一歩
「トウカ先生、加速補助って使えます?」
新人センターの講習室でそう聞くと、先生は紙コップを口元まで運んだまま止まった。
「使えるよ。今度は何?」
「この前組んだ前衛が、使えないかって」
第3標識の先で臨時パーティを組んだシズルのことを簡単に説明する。小柄で、敵の攻撃を受け止めるんじゃなく、死角へ回り続ける剣士。今でも十分速いのに、1歩だけ速くなれば斬れる相手が増えると言っていた。
「へえ。じゃ、やってみよっか」
「やっぱり今からなんですね」
トウカ先生はもう隣の実技室へ歩き出していた。
この人に相談すると、だいたい説明より先に身体を動かすことになる。
実技室で向かい合うと、鳴海先生は床に引かれた線を指した。
「名前で勘違いしやすいけど、加速補助は相手の身体能力そのものを底上げする魔法じゃないの。あくまで相手の1歩とか1動作だけ後押ししてあげる魔法ね」
それだけ言って、先生が1歩踏み出す。
俺は足ではなく、呼吸と重心を見る。
制御補助と同じだ。魔法じゃなく、使う人を見る。
【加速補助】
1回目はタイミングが遅かった。
2回目は逆に早すぎて、先生の足だけが先に出た。
「今のが分かりやすい失敗例ね。相手の重心より先に動かさないこと」
3回目。息が止まり、腰が前へ乗る。足が床を離れる、その少し前。
【加速補助】
先生の身体が、すっと前へ滑った。距離にすれば半歩にも満たない。でも、明らかにいつもの踏み込みより速い。
「今のどうです?」
「今のはよかった。でも、たった3回で成功させるとはね……」
先生は少し呆れたように俺を見る。
その後も数回だけ繰り返し、成功したり遅れたり。
百発百中にはほど遠いけど、1歩だけなら何を合わせればいいのかは分かってきた。
「君、支援魔法だけは本当に成長が早い。実戦で試すならまずは1歩だけ。欲張らないこと」
無事コツを掴めたところで、練習は終了となった。
トウカ先生は不真面目そうな言動をしているけれど、結局いつも最後まで練習に付き合ってくれる。案外、面倒見がいいのかもしれないと思った。
講習が終わって3人の連絡グループに「加速補助、とりあえず習ってきた」と送ると、10秒もしないうちにシズルから『いつ行く?』と返ってきた。ナギさんからは『早くないですか?』のあとに『でも、試すなら私も行きます』との返信。結局、次の休みに3人で潜ることになった。
◇
当日。迷宮入口で待っていると、先にナギさんが来た。その少し後ろから、黒髪をまとめた小柄な姿が歩いてくる。シズルは俺たちを見つけるなり片手を上げ、そのまま腰の剣を軽く叩いた。
「覚えた?」
「一応。まだ練度は全然だけど」
こくり。満足したらしい。ナギさんがそんな俺たちを交互に見た。
今日は前回と同じ第3標識の先まで行く。
新しい場所へ進むのが目的じゃない。3人での動きを確かめることと、俺の【加速補助】を試すこと。
浅層では角兎を2匹倒したが、ナギさんが足を崩してシズルが斬るだけで終わった。3人になってから、この辺りの戦闘はかなり余裕が出ている。
「ここだと試す暇もないな」
「わざわざ使う必要もないですからね」
シズルは先を歩きながら、時々こちらを振り返る。明らかに早く試したそうだった。
第3標識を越えると、空気が少し冷たくなる。壁の発光苔も減り、足元の凹凸が増えた。前回ここで鉤爪猿に襲われたことを思い出していると、先頭のシズルがぴたりと止まる。
右手が上がった。
「2匹」
岩棚の上。長い腕と、鉤のように曲がった爪。鉤爪猿が2匹、こちらを見下ろしていた。
シズルが剣を抜く。身体が低く沈む。
俺は集中してシズルを観察する。
呼吸。重心。視線。
彼女がどこへ踏み込もうとしているのか。
「シズル。早速試してみる」
こくり。
鉤爪猿が岩棚を蹴った。
シズルの視線が、1匹目の右脇へ刺さる。
身体が沈む。
右足から重さが抜ける。
【加速補助】
シズルが消えた。
そう見えた。
さっきまでいた場所を鉤爪が通り抜け、その時にはもう小柄な身体が魔獣の懐へ入っている。
剣が走る。
脇腹。
返す刃で首元。
1匹目が崩れた。
2匹目が壁を蹴り、シズルの背後へ回る。
「後ろ!」
ナギさんの手が上がる。
今度はそっちを見る。
【制御補助】
【水弾】
水の塊が鉤爪猿の肩を打ち、軌道をずらした。
シズルが振り返る。
1歩。
今度は加速を入れない。
それでも十分速い。着地した鉤爪猿の手首を斬り、喉へ短く突く。
2匹目も倒れた。
静かになった。俺は息を吐き、ちゃんと成功したことに少し遅れて気づく。鳴海先生にかけた時より、明らかに合わせやすかった。シズルの踏み込みを昨日ずっと見ていたからかもしれない。
