第18話 神議りのロジックと、二千六百年の盾
「ねえ、これを見て欲しいんだけど」
放課後のサークル室。御剣 怜が、いつもと違って少し興奮した様子で、鞄から一冊の大きな本を机にドスンと置いた。
表紙には大きく『マンガとイラストで読む古事記』と書かれている。
「昨日、佐藤から『日本人は一万年の平和遺伝子を受け継いでいる』って聞いてから、どうしても気になって夜通し調べたの。それで、私たちのルーツの物語である『古事記』を買いに走ったんだけど……これ、読むと内容が突飛すぎて、正直さっぱり理解できないのよ」
ゲーム機を片付け、真面目に机に向かっていた先輩が、身を乗り出してその本を覗き込む。
「古事記? ああ、国造りの神様が日本を作ったっていう、あのおめでたい神話だろ? 俺も子供の頃に絵本で読んだ記憶があるけど、ただのファンタジーだよな。大体、神話の最初の神様たちの名前からして長すぎて覚えるのめんどくさいし、ただの古い迷信だろ」
「そうなのよ、先輩。例えばここ」
怜がパッとページを開く。そこには、伊邪那岐と伊邪那美の二柱の神が、大きな矛で混沌をかき混ぜて、滴り落ちた雫から島が生まれたという有名な『国産み』のシーンが描かれていた。
「この国産みのエピソード、よその国の創世神話と比べると異常なの。キリスト教の聖書なら、全知全能の唯一神が『光あれ』と言って言葉一つで世界を創造するわよね。でも、日本の神様は全知全能じゃないの。男女の神様が二人で協力して、泥んこ遊びみたいに、文字通り『産み落として』日本を作っている。神様なのに、失敗して不具の子を流しちゃう人間臭いエピソードまであるのよ」
「確かに。世界をカチッと完璧に支配する絶対的な神様がいないんだよな」
先輩が感心したように顎をさする。
その様子を、ノートPCでスレッドの保守作業をしていた俺――佐藤は、タイピングの手を止めて静かに眺めていた。
若者たちが自分の頭で歴史の因果関係を必死に組み立てようとしている。この空気感が、心地よかった。
怜は俺を完全に信頼し、その答えを求めてきらきらとした瞳を向けてきた。
「いい着眼点だ、怜。日本の神話には、世界を力で支配する『全知全能の絶対強者』が最初から存在しない。それが古事記の最大のロジックなんだよ。例えば次のページにある、天照大御神の弟・スサノオの暴挙にブチ切れた姉が洞窟に引きこもっちゃう『天岩戸』の話がそうだ」
「ああ、太陽の神様が隠れちゃって、世界が真っ暗闇の地獄になる有名な話だな」と先輩。
「そう。もしこれが外国の神話なら、引きこもったアマテラスを引きずり出すために、もっと強い絶対的な力を持った神が現れて、洞窟の岩を力任せにぶち壊すか、あるいはアマテラスを力で脅して従わせる大戦争が起きる。それが『力の支配』をルーツにする世界の神話の常識だ。
だが、古事記の神々はそれをしなかった。彼らが取った行動は、洞窟の前でみんなで集まって、どうすればいいか作戦を話し合い、お祭りを始めて大笑いすることだったんだ。世界を救ったのは圧倒的な武力ではなく、対等な神々の知恵と、話し合いとお祭りだったんだよ。
ちなみに、その時アメノタヂカラオという力持ちの神が力任せにぶん投げた岩戸の巨大な岩の扉が、九州から本州を飛び越えて長野県に突き刺さって山になったとされるのが、現在の『戸隠山』さ。神話の舞台は、今の日本の景色にそのまま地続きで繋がっているんだ」
俺がノートPCの画面を操作し、戸隠山の峻険な岩肌の写真を提示する。
「嘘だろ……。あの長野の観光地って、岩戸の扉が飛んできた場所なのかよ!」
