第20.5話 近江(おうみ)の刻印と、奪われた地政学
20話の後にお読み下さい。
大学の歴史研究サークルの部室。
大教室でのあの自虐的な講義の後、部屋に戻ってきた俺――佐藤は、パイプ椅子に深く腰掛けて、ただ静かにお茶をすすっていた。
長机には、先輩たちが神保町の古書店や図書館で自発的に買い集めてきた大量の歴史資料や、古い日本地図が何枚も広げられている。
その輪の中に、今週から新しくサークルに加わった滋賀県出身の新入部員、近藤さんが地元のパンフレットを片手に、不思議そうに首を傾げていた。
「――ねえ、御剣先輩。ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」
近藤さんが、ホワイトボードの前に毅然と立つ御剣怜の顔を覗き込んだ。
「昨日、先輩たちが『焼津』や『木更津』の地名に先祖の命懸けの足跡が刻まれてるって話をしてるのを聞いて、凄く感動したんです。……それで、ちょっと気になったんですけど、私の地元の滋賀に、みんなから『お多賀さん』って親しまれてる有名な多賀大社があるんです。でも、地元だとただの古い神社ってイメージしかなくて。近江国って、大和朝廷から見たら、ただの田舎の地方都市だったんですか?」
近藤さんの初々しい問いかけに、ソファでダラダラしていた他の部員たちも
「滋賀って琵琶湖以外に何があるんだ?」
「ただの通過点だろ」と、口々に呟いた。
「逆だよ、近藤さん。近江国(滋賀県)はただの地方都市なんかじゃない。大和朝廷が東へ東へと国境(外枠)を広げていくための絶対的な軍事・交通の要衝であり、朝廷のホームグラウンド(直轄地)さ。現に、ヤマトタケルの父親である景行天皇は大和からわざわざ近江の『高穴穂宮』に遷都して政治を行っていたんだからね」
椅子に座ったまま俺が答えると、ホワイトボードの前の怜が、手元にあった古典の資料を綺麗に整え、知的な眼鏡の奥の瞳をキラリと輝かせて言葉を継いだ。
「そうよ、近藤さん。あなたが言ったその『お多賀さん』の由緒を、ただの古い神社だと侮ってはダメよ。古事記の原文には、国生みと神生みの主役である伊邪那岐命がすべての国造りを終えて、最後に余生を過ごして鎮座した、神話の公式な終着の地(坐淡海之多賀也)だとハッキリ記録されているわ。イザナギとイザナミは、皇祖神である天照大御神の生みの親。だから江戸時代には
『お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる』
と日本中で格言が歌われ、親神の聖地として熱狂的に崇拝されていたのよ」
「日本の始まりの神様が……私の地元に眠っているんですか!?」
近藤さんが息を呑む。俺はノートPCのキーボードを叩き、大型モニターの画面を切り替えて『古事記』のデータを陳列していった。
「それだけじゃない。ヤマトタケル自身、東征の旅の終わりに最後の決戦を行ったのは、近江と美濃の国境にある伊吹山なんだ。
彼は国境を護る過酷な旅の末に、近江の地で命を削られることになる。そして、その最強の英雄ヤマトタケルの血筋(息子)は、実家である近江の地にしっかりと根を張り、このイザナギの聖地を護るために、ある偉大な武人一族となったんだ。その一族の名前を、『犬上君』という」
「――えっ!?」
『犬上君』という言葉が室内に響いた瞬間、近藤さんがハッとしたように目を見開いて、自分の手元にある地元のパンフレットを二度見した。
「いぬがみ……犬上君……? あの、佐藤先輩、もしかして……私の実家がある『犬上郡』って、オカルトの犬神の祟りとかじゃなくて、そのヤマトタケルの子孫の一族の名前が由来だったんですか!?」
「その通り」
俺は静かに頷き、モニターの画面にさらに歴史の記録を映し出した。
「なんと西暦630年、世界の中心であった大帝国・唐の宮廷に乗り込み、どの大国の奴隷にもならないという日本の独立自尊のプライドを初めて堂々と叩きつけた第1回・遣唐使の日本大使(遣唐大使)は、まさにその近江国犬上郡の一族である『犬上御田鍬』。君の足元に眠る偉大な先祖そのものなんだよ」
「私たちが今まで、ただの記号の住所として呼んでた名前に……世界と渡り合った遣唐使の血筋が刻まれていたなんて……!」
度肝を抜かれた近藤さんが、小さな鳥肌を腕に立てながら、ホワイトボードの日本地図をじっと見つめた。
俺はモニターの画面を、琵琶湖の南端を描いた古い地形図へと切り替えた。
「さらに言えば、近江国(滋賀県)の持つ本当の凄みは、その圧倒的な『防衛の地政学』にあるんだよ」
「防衛の地政学……?」
隣に座る先輩が、お茶をすする手を止めて画面を覗き込んだ。俺はキーボードを叩き、西暦663年の『白村江の戦い』の大敗データをモニターの横に並べる。
「前にも話した通り、白村江で大敗した日本は、世界最強の唐の軍隊が本土へと攻めてくるかもしれないという底知れない恐怖に直面した。当時、大帝国が日本へ侵攻する最短ルートは、博多湾から瀬戸内海を通り、大阪湾(難波)へと上陸して大和(奈良)へ突き進む平地ルートだ。そこで天智天皇(中大兄皇子)は西暦667年、国を挙げた究極の国防作戦を敢行した。それが、近江国の『大津宮』への緊急遷都さ」
