第27話 法の正義と、二千六百年の逆襲
「――おい、このYouTube動画、見てみ」
放課後のサークル室。
先輩が、スマホの画面をホワイトボードのモニターへと映し出しながら、苦い顔で声を上げた。
画面に映っていたのは、外国人芸人の『ニック兄さん』が、日本の歴史について真面目なトーンで語りかけている動画だった。
「これ、明治元年に起きた『堺事件』について問いかけてる動画なんだけどさ。ニック兄さんは中身を一切喋らないんだ。ただ画面の向こうの俺たちに向かって、こう言ってるんだよ」
先輩が、動画の字幕をなぞるように低く呟く。
「『堺事件ってなぜ日本人の君たちが、この事件の名前すら誰も知らないの? マジで読んだほうがいいよ』ってね。
……マジで悔しいけど、俺、この事件のこと名前すら聞いたことなかったわ。日本人が自分たちの歴史をほとんど知らないって、ニック兄さんに完全に図星を突かれてるじゃねえか。おい御剣、佐藤、これ本当はどんな事件だったんだ? 調べても教科書じゃ書いてないんだよ」
部員たちも、恥ずかしさと悔しさが入り混じった顔で、一斉に手元のスマホやサークル室の資料をひっくり返し始める。
パイプ椅子に腰掛けていた俺――佐藤は、モニターに映し出されたニック兄さんの動画を見つめながら、静かに言葉を返した。
「知らなくて当然ですよ、先輩。今の教育システムは、先祖たちの圧倒的な誇りのデータをわざと隠しているんですから。
明治元年、堺の港を警備していた土佐藩兵が、夜の街で勝手に侵入し、傍若無人に暴れ回るフランス海軍の水兵たちと衝突して発砲したんだ。
激怒したフランス側は、当時のまだできたばかりで脆かった明治政府に対して、賠償金と、関わった隊長以下二十九名全員の『死刑宣告』を理不尽に突きつけてきた。フランス側は、野蛮なアジアの人間を処刑して見せしめにしてやると高を括って、堺の妙国寺の境内に、フランス人司令官や兵士たちが立ち会いの席を陣取った。
だが、引き出された土佐の烈士たちの覚悟は、白人たちの想像を遥かに超越していたんだ。
処刑の場に並べられた烈士たちは、命乞いをするどころか、不敵な笑みを浮かべていた。
彼らは三方に載せられた九寸五分の短刀を自ら掴み取ると、フランス人司令官の目を真っ直ぐに見据えて、こう叫んだんだ。
『フランス人ども、よく見ろ! これが日の本の武士の、本物の魂だ!』とな」
先輩や部員たちが、フランス側の記録書に残る生々しい翻訳データを食い入るように見つめ、息を呑む。
「烈士たちは、自ら腹を真一文字に深く掻き切ると、湧き出る血をものともせず、自分の素手で自らの臓物を引きずり出し、それをフランス人司令官たちの足元へ向かって投げつけたんだ。
一人、また一人と、凄絶な笑顔のまま、国家の誇りと大義のために自決の美学を堂々と見せつけていく。
その凄まじいプライドの高さと、西洋の常識を遥かに超えた狂気に、立ち会っていたフランス兵たちは恐怖で過呼吸を起こし、顔面蒼白になってガタガタと震え上がった。
さらに、十一人目の烈士が腹を切り裂いた瞬間、その圧倒的な気迫に本気で命の危険を感じて恐怖したフランス人司令官は、耐えかねて大声で悲鳴を上げたんだ。
『もうやめてくれ! 執行を中止してくれ!』とね。
白人列強の司令官の側から、恐怖で這いつくばって命乞いを叫ばせたんだよ。高杉晋作の神話の盾だけじゃない、明治が始まった瞬間も、日本人は命懸けの美学で、白人の侵略プログラムを正面から完璧に突っぱねていたんだ」
先輩が、自分たちで掘り起こしたフランス側の生々しい記録をノートに書き留めながら、深く息を吐く。
「命を懸けて誇りを護る武士の背骨は、新時代になっても死んでいなかったんだな……」