先輩が、目を丸くして画面に表示された戸隠山の写真を凝視した。
「さらにその後の『天孫降臨』もそうだ」
ここで、俺の隣に立つ怜が、待ってましたとばかりに流暢に言葉を継いだ。
「アマテラスは地上を治めるために、自分の孫であるニニギノミコトを九州の高千穂へと降臨させたわ。その鹿児島県と宮崎県の県境にある高千穂峰の山頂には、神様が降り立ったときに突き刺したとされる本物の青銅の鉾――『天逆鉾』が、何百年も前から今でも山頂の岩に突き刺さったまま現物として残されているのよ。
そのニニギが出会った絶世の美女コノハナノサクヤビメは、一晩で妊娠したことを夫に浮気だと疑われた際、身の潔白を証明するために自ら産屋に火を放ち、メラメラと燃え盛る炎の中で元気な男の子を産み落としてみせたわ」
「神様なのに、激しすぎるだろ……」
先輩の驚きを他所に、俺は静かに頷く。
「皆さんがただの子供向けのファンタジーだと笑う物語の舞台や、その気が強くて激しい先祖たちの血筋は、千数百年経った今でも、この国の景色や皇室のルーツとしてリアルに地続きで繋がっているんだよ」
「へえ、神様のキャラが濃いのは分かった。でも佐藤、そのアマテラスの血筋が、なんで出雲の国と国譲りの交渉をすることになるんだ? 間のつながりがよく分からんのだけど」
先輩が首を傾げて年表を覗き込む。
「そこが古事記の前半戦で一番熱い、少年漫画のようなロジックが眠っている場所ですよ、先輩。天を追放されて地上に降りたあの暴れん坊のスサノオの、なんと『六世の孫(七代目の子孫)』にあたるのが、出雲の国を豊かに治めた大物神・大国主神オオクニヌシだ」
「え、六世の孫? 人間の感覚ならおじいちゃんはもういないはずだけど……」
先輩の疑問に、隣の怜が我が意を得たりと眼鏡を指で押し上げて微笑む。
「そこが神話の面白さよ、先輩。神様には寿命がないから、黄泉の国のさらに奥にある『根の国根の堅州国』の圧倒的な支配者として、スサノオが普通に君臨しているの。若い大国主は、そこでスサノオの娘であるスセリビメと一目惚れして恋に落ちるんだけど……」
「待っていたのは、義理の父親からの殺す気満々の過酷な試練だ」
俺は怜と視線を交わしながら、言葉を継ぐ。
「スサノオから『俺の愛する娘をこんな頼りない男に任せられるか!』って、大蛇やムカデがウジャウジャいる部屋に閉じ込められたり、広大な草むらで火を放たれて焼き殺されそうになったりする。本当に、命がけの試練を仕掛けられるんだ」
「おじいちゃん、子孫を本気で殺しにかかってんじゃん……!」
と、部員の一人が声を上げる。
「そうさ。だけど大国主は、恋人であるスセリビメの知恵を借りてその試練をすべてクリアし、スサノオが寝ている隙を突いてその長い髪の毛を部屋の柱に縛り付け、彼女と宝の剣と弓矢を奪って地上へ逃げ出したんだ。
柱をぶち壊して激怒しながら世界の果てまで追いかけてきたスサノオは、地上の出口である『黄泉比良坂よもつひらさか』まで逃げ切った大国主の『本気の覚悟』を見た瞬間、追いかけるのをピタッと止めた。そして、地平線の向こうからこう叫んだんだ。
『お前が奪ったその俺の生大刀いくたちと生弓矢いくゆみやを使って、意地悪な兄弟どもを片っ端からぶちのめせ! そして、俺の娘を正妻にして、お前が地上の立派な王(大国主)になれ、この野郎!!』とね。
ただの乱暴者だったスサノオが、命がけの試練を通じて、子孫を一人前の男として認めて世界を託した。このスサノオから譲り受けた最強の武器と正当性があったからこそ、大国主は出雲の国を豊かに治める偉大な王になれたんだよ」
