98 焼き鳥パーティにしませんか?
西日が森の木々をすり抜け、診療所の板張りの床に長く濃い影を落としていた。
空はすでに鮮やかな茜色から深い藍色へと移り変わりつつあり、一日の終わりを告げる涼やかな風が窓を揺らしている。
――ここ数日、村人たちの些細な怪我の処置や、季節の変わり目特有の不調を訴える患者の訪問が重なり、カエラムは休む間もないほど慌ただしい日々を送っていた。
彼が一切の妥協を許さずに一人一人の患者と向き合う姿を、コルネリアは一番近くで支え続けてきた。
本日の診察時間が無事に終わり、コルネリアが待合室の片付けとカルテの整理を終えて一息ついた時のこと。
ふと奥の診察室へ顔を向けると、薬棚の前に立ったカエラムが、手にした分厚い医学書を開いたまま微動だにしていないことに気がついた。
「先生……? 探し物ですか?」
声をかけても、一切の返事がない。
不思議に思ったコルネリアは、足音を立てないように慎重な足取りで彼の正面へと回り込んだ。
そして、下から彼の顔を覗き込み――思わず息を呑んだ。
丸メガネの奥にあるアンバーの瞳は、完全に閉じられている。
ページに添えられた長い指先も止まったままであり、規則正しい呼吸の音が微かに聞こえてくる。
なんと彼は、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、立った姿勢で深く眠りこけていたのである。
(器用すぎます……!)
内心で大いに驚きながらも、コルネリアの頭の中には瞬時に最悪の事態が過ぎ去った。
いくらバランスを保っているとはいえ、これは極めて危険な状態である。
もしこのまま意識を完全に手放して床に倒れ込み、棚の角などで頭でも打ってしまえば大怪我に繋がる。
彼女は慌てて持っていた資料を机に置き、カエラムの白衣の袖を両手でしっかりと掴んだ。
彼の重い身体を背中から支えるようにして誘導し、どうにか待合室の長椅子へと歩かせる。
長椅子に腰を下ろした途端、カエラムは緊張の糸が完全に切れたように横へと倒れ込み、無防備な寝息を立て始めた。
彼の上に薄手の毛布を掛けようとした矢先――入り口の分厚い木の扉が控えめに叩かれた。
コルネリアがそっと扉を開けると、そこには狩人のタツィオが立っていた。
夕闇に照らされた彼のトパーズの瞳が、コルネリアを認めて親しげな色を帯びて細められる。
森を駆け抜けてきたばかりなのか、肩口で切り揃えられた紺色の髪には小さな木の葉が引っかかっていた。
「邪魔するよ。近くまで来たついでに、良い獲物が手に入ったからお裾分けだ」
彼が片手で高く掲げてみせたのは、見事に仕留められたばかりの新鮮なキジだった。
タツィオは診療所の中へ足を踏み入れ、長椅子で眠りこけるカエラムの姿を見つけると、驚いたように瞬きをした後、すぐに察して声を潜めた。
「なんだ、先生は随分とお疲れみたいだな」
「ええ。最近少しお仕事が忙しかったので、限界を迎えてしまったようで……先ほどなんて、立ったまま眠っていたのですよ」
コルネリアが苦笑しながら報告すると、タツィオは目を丸くして肩を揺らした。
そこでコルネリアは、彼の手にある立派な獲物を見つめ、一つの名案を思いついた。
「タツィオさん。せっかく素晴らしいお肉をいただいたのですから、今夜は裏庭で焼き鳥パーティにしませんか? 先日ウラカさんからいただいた鉄製のコンロを使って外の風を感じながら食事をすれば、先生の良い気分転換にもなるはずですわ」
その提案に、タツィオは快諾の笑みを浮かべた。
二人はすぐさま裏庭へと移動し、宴の準備に取り掛かる。
タツィオが鮮やかな刃捌きでキジの肉を部位ごとに切り分け、串に刺していく。
その間にコルネリアは、鉄製のコンロに炭を組んで火を起こし、味付けの用意を進めた。
用意したのは二種類。
厨房で時間をかけて甘辛く煮詰めた醤油ベースの特製タレと、すり鉢で細かく挽いた粒の粗い岩塩である。
炭火が赤々と燃え上がり、十分な熱を持ったところで、串に刺さった肉を網の上に等間隔で並べていく。