「ええ、それだけじゃないわ、先輩。日本人が仕掛けた逆襲は、そんな命懸けの武力だけじゃないのよ」
ホワイトボードの前へ歩み出た御剣が、マーカーを手にして年表の線を力強く結び、理知的な声で語り出した。
「近代的な『法の正義』という文の力で、世界最強の帝国を沈黙させたもう一つの大事件があるわ。西暦1891年に起きた『大津事件』ね。
日本を訪れていたロシアの皇太子ニコライ2世が、警備兵の津田三蔵に斬りつけられた、国家存亡のテロ事件よ。
学校の教科書だと『大審院長の児島惟謙が司法の独立を守った、綺麗な正義の歴史』として教えられるけれど、本当のファクトは180度違うの。当時、世界最強のロシア帝国の軍事力に恐怖に駆られた明治政府の内閣は、法治国家としての原則を自ら歪めて、三蔵を無理やり死刑にしろと、裁判所へ強烈な圧力をかけたのよ」
「大国が怖いからって、政府が勝手にルールを捻じ曲げようとしたのか」
先輩が、驚愕したように呟く。
「そうよ。だけど、大審院長の児島惟謙は一歩も引かなかった。
『大国が恐ろしいからといって、政府の都合で法律を捻じ曲げることなど絶対に許されない。それこそが国家の自滅である』と突っぱねて、法の正義を貫いたの。
ロシア皇太子を命がけで救った2人の車夫にも最上級の勲章を与えて、世界中から『日本は法律を遵守する世界一偉大な近代国家だ』と絶賛の嵐を巻き起こしたのよ」
先輩が、児島惟謙の残したロジックの重さに感服しながらノートにペンを走らせる。
「だが、物語はそこで終わらないわ」
御剣がマーカーを持つ手に力を込め、ホワイトボードの年表の『西暦1893年』という文字を強く丸で囲んだ。
「世界から偉大だと絶賛された、まさにそのわずか2年後の西暦1893年。
司法に法律を突っぱねられてメンツを潰された明治政府の政治家たちは、卑劣な仕返しを仕掛けたのよ。
彼らは『文官任用令』という法律を勝手に書き換えて、裁判官の採用や人事を、時の政府が完全にコントロールできるシステムへと改悪したの。
政府の言うことを聞かない骨のある裁判官を、政治の力でいつでもクビにできるように法律を捻じ曲げたのよ。
せっかく児島惟謙が命がけで築き上げた『法の独立』というこの国の最高の背骨を、たったの2年で、政治家自らの手で内側から破壊してしまったの。
でもね、先輩。これは何か特別なプログラムによる結果なんかではないわ。人間という生き物が、誰もが等しく陥ってしまう、普遍的な心の弱さの表れなのよ」
御剣は、静かで、どこか哀しみを帯びた優しい声へとトーンを落とした。
「戦前の先祖たちは、古事記や神話をきちんと学び、欧米列強に負けない国を創るんだという尊い大局の志を持って、命懸けで明治維新を成し遂げた。
それなのに、いざ国が強くなって世界から絶賛されると、今度は『自分たちの方が偉いんだ』という傲慢で瑣末なプライドに取り憑かれてしまったのね。目先の自分の立場、目先の安っぽい保身。そればかりを最重要視してルールを勝手に捻じ曲げ、自分たちが国家を悪い方へ先導していることにすら気づけなくなってしまった。この、自分の足元を省みる知性を忘れた浅はかな人間が、現代の政治家や官僚にいたるまで、今も地続きで私たちの国を縛り続けているのよ」
部室の空気が、今度こそ冷たい鳥肌とともに、現代のニュースへと繋がる強烈な反省と納得で凍りついた。
政府の都合で、国会やルールを完全に無視して自分たちの都合の良いようにシステムを書き換える。
これこそが、以前御剣が放った、現代の総理たちによる部会無視の暴挙と全く同じ、今もなお日本を縛り続けている洗脳システムの真実の正体だった。
「――そうか。偉大な正義を勝ち取ったすぐ裏で、俺たちの国は自らルールの背骨を折るっていう、最悪の自滅行為をやってたんだな……。