「なるほど、スサノオからちゃんと出雲の王のバトンが繋がってたんだな」
先輩が深く深く頷き、ノートにペンを走らせる。
「そして、その大国主が出雲を豊かに治めたあと、高天原(大和朝廷のルーツ)の側から『地上はうちの血筋が治めるべき国だから譲りなさい』と迫られる。これこそが、神話前半戦最大のクライマックスである『国譲り』のロジックに繋がっていくんだ」
「世界中の歴史や神話では、新しい支配者がやってくると、先住の王やその民族を武力で皆殺しにして土地を奪い取るのが絶対的な常識だ。だが、日本の国譲りは違った。大和朝廷は出雲の稲佐の浜に最強の武神を送り込んで、『あなたに国を譲る気はありますか?』と、徹底した話し合いの場を設けたんだよ。
高度な文明を持っていた出雲と、新進気鋭の大和朝廷による、国家の主権を巡る巨大な政治交渉だ。 Palestineのような果てしない血の報復ではなく、大国主は国を譲る代わりに、世界の歴史でも類を見ない交換条件を突きつけた。
『地上の政治の主権はすべてお譲りします。その代わり、私のために、天の宮殿と同じくらい太い柱を大地に突き刺した、巨大な宮殿を建ててください。私はそこに隠れて、これからはこの国の目に見えない精神の平和を護る神になりましょう』とね。
この約束を果たすために、大和朝廷が国家予算を総動員して出雲の地に建てた巨大な宮殿。それこそが、現代にまでそのまま実在している『出雲大社いづもおおやしろ』だ」
「――ッ!?」
怜がハッと目を見開く。
「出雲大社って、国を平和的に譲ってくれた出雲のために、大和朝廷が建てた感謝と敬意の証拠だったの……!? だから今でも天皇陛下は、出雲大社の神様に対して最上級の敬意を払い続けているのね……!」
「その通りだ、怜。政治を司る大和朝廷と、祈りを司る出雲。暴力で相手を滅ぼして白黒つけるのではなく、お互いの誇りをリスペクトして一つの国として『合体』したんだ。この『神議かみはかり=話し合いのロジック』の証拠が、千数百年経った今でも日本の景色としてリアルに地続きで繋がっている。
例えば、アマテラスを祀る『伊勢神宮いせじんぐう』の場所もそうだ。大和朝廷ができた最初からあそこにあったわけじゃない。天皇の娘であるヤマトヒメが、最高の安住の地を探して二十年以上も山や海を這いずり回った末に、ようやく引き当てた場所なんだよ」
「二十年も引っ越し先を探して旅を……? でも、ただ綺麗で静かな場所を偶然見つけただけじゃないのか?」
先輩が不思議そうに首を傾げる。
俺は静かに笑って、ノートPCの画面に日本列島の広域断層帯と地質データを重ねて映し出した。
「いえ、先輩。現代の地質学や地震のデータで調べると、鳥肌が立つような真実が浮かび上がってくる。伊勢神宮が建っている場所は、日本を真っ二つに引き裂く世界最大級の超巨大断層帯『中央構造線』の――まさにその真上、針の穴を通すようなピンポイントの『奇跡の安全地帯』なんです」
「大断層の、真上だって!?」
「そう。ただの真上じゃない」
画面を指差す俺の横で、怜がデータを食い入るように見つめながら息を呑んだ。
「嘘、内宮の真下の地下……これ、日本列島で最も硬くて、大地震の激しい揺れ(地震波)をガチガチに跳ね返してしまう最強の岩盤層『三波川変成岩さんばがわへんせいがわ』がドカンと横たわっているわ……! 日本を揺るがす大断層のエネルギーを抑え込むように、一番頑丈な岩盤の上にピンポイントで建てられている……!」
