらっていいです?」
「ナギ、強い」
「いや、まじで強いよ今日」
心からそう思う。
ナギの口元がはっきり緩んだ。
「……ちょっと嬉しいですね。私、やっぱり強くなったのかも」
そう話すナギは、以前よりも自信に満ちて見えた。
◇
探索を切り上げて協会で魔石と素材を精算したあと、3人で青灯亭へ寄った。
今日頼んだのは岩猪の黒胡椒煮込みだった。深い茶色のソースの中で肉と根菜がとろりと沈み、匙を入れるだけで肉の繊維がほどける。黒胡椒に似た香辛料の刺激のあとから、煮込まれた玉ねぎの甘さが来る。厚切りの焼きパンを浸すと、表面の香ばしさが残ったままソースを吸って重くなった。
ナギは最初の1口を食べたあと、無言でパンをちぎって煮込みへ沈めた。水刃を発動した時よりも真剣な顔をしている。
「今日イチで集中してない?」
「冷めると脂が固まるのでスピードが大事なんです」
理由が合理的だった。シズルも黙々と肉を食べている。
しばらく今日の戦闘について話していたところで、ナギがふと思い出したように匙を止めた。
「そういえば、水原さん」
「ん?」
「借金って、今どうなってるんです?」
危うくパンを落としかけた。最近、迷宮とパーティのことばかり考えていたせいで、その単語を正面から聞くのが久しぶりな気がした。
「返してるよ。一応」
「一応」
念押しされたので端末を出して返済アプリを開く。残高を見て、少しだけ現実に戻された。
「残り、350万ちょい」
ナギが匙を持ったまま止まる。
「……結構減ってるじゃないですか」
「最初が400万近くだからな。減ったって言っても、まだ山ほどあるけど」
シズルも画面を覗き込んだ。
「多い。借金」
「色々あったんだよ」
地下へ来てから、生活費や装備代を払いながら返済を続けてきた。利息もある。それでも元本は50万円近く減っている。数週間で何百万円も消えるような都合のいい話じゃないけど、何も進んでいないわけでもなかった。
それに、以前とは少し違う。
「地下来た時は、返済日が来るたびにどうしようって感じだったからな」
今日の精算額を画面の横に出す。3人で分けたら大金ではない。でも、次も同じくらい稼げれば、その中からいくら返せるかは計算できる。
「今は、今週これくらい潜れたらこれだけ返せる、って考えられるからな」
ナギが少しだけ目を細めた。
「一発で返そうとは思ってないんですね」
「もう懲りた」
そう答えると、ナギは満足したようにパンをもう1切れ煮込みへ沈めた。
「じゃあ、ちゃんと減らしていきましょう」
簡単に言う。でも不思議と、前なら重かったはずの言葉がそこまで嫌じゃなかった。
借金完済までは、まだ遠い。
でも、希望が見えてきた。




