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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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94 エルマーさんが選んでくれた、とびきり美味しくて栄養満点の種を蒔いたのよ

 視界を白く染めていた雪は完全に姿を消し、代わりに足元には瑞々しい生命力を宿した若草が顔を出し始めている。

 春の柔らかな日差しが木々の隙間から降り注ぎ、森全体が温かな呼吸を繰り返しているかのような穏やかで満ち足りた季節の到来だった。


 診療所の裏手に設けられた真新しい馬小屋の前では、この冬の間にカエラムとコルネリアの生活を大いに助けてくれた相棒が、春の陽だまりの中で心地よさそうに目を細めていた。


 艶やかに磨き上げられた見事な栗毛の馬体は、陽の光を反射して美しく輝いている。

 そして彼が誇る、滑らかな絹糸のような金のたてがみが、春の微風を受けて優雅に揺れ動いていた。


「ファノーネは、すっかり春の空気が気に入ったようですわね」


 コルネリアが裏庭の菜園予定地の前に立ち、愛らしい相棒の姿を眺めながら優しく微笑んだ。

 隣に並ぶカエラムもまた、自身の頼もしい愛馬へと目を向け、深く頷く。


「ええ。この厳しい冬を乗り越えられたのは、間違いなく彼の力があってこそです。重い荷物を引き、雪道を歩き、そして時には……あなたの危機を身を挺して救ってくれましたからね」


「本当に、彼には感謝してもしきれません。先生。冬の間にグリンダさんとお話ししたあの計画を、いよいよ実行に移す時が来ましたわね」


 コルネリアのペリドットの瞳が、春の陽光を反射して期待に満ちた輝きを放った。

 隣に並ぶカエラムもまた、自身の頼もしい愛馬へと目を向け、深く頷く。


「ええ、もちろん覚えていますよ。ファノーネが心ゆくまで味わえる、最高の牧草を私たちの手で育ててあげるという計画ですね」


「はい! 私たちの優秀な相棒に、一番甘くて美味しい春のご馳走をプレゼントしてあげたいのです」


 厳しい冬を共に乗り越え、幾度も生活を支え、自身の命まで救ってくれた相棒への最高の恩返し。

 雪降る季節から二人で大切に温めていたその計画に、カエラムが異論を挟むはずもなかった。


 二人はすぐさま身支度を整え、約束していた新しい命の種を求めて、活気あふれるユーズヴェンドへと向かった。


 石畳の大通りを抜け、華やかな商店街から一本外れた薄暗い路地裏。

 そこに、冬の初めに二人が訪れた種苗商しゅびょうしょうの店は、以前と全く変わらぬ姿でひっそりと佇んでいた。


 古びた木材で作られた重厚な看板には、力強く芽吹く植物の紋章が刻まれている。

 コルネリアは一度深く深呼吸をしてから、重々しい音を立てる木の扉をゆっくりと押し開けた。


 室内に足を踏み入れた瞬間、数千、数万という種類の種子が放つ、濃厚で土に近い特有の香りが鼻を掠める。

 天井まで届く無数の木箱が整然と並ぶカウンターの奥に、その人物はまるで影が実体を持ったかのように、音もなく立っていた。


 背中まで届く長い黒髪を、細い革紐で一つにまとめ上げた店主――エルマーである。

 彼は深く沈んだガーネットの瞳に鋭利な光を宿し、感情を完全に削ぎ落とした無機質な立ち姿で冷たい視線を投げかけてきた。


 初対面の者を等しく恐怖で沈黙させるような――圧倒的な威圧感。

 前回その恐ろしさを経験しているコルネリアであったが、今日は愛するファノーネのための大切な用事がある。

 彼女は勇気を振り絞り、一歩前へと踏み出した。


「……こんにちは、エルマーさん。冬の初めには、素晴らしい種をありがとうございました。今日は、この春に植えるお野菜の種と……それから、私たちの馬のための、牧草の種を探しているのですが」


 牧草。

 その言葉がコルネリアの唇から零れ落ちた――その刹那。


「……牧草、だと?」


 エルマーの凍りついていたガーネットの瞳が、あたかも地底で眠っていたマグマが噴出するかのような凄まじい熱量を持って、瞬時に鮮やかな輝きを放ち始めたのである。

 彼はカウンターの上に置いていた自身の手を強く握りしめ、身を大きく乗り出して二人に迫った。


「馬の食事を、その辺に生えているただの雑草の延長だと思い込んでいる愚か者が多すぎる! 牧草こそが、彼らのあの美しい毛並みと強靭な筋肉を内側から育む、最も重要で神聖な土台なのだ!」


 先ほどまでの冷たい沈黙が嘘のように、エルマーの口からは熱を帯びた言葉の濁流が次から次へと溢れ出した。

 彼は流れるような動作で背後の棚の奥へと手を伸ばし、三つの小さな麻袋を取り出すと、それを世界で最も高価な宝石でも扱うかのような丁寧な手つきでカウンターに並べた。


「あの極寒の森で、あなたがたの命を支えた名馬がいるのだな。ならば、この三種の草をブレンドして育てろ。まず一つ目は、成長が驚くほど早く、春の柔らかな日差しをその身にたっぷりと吸収する、極めて甘みの強い草だ。これは馬にとって最高のご馳走となり、心を深く満たすだろう」