当のシズルは、倒れた魔獣ではなく自分の右足を見ていた。
「どうだった?」
「……待って」
シズルが2、3歩その場を歩く。それから同じ踏み込みを空で1度だけ繰り返し、今度は俺を見る。いつも薄い表情が、少しだけ変わっていた。
「今の、本当に加速補助?」
「そうだけど」
シズルは首を横に振る。
「違う」
何が違うのか分からずナギさんを見ると、ナギさんも首を傾げていた。
「前に受けたものと違うんですか?」
「全然」
シズルは少し考えるように自分の足を見る。言葉を探しているらしい。
「普通は、押される感じがする」
そこで1度、右足を前へ出す。
「速くはなる。でも、自分で合わせる」
今度は俺を指した。
「今のは、私が踏んだところに、そのまま乗った」
ナギさんはまだよく分からない顔をしている。
「支援魔法って、そういうものなのでは?」
シズルは即座に首を横に振った。
「普通は、もっとズレる」
比べる相手がいないナギさんにとって、俺の【制御補助】は最初からこういうものだった。俺自身も鳴海先生以外の支援役を知らない。でも、何人かの支援役と臨時パーティを組んできたシズルには、違いが分かるらしい。
「たまたま上手くいっただけじゃない?」
シズルがじっと俺を見る。そして剣を握り直した。
「もう1回」
試す相手を探して歩く必要はなかった。10分もしないうちに、前方の岩陰から鉤爪猿が3匹現れた。1匹は前回見た大型個体ほどではないが、他の2匹より明らかに大きい。
「大きいの、私」
「じゃあ小さい方を崩します」
俺は2人の間で呼吸を整える。さっきはシズルに加速を入れた直後、ナギさんへ制御補助を切り替えた。できた。でも、余裕はなかった。
大型が走る。
シズルの腰が落ちる。
【加速補助】
1歩目が伸びる。
今度は見失わなかった。
シズルは大型の正面からわずかに左へ外れ、鉤爪が落ちるより早く脇へ入った。
一閃。
右腕の付け根。
大型個体が吠える。
その横から小型2匹が回り込む。
ナギさんが手を上げた。
呼吸を見る。
【制御補助】
【水弾】
1匹目を壁へ叩きつける。
2匹目が抜ける。
俺は魔力銃を抜いた。
1発。
肩。
2発目。
ほとんど同じ場所。
鉤爪猿がよろける。
「圭くん!」
シズルの声がして振り向く。
大型個体の左腕が上がっている。
その下で、シズルがもう踏み込もうとしていた。
間に合う。
【加速補助】
小さな身体が一気に懐へ滑り込む。
鉤爪が空を切る。
シズルの剣が膝裏を裂いた。
巨体が沈む。
最後に、喉に一閃。
終わった。
残った小型を片づけ、魔石を回収したところで、ようやく全員の肩から力が抜けた。シズルはさっきより確信した顔で、自分の足と俺を交互に見ている。
「やっぱり違う」
「2回とも?」
こくり。今度は迷いがなかった。
「私が動く時だけ来る。変に引っ張られない」
褒められているのかはよく分からない。でもシズルはかなり気に入ったらしく、その場でもう1度空の踏み込みをしていた。剣のことになると本当に分かりやすい。
「水原さん、私の時もそんな感じですよ。私も前より魔法を撃ちやすくなってますし」
「それ、もっと早く教えてくれてもよくない?」
ナギさんは少し考えてから、悪びれもせず首を傾げた。
「支援魔法ってそういうものだと思ってました」
やっぱり比較対象がなかったらしい。
シズルがその横で小さく首を横に振っているのが妙に面白かった。
その後は前回より少しだけ長く第3標識の先を回った。
シズルへ【加速補助】、ナギさんへ【制御補助】、抜けた相手には魔力銃。
まだ切り替えに迷うし、加速は連続では使えない。それでも3人の役割が前よりはっきりしたのは分かった。
帰り道、第3標識のところでシズルが足を止めた。前回なら、ここを越えた時点で少し緊張していた場所だ。
「次、もう少し先でもいい」
ナギさんが地図を開き、俺も横から覗く。
第3標識のさらに先。今までなら「まだ早い」で終わっていた場所だった。
「無理はしない前提なら……次は第4標識の手前くらいまで、様子を見るのはありかもしれません」
俺は地図と、2人の顔を見比べる。少し前まで、迷宮ではナギさんについていくだけだった。今は前にシズルがいて、ナギさんの魔法を支えられて、シズルの1歩にも手を出せる。
「じゃあ次、行ってみるか」
シズルが即座に頷いた。ナギさんも少し遅れて頷く。
1歩だけ速くする魔法を覚えただけだ。
でも、その1歩で、行ける場所が少しだけ広がった。




