92 私からも、ご両親に伝えさせてくださいませ
木々の枝先に芽吹いたばかりの淡い若葉が、春の穏やかな風に揺れて柔らかな影を落とす朝。
診療所の窓から差し込む陽光は冬の鋭さを完全に失い、部屋の隅々にまでしっとりとした暖かさを運んできている。
本日は、この森の診療所の主であり、コルネリアに生きる希望を与えてくれた恩人――カエラムの誕生日である。
コルネリアは太陽が森の輪郭を白く染め上げるよりも少し早く、静かに瞼を持ち上げた。
隣の寝台では、カエラムがまだ規則正しい呼吸を繰り返し、深い微睡みの中にいる。
コルネリアは彼を起こさぬよう、衣擦れの音さえも殺して床に降り立った。
彼女がまず手にしたのは、昨年の誕生日に彼から贈られた大切なプラチナのブレスレットだった。
中央に埋め込まれたペリドットが、彼女自身の瞳の色を映し出したかのように淡く澄んだ翠色の輝きを放っている。
コルネリアは金属の心地よい冷たさを肌で感じながら、それを左手首へと慈しむように装着した。
視線をカエラムの枕元へ移すと、そこには一昨年の冬にコルネリアが心を込めて仕立てた、手縫いのメガネケースがきちんと置かれている。
使い込まれて少しだけ角が丸くなった厚手の布地。
その表面には、丸メガネをかけ、寝癖を跳ねさせたカエラム自身の似顔絵が、不器用ながらも愛らしい刺繍で描かれている。
彼が毎晩眠る前に、自身の分身であるメガネを必ずこのケースへと丁寧に収めてくれている事実を見るたび、コルネリアの胸の奥は言葉にできないほどの温かい感情で満たされるのだった。
彼女は診療所の居住区画を抜け、この日のために用意していた特別な準備へと取り掛かった。
まずは、殺風景な円卓の周りを昨日こっそりと摘んでおいた春の野花で飾り立てていく。
雪解けの直後に力強く顔を出した、名もなき小さな黄色や白色の花々。
それらを古い小瓶にいくつも生け、カエラムがいつも座る位置を囲むように並べると、診療所の中は一気に春の祝祭のような華やぎに包まれた。
続いて、コルネリアは裏庭の菜園へと向かった。
冬の厳しい霜を何度も乗り越え、春の訪れと共に一気に成長を遂げた小松菜が、肉厚な濃緑色の葉を誇らしげに広げている。
彼女はその瑞々しい葉を丁寧に収穫し、キッチンスペースへと戻った。
――今朝の献立は、カエラムの健康を誰よりも願って考案した、最高のご馳走である。
数日前にモゼから「誕生日の前祝いよ」と届けられていた、荒れ狂う春の海で釣り上げられたばかりの見事な真鯛。
コルネリアはこの大きな魚を丸ごと使い、特製の蒸し料理を作ることに決めていた。
鱗を綺麗に落とした真鯛の腹に香草を詰め込み、大きな土鍋の中央へ据える。
その周囲を収穫したばかりの小松菜と、旨味を凝縮させた乾燥きのこで隙間なく埋め尽くしていく。
清らかな水と少量の酒、そして微かな塩を振ってかまどの火にかけると、やがて土鍋の隙間から魚の濃厚な出汁と小松菜の自然な甘みが混ざり合った、食欲を激しく刺激する芳醇な香りが診療所いっぱいに広がり始めた。
生命力に満ちた料理の匂いと、春の野花の爽やかな香りに誘われるようにして――。
部屋の奥の寝台から、衣擦れの音と共にカエラムが身を起こした。
「……おはようございます、コルネリアさん。今日は随分と、芳しい香りで満ちていますね」
翡翠色の髪を四方八方に散らした凄まじい寝癖のまま、カエラムがのっそりと食卓へと近づいてくる。
彼は枕元のケースから取り出した丸メガネを顔にかけ、そこに並べられた春の花々と、湯気を立てるご馳走の数々を前にして、驚きに目を見張った。
「カエラム先生、おはようございます。そして……お誕生日、おめでとうございます!」
コルネリアが至近距離で心からの微笑みを向けると、自身の誕生日のことを完全に失念していたカエラムは、照れくさそうに自身の寝癖を手で押さえ、嬉しそうに口角を持ち上げた。
「……またしても、あなたに言われるまで忘れていました。ありがとうございます、コルネリアさん。朝からこれほど素晴らしい祝福を受けることができるとは、私は本当に果報者ですね」
促されるままに席に着いたカエラムの前に、土鍋の蓋が開けられる。
ふっくらと蒸