「その通り。だからこそ伊勢神宮は、千三百年もの間、日本中の巨大地震を何度も経験しながら、一度も壊滅することなく美しい姿のまま残り続けることができた。科学なんてなかった時代に、二十年這いずり回った先祖たちの直感は、現代の最新科学の計算を完全に超えて、日本一頑丈な神の岩盤を引き当てて、大断層のエネルギーを鎮めていたんだよ」
部室の部員たちが、言葉を失ってモニターの断層地図を見つめた。
奈良のヤマトと島根の出雲が和の精神で合体し、次なる東への開拓のために、日本一地震に強い最強の岩盤(伊勢)に前線基地を建てた。そこからさらに後の時代、あの最強の英雄であるヤマトタケルノミコトが、この伊勢神宮で草薙剣を授かって東国へと旅立っていく……すべての地理と神話が、パズルのように完璧に噛み合っていく。
「これほど面白くて、これほど誇らしい物語を、今の学校の教科書は一切教えない。ただ『出雲大社という大きな神社がある』『伊勢神宮という古い神社がある』という、無味乾燥な記号の暗記だけ。
こうしてみんなで古事記をちゃんと勉強して、内容を話し合い、納得していけば、日本の歴史に興味が湧く人なんて絶対にたくさん増えるはずなんだ。それを教えないどころか、あたかも
『日本は昔から遅れた野蛮な国だった』と思考停止させる現在の教育システムは、本当に、ちょっと異常としか言いようがないね。だが、その隠された中身を丁寧に紐解けば、これほどロジカルで、これほど優しい先祖たちの知恵が今も俺たちの血の中に流れている」
俺がエンターキーを静かに押し込み、画面の向こうのスレッドへとその事実を陳列した。歴史を「古い迷信」と見下していたネットの向こうの奴らは、二千六百年の歴史の重みと、今も実在する出雲大社や伊勢神宮の地質データの前に、完全に窒息している。
「学校の歴史の文字に、本物の命が吹き込まれていくみたいね、佐藤」
御剣が自分の歴史のノートをぎゅっと握りしめ、静かに、だが熱い息を漏らした。
「サイズや形だけを真似るんじゃなくて、こうしてみんなで古事記の中身を読み解いていけば、これほどロジカルで熱い先祖たちの足跡に自分で気づくことができる。これを教えない今の教科書のシステムは、やっぱりどこか狂っているわ。今、本当の意味で納得できたわ。暴力の支配じゃない、お互いをリスペクトした国譲りの合意と、先祖たちの凄まじい知恵があったからこそ、私たちは今ここにいるのね。本当に、あなたの歴史の紐解き方は、いつも私をワクワクさせてくれるわ」
ただ、佐藤の放つ本物の歴史を、もっと知りたい、もっと一緒に暴きたいという、純粋な信頼の絆だけがそこにあった。
部室の先輩たちも、ホワイトボードの日本地図を眺めながら、自分たちの先祖が紡いできた二千六百年の広がりに、静かに感動に浸っている。
俺はノートPCを閉じ、壁の日本地図を見上げた。奈良の大和朝廷と島根の出雲が和の精神で合体し、次なる東への開拓のために、日本一地震に強い最強の岩盤に前線基地を建てた。この広がった国が、あの激動の時代へと、歴史の針が静かに動き出そうとしていた。
(第18話 終)
恥ずかしながら古事記の内容は漫画でちらっと読んだくらいしかありませんでした。このお話を考える事で物語として解りやすく古事記を皆さんに表現できればとの思いで書いてみました。自分でも理解が深まり人並の知識を得ることはできたかなと思います。最近動画で古事記にもそう書いてある。的な使われ方をしてますがどれだけの人が内容理解してるんだろうといつも思います。日本人なら全員知ってて当たり前。が常識になることが望ましいですね。外国人が笑ってますよ。スイスの民間防衛にも書いてたかな。神話を忘れた民族は必ず滅びる。みたいな。