肉の表面から滴り落ちた上質な脂が炭火に触れるたび、心地よい音と共に猛烈に食欲を刺激する香ばしい煙が立ち上り始めた。
特製タレが焦げる甘い匂いと、炭特有の燻された香りが混ざり合い、夜の帳が下り始めた裏庭の空気に溶け込んでいく。
その強烈な香りは、診療所の奥で深い眠りに落ちていたはずの男の胃袋さえも激しく揺り起こしたようだった。
裏口の扉がゆっくりと開き、覚束ない足取りでカエラムが姿を現す。
「……なんだか、とてつもなく良い匂いがして……」
彼の翡翠の髪は盛大な寝癖によってあちこちに跳ね上がり、丸メガネは鼻梁から少しずれていた。
寝起きのぼんやりとした様子で状況を理解できずにいる彼を見て、コルネリアとタツィオは顔を見合わせて楽しげに笑い声を上げた。
「おはようございます、先生。今夜はタツィオさんが持ってきてくださったお肉で、焼き鳥パーティですわ」
「タツィオ君が……焼き鳥、ですか?」
状況を徐々に把握し始めたカエラムを丸太の椅子へと座らせ、タツィオが持参していた木樽の冷えたエールをそれぞれのグラスにたっぷりと注ぐ。
三つのグラスが合わさる音と共に、ささやかなお疲れ様の宴が始まった。
香ばしく焼き上がったキジの串焼きを一口頬張ると、野鳥ならではの力強い旨味と弾力が口いっぱいに広がる。
岩塩は肉本来の野性味あふれる甘みを極限まで引き出し、特製タレは炭火で表面が絶妙に焦がされることで、言葉にならないほどの堪らない風味を生み出していた。
冷たいエールで喉を潤し、カエラムは大きく息をついた。
「これは……素晴らしい味わいだ。身体の奥底から力が湧いてくるようです」
「そりゃ良かった。先生、立ったまま寝るほど疲れてたらしいじゃないか。コルネリアさんが必死に長椅子まで運んだって聞いて、俺も肝を冷やしたぜ」
タツィオが意地悪そうに口角を上げて指摘した瞬間、カエラムの顔が一気に朱に染まった。
彼は信じられないというように自身の顔を覆い、隣に座るコルネリアへと視線を向ける。
「た、立ったまま……? 私が、ですか?」
「ええ。本当に驚いてしまいましたわ。怪我がなくて何よりでしたけれど」
コルネリアが口元に手を当てて笑みをこぼすと、カエラムは照れ隠しのようにエールのグラスを顔の前に掲げ、勢いよく中身を煽った。
しかし、慌てて飲んだせいで少し咽せてしまい、咳き込む彼の不器用な姿に、再び温かな笑い声が裏庭に響き渡る。
名医としての完璧な姿とは裏腹な、生活能力に欠ける隙だらけの素顔。
それこそが彼の愛すべき部分であり、コルネリアにとって守りたいと思える大切な一面であった。
――気心の知れた仲間との宴は、美味しい食事と他愛のない会話によってあっという間に時間を溶かしていった。
すっかり日が落ち、空には無数の星が瞬き始めている。
満足げに腹をさするタツィオを、二人は診療所の前まで並んで見送った。
「ごちそうさん。コルネリアさんの特製タレ、最高に美味かったぜ。また良い獲物が手に入ったら持ってくるよ」
「はい。いつでもお待ちしておりますわ。夜道にはお気をつけて」
夜の深い森へ消えていく彼の背中が見えなくなった後、二人は再び裏庭へと戻った。
宴の熱気は静まり返り、鉄製のコンロに残った炭火だけが、赤い熾火となって周囲を優しく照らしている。
カエラムは炎の残骸を見つめながら、静かに口を開いた。
「……あなたがいてくれなければ、私は今頃床で頭を打って寝込んでいたのでしょうね。私の体調管理までさせてしまって、本当に申し訳ない」
苦笑交じりの彼の言葉に、コルネリアは歩み寄り、横に並んで彼の手を取った。
「名医の先生でも、ご自身の限界には気づけないことがあるのですね。これからは、私がもっと厳しく監視させていただきますから、覚悟してくださいませ」
彼女が少し背伸びをして、彼の盛大に跳ね上がった寝癖を指先で優しく整える。
カエラムはその心地よい感触に目を細め、繋がれた彼女の指先を自身の大きな手で大切に包み込んだ。
涼やかな春の夜風が吹き抜ける中、炭火のほのかな温もりと、互いを思いやる静かな情愛が、彼らの時間をいつまでも優しく満たし続けていた。