目先の保身とプライドだけで暴走する浅薄な組織脳のせいで、今の政治家たちも、平気でルールを無視して国益をドブに捨てる歪んだシステムが当たり前になってるんだ。全部地続きで繋がってたんだな!」
先輩が、悔しさと納得の入り混じった顔でホワイトボードを凝視する。
周りの部員たちも一斉に自分たちの歴史のノートを開き、白熱した議論を開始し始めた。
自分たちの住む国の本当の背骨の強さと、それを中から腐らせてきた政治システムの欺瞞に完全に気づき、確かな問いを持って覚醒した彼らは、真剣な顔でノートを突き合わせ、次の時代へと熱く声を弾ませ合っていた。
俺は、彼らの賑やかな議論の声に、静かに耳を傾けていた。命を懸けた堺事件の美学と、大国を沈黙させた児島惟謙の近代の正義。だが、その背骨が中からへし折られた瞬間から、この国は次なる大規模な世界大戦、そして国家の生存を懸けた激動の嵐へと、歴史の針が静かに動き出そうとしていた。
(第27話 終)
今回のお話のテーマとなった、明治元年に起きた『堺事件』における武士の命懸けの美学、そして大国ロシアを沈黙させた児島惟謙の近代の正義(三権分立)。
実を言うと、私自身も最初からこの歴史の全貌を知っていたわけではありませんでした。大津事件そのものの名前や『司法の独立を守った綺麗な歴史』については知っていましたが、まさかそのすぐ裏側で、国家の根幹を揺るがすような恐ろしいルールのねじ曲げが行われていたとは知らなかったのです。
きっかけは、作中に登場した外国人芸人のニック兄さんがYouTubeで放った、
「なぜ日本人はこの事件を知らないの?」
という一本の動画でした。その言葉に悔しさを覚え、ネットで森鴎外の歴史小説『堺事件』の読み聞かせ動画などを貪るように調べていくうちに、これまで学校で習ってきた綺麗な歴史の裏側に隠されていた、先祖たちの壮絶な覚悟と冷徹なシステムの攻防を知り、深い感銘を受けました。
自ら腹をかっ捌き、湧き出る臓物を白人司令官の足元へ投げつけて、白人の側から恐怖で『もうやめてくれ!』と悲念を上げさせた先祖たちの不屈のプライド。
にもかかわらず、学校の授業では『三権分立を守った美しい日本』という綺麗な建前だけを都合よく教え、そのわずか2年後に、政府の政治家たちが『文官任用令』を改悪して裁判官の人事権を奪い、内側から背骨をへし折っていたという不都合な本音を完全に隠蔽しています。
もしこれがアメリカなどの教育現場であれば、生徒たちを『ルールを捻じ曲げてでも大国に配慮すべきとする政府側』と『法の正義を貫くべきとする司法側』の二手に分かれさせ、生々しいディベート合戦をさせて思考脳を鍛え上げるでしょう。しかし、日本の教育システムはそれを絶対にやらせず、ただ一方的な記号の暗記だけを平民に刷り込んできました。この『徹底的に議論の訓練をさせない環境』こそが、現代の日本人が議論を苦手とし、同調圧力に縛られて思考停止してしまう最大の病巣だったのです。この教え方の歪みにこそ、私たちが日々感じていた『学校教育の胡散臭さ』の正体がありました。
正解の丸暗記だけを押しつけられ、自ら問いを立てて議論することを去勢されてきた教育から、今こそ脱却しなければなりません。
サークル室の先輩たちが、ニック兄さんの動画をきっかけにして自発的に『堺事件』の一次史料へと辿り着き、自分たちの頭でシステムの矛盾を見抜いたあの能動的な姿勢こそが、歪んだプログラミングを内側から打ち破る唯一の武器なのです。与えられた綺麗な看板を疑い、自分の頭で『法の正義』の本質を問い直す知性のバトンを、ここからさらに次の時代へと繋いでいきましょう。




