93 いかなる時も彼をお守りいたしますわ
春の深まりを告げるように、森の木々が新緑の葉を誇らしげに広げ、柔らかな日差しが小道の土を温かく照らしていた。
カエラムの誕生日に交わした約束を果たすため、二人は本日の診療を休診とし、街の郊外にある静かな場所へと向かっていた。
栗色の毛並みを輝かせるファノーネの背には、少し緊張した面持ちのコルネリアと、彼女の背中を支えるように後ろから手綱を握るカエラムが乗っている。
ファノーネも、今日が彼の主にとって極めて特別な意味を持つ日であることを理解しているのか、いつもよりずっと穏やかで、揺れの少ない優しい歩みを見せていた。
森を抜け、街の喧騒から少し離れたなだらかな丘へと続く道に入った時のこと。
ふと、カエラムが「ファノーネ、少し止まってください」と声をかけた。
指示に従って足を止めたファノーネの首筋を撫でながら、カエラムは手綱をコルネリアに預け、静かに馬から降り立った。
「……先生?」
「すみません。少し、懐かしいものを見つけまして」
カエラムが視線を落とした先。
道端の柔らかな土の上に、鮮やかな赤紫色をした小さな野花の群生が広がっていた。
「まあ、なんて可愛らしいお花なのでしょう」
「これはレンゲソウです。昔、母が一番好きだった花なのですよ」
カエラムのアンバーの瞳が、遠い日の記憶をたぐるように細められた。
「私がまだ本当に幼かった頃、父が亡くなって間もない時期でした。母は働き詰めで疲れ切っていたはずなのに、春になると必ず私をこの丘へ連れてきて、二人でこの花を摘んだのです。どんなに貧しく苦しい生活の中でも、この花を見つめる母の笑顔だけは、本当に優しくて、美しかった」
かつて、悪夢にうなされた夜に彼が語った過去。
理不尽な権力によって、最愛の母を看取ることすら許されなかった絶望。
その悲痛な結末を知っているからこそ、カエラムの口から語られる幼き日の温かい記憶は、コルネリアの胸をひどく切なく締め付けた。
コルネリアはそっとファノーネの背から降り、カエラムの隣へと並んだ。
そして彼女は足元に広がるレンゲソウを、茎を長めに残すようにして、数本ずつ丁寧に摘み取り始めた。
「……コルネリアさん?」
「先生のお母様が愛したお花ですもの。このまま通り過ぎることはできませんわ。少しだけ、お時間をいただけますか?」
彼女は器用な手つきで、摘み取ったレンゲソウの茎を編み込んでいく。
花と花が重なり合い、やがてそれは淡い赤紫色が美しい、小さな花の輪――リースへと姿を変えた。
彼女の指先が編み上げたそのリースには、カエラムの両親に対する最大限の敬意と、カエラムへの深い愛情が込められていた。
完成したリースを大切に両手で包み込み、二人は再び丘の頂上へと足を進めた。
頂上にたどり着くと、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
古い桜の木が何本も立ち並び、空を覆い尽くすほどの淡い桃色の花を咲かせている。
時折吹き抜ける春の風に乗って、無数の花びらが雪のように静かに舞い散り、柔らかな緑の芝生を美しく彩っていた。
その桜の木の下に、身を寄せ合うようにして立つ二つの古い墓石。
カエラムが幼い頃に病で亡くなった父親と、その後彼を女手一つで育て、孤独の中で息を引き取った母親が眠る場所である。
かつて、カエラムが後悔と絶望を抱え、自身の無力さを呪いながらたった一人で足を運んでいた、悲しくも静謐な場所。
二人は持参した清らかな水で墓石の汚れを丁寧に洗い流し、周囲の雑草を抜いて整える。
そしてコルネリアは、先ほど編み上げたレンゲソウのリースを二つの墓石の前にそっと供えた。
カエラムが静かに膝をつく。
春の柔らかな日差しが、彼の翡翠色の髪を優しく照らしていた。
「……父さん、母さん。長い間、一人でばかり来てしまってすまなかった」
静寂の丘に、カエラムの穏やかな声が響く。
「ずっと、自分を許すことができずにいました。私の無力さが、母さんを苦しめたのだと……しかし、もう一人で冬の寒さに耐えるのはやめることにしたんです。今日は、暗闇に沈んでいた私の人生に、温かい光と希望を与えてくれた……この世で最も大切な人を紹介しに来ました」
カエラムの言葉を受け、コルネリアも彼の隣に進み出て、静かに膝をついた。
彼女は目を閉じ、両手を胸の前で固く組んで、真っ直ぐな姿勢で祈りを捧げる。
「初めまして、お父様、お母様。コルネリアと申します」
彼女の声は微かに震えていたが、そこには決して揺るがない、確かな芯の強さがあった。
「私はかつて、誰からも必要とされず、絶望の中で命を落としかけました。ですが、カエラム先生はそんな私を見捨てず、命を救い、そして凍りついていた心まで温めてくださいました。先生は、無力などではありません。数え切れないほどの命を救う、世界で一番素晴らしい名医です」
コルネリアは一度言葉を切り、自身の隣で目を潤ませているカエラムへと視線を向け、そして再び墓石へと向き直った。
「……これからの彼の人生は、私が必ず、一番近くで支え続けます。お二人が彼に注いでくださった深く温かい愛情と同じように……私も彼のすべてを愛し、いかなる時も彼をお守りいたしますわ。どうか、安心してくださいませ」
かつて冷遇され、居場所を持たなかったコルネリアの、すべてを捧げるような真摯な誓い。
その真っ直ぐで嘘偽りのない言葉に、カエラムの胸の奥で、長年抱え続けていた罪悪感の最後の欠片が完全に溶けて消えていくのを感じた。
コルネリアの誓いが終わった――まさにその瞬間。
丘の下から、ふわりと温かい春の風が吹き抜けた。
満開の桜の木が一斉に枝を揺らし、無数の桃色の花びらが二人を祝福するかのように柔らかな渦を巻いて舞い降りる。
供えられたレンゲソウのリースが嬉しそうに微かに揺れ、桜の香りと共に、どこか懐かしく温かい気配が二人を優しく包み込んだ。
それはまるで――亡き両親が彼女の言葉を心から受け入れ、息子の新たな門出を笑顔で祝福してくれているかのようであった。
カエラムは立ち上がり、コルネリアへと手を差し伸べた。
彼女がその手を取ると、彼は彼女の細い指先を自身の大きな手で大切そうに握りしめた。
「……二人とも、心から喜んでくれているようです。あなたをこの場所に連れてきて、本当に良かった」
「はい。お二人の温かい愛情を、私も肌で感じることができましたわ」
過去の寂しい記憶と後悔の場所は、これからの未来を温かく見守ってくれる――世界で一番優しい場所へと完全に生まれ変わった。
二人はしっかりと手を繋いだまま、彼らを待っていたファノーネと共に、桜の花びらが舞う丘をゆっくりと下っていく。
春の陽だまりに包まれた彼らの行く先には、どこまでも温かく、満ち足りた時間が待ち受けているのだ。