 エルマーの言葉は、厳格な教育者が自身の哲学を説くかのように重みと情熱に満ち溢れている。

 彼は休むことなく、次の袋へと長い指を向けた。


「二つ目は、繊維質が豊富で非常に噛み応えのある丈夫な草だ。馬は咀嚼することで顎を鍛え、同時に脳に刺激を与えて精神を安定させる生き物だ。ただ柔らかいだけの食事は、彼らの野生の誇りを奪う。そして最後の一つは、栄養価が極めて高く、冬の間に蓄積された疲労を根底から癒やすための特別な薬草に近い牧草だ。これをめば、あの栗毛の馬体はさらに深い輝きを放つはずだ!」


 コルネリアはその圧倒的な熱量の講義に目を丸くしながらも、ファノーネの喜ぶ顔を想像して必死に彼の教えを胸に刻み込んでいく。

 カエラムもまた、医療に通じる彼自身の徹底した栄養管理のこだわりに深く共感したのか、幾度も大きく頷きながら真剣に耳を傾けていた。


「次は、あなたがた自身の血肉となる春の命について教えよう」


 エルマーは息をつく暇も与えず、今度は別の木箱から二種類の種を取り出した。


「春は、大地の下で抑え込まれていた生命が一気に爆発する季節だ。まずは、この春キャベツの種を蒔け。冬の寒さを乗り越え、温もりを取り戻した土の養分を凄まじい速度で吸い上げ、驚くほどふんわりと柔らかく、甘い葉を幾重にも重ねていくはずだ。生でかじれば、春の水分が口の中いっぱいに弾けるだろう」


 エルマーのガーネットの瞳は語れば語るほどにその熱量を増し、その表情には最初の恐ろしさは微塵も感じられない。

 そこにあるのは、植物という命を心から愛し、その限りない可能性を信じ抜く純粋な歓喜だった。


「そして、この二十日大根の種だ。その名の通り、土に蒔いてから驚異的な速度で成長を遂げる。土の中で真っ赤な果実のような美しい根をふっくらと実らせ、食卓に鮮やかな色彩と心地よい歯ごたえをもたらしてくれる。春の土は生きている。その息吹を、あなたがたの手で直接感じ取るのだ」


 二人は彼が厳選してくれた春の野菜と最高の牧草の種を買い揃え、その重みを大切に鞄へと収めた。

 別れ際、エルマーは再び元の無表情な仮面を顔に張り戻したが、扉を出ようとする二人の背中に向かって、短く熱い言葉を投げかけた。


「……種を蒔く前に、冬の間眠っていた土にたっぷりと空気を吸わせろ。命の受け皿を、完璧に整えるのだ」


 ――診療所へと戻った二人は、早速裏庭の菜園へと向かった。


 カエラムが白衣を脱ぎ、厚手のシャツの袖を捲り上げて重い鉄の鍬を握る。

 冬の初めには氷のように硬く凍てついていた土も、今は春の温かさを吸い込んでふかふかと柔らかく、鍬を下ろすたびに豊かな黒土が呼吸をするように翻った。


 カエラムが荒く耕した土を、コルネリアが小さな鍬で丁寧にほぐし、エルマーの教え通りにたっぷりと空気を含ませていく。

 ふかふかに整えられた土の半分には、二人の食卓を彩る春キャベツと二十日大根の種が等間隔で蒔かれた。


 そして残りの半分の広いスペースには、ファノーネのための三種類の牧草の種がたっぷりと、愛情を込めて蒔き散らされていく。


 ――すべての作業を終え、土の上に優しく水を撒いていると、馬小屋の方からファノーネがのんびりとした足取りで近づいてきた。

 彼は新しく耕された土の匂いに興味を示し、長い首を伸ばして地面へと鼻先を近づける。


「ファノーネ、楽しみにしていてね。エルマーさんが選んでくれた、とびきり美味しくて栄養満点の種を蒔いたのよ。もうすぐ、この土からあなたのためだけの甘い草がたくさん生えてくるから」


 コルネリアが泥で汚れた手で自身の額の汗を拭いながら、愛おしげに語りかける。

 ファノーネは彼女の言葉を完全に理解しているかのように、自身のあるじに向かって短く温かい呼気を漏らした。


 そして彼は、まるで「私が優秀な働きをしたのだから、この最高の報酬を受け取るのは当然のことだ」と言わんばかりに、金のたてがみを揺らして得意げに胸を張ってみせた。

 その愛らしい相棒の態度に、カエラムとコルネリアは顔を見合わせて明るい笑い声を上げた。


 春の柔らかな日差しが、耕されたばかりの黒い土と、二人と一頭の姿を優しく照らし出している。

 冬を乗り越えた森の診療所には、これから芽吹く新しい命への期待と、互いを深く慈しむ温かな愛情が、春の風に乗ってどこまでも穏やかに満ち溢れていた。

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