「えっ……都を奈良から滋賀に移したのって、ただの引っ越しじゃなくて、戦争から逃れるためだったんですか?」
近藤さんが大きな瞳を見開いた。
「そう、唐の水軍が物理的に絶対に侵入できない、山を越えた奥地への大退避さ。大阪から京都を越えて滋賀(大津)へ侵攻するには、必ず険しい山岳地帯である『逢坂山』を通過しなければならない。ここに強固な関所を築けば、どれほど圧倒的な大軍が攻めてきても、狭い一本道の山道で確実に堰き止め、少数の日本兵で各個撃破できる。さらに、万が一陸路を包囲されても、琵琶湖の水運を使えば福井の若狭湾や北陸地方から無限に兵糧や援軍を都へ運び込める。地政学的に完璧な山岳要塞なんだよ、近江国は」
「攻められないために、琵琶湖と山の地形を冷徹に計算して都を置いた……」
先輩が、ごくりと唾を呑み込んで日本地図を見つめた。ホワイトボードの前に立つ怜が、マーカーを長机にカチリと置き、冷徹な知性を宿した瞳で部員たちを見渡した。
「先祖たちは、地形と国際情勢を冷徹に計算して国を護る、無敵の地政学脳を持っていたの。……でもね、ここで最も恐れ入る現代の闇が見えてくるわ。なぜ私たちは、自分の実家の住所のルーツも、大津宮の凄まじい防衛のロジックも一切学校で教わらず、地理の授業をただの『山脈や特産品の退屈な暗記』だと思い込まされてきたと思う?」
「……え? それは、教科書のページ数が足りないからとかじゃ……」
近藤さんが首を傾げる。怜は静かに首を振ると、俺が開いたモニターの、GHQの一次史料指令書のデータを指差した。
「違うわ。戦後、GHQが日本人の頭から『戦う意志と国防の知恵』を永久去勢するために仕掛けた、最大の洗脳政策が『地政学教育の全面禁止』と、地理の授業の解体』だったからよ」
「地政学の、禁止……!?」
サークル室に、静かな衝撃が走った。怜の気高き声が、部室の空気を引き締めていく。
「世界情勢を地理的な視点から冷徹に計算し、自国をどう護るかという『地政学脳』を日本人に持たせたままにしておくと、戦後の占領政策の欺瞞や、海外の大国に富も主権も握られている現状に、若者たちが瞬時に気づいて反旗を翻してしまう。だから彼らは日本の地理を骨抜きにし、神話の舞台(現場)と住所の繋がりを徹底的に隠蔽したのよ。自分たちの生きる土地が、先祖たちが命懸けで護ってきた最強の要塞であるという記憶を、平民の頭から完全に消し去るためにね」
「俺たちは……住所だけじゃなく、この国を護るための最高の知恵まで、ずっと忘れさせられていたのか……」
先輩が、静かに拳を握りしめた。
「話し合えば平和になるなんていう、現代のお花畑な教育がいかに歪んだものか、本当の地理を知れば一目瞭然ね。私たちは最初から、世界と渡り合う強固な背骨を血の中に持っているのよ」
怜が眼鏡の位置を指で少し直し、やり切った晴れやかな微笑みを浮かべて、座っている俺の方を振り返った。学校の授業で教え込まされてきた歪んだフィルターの裏側を覗き、近藤さんの瞳には、確かな驚きと、自分の足元への新しい気づきの光が灯っていた。
部室の窓の外からは、夕暮れの赤い光が差し込み、机の上に広げられた古い近江国の地図を、誇らしげに静かに照らし出していった。
(第20.5話 終)
今回のお話は、これまでの第18話〜第20話の大教室での戦いを補強する、いわば「生きた地政学」のローカルファクト編です。
実を言うと、私自身も最初から近江国(滋賀県)のデータをすべて完璧に網羅していたわけではありませんでした。最初はただ、「地元で『お多賀さん』と親しまれている多賀大社は、国造りを終えたイザナギ(伊邪那岐命)が最後に余生を過ごして鎮座した、神話の公式な終着点なんだ」というファクトだけを知っていたのです。
ですが、そこからこの国の歴史の糸を少し丁寧に手繰り寄せていくと、信じられないほどの驚愕のデータが芋づる式に繋がっていきました。
ヤマトタケルが旅の終わりに最後の決戦を行った伊吹山の因果関係。その血を引く子孫が近江の土の上に根を張り『犬上君』という偉大な武人一族となり、なんと西暦630年の『第1回・遣唐使』として世界最強の唐の皇帝を相手に日本の独立自尊の意地を叩きつけたという物的証拠。
さらに、天智天皇が唐の侵攻を想定して、山岳要塞である逢坂山と琵琶湖の水運を冷徹に計算して築き上げた『大津宮(大津京)』の圧倒的な防衛の地政学。
これほどダイナミックに『神話』と『地名(住所)』と『世界帝国への外交の背骨』が1本の美しい線で繋がっている土地が、まさに私たちの足元にそのまま実在し続けているのです。
そして私たちは、戦後の占領政策の中で、GHQによって『地政学教育』という国防の知恵を永久去勢され、これほど強固な先祖の記憶をただの無味乾燥な記号の暗記へとすり替えられてきました。入ったばかりの新入部員である近藤さんが見せた「小さな気づき」は、これから作品を読み進めていく読者の皆様の姿そのものです。
私たちは生まれつきお花畑だったわけではない。ただ、その強固な背骨を忘らされていただけなのです。
記号の暗記を脱ぎ捨てて、自分の足元にある本物の歴史の解像度を取り戻していきましょう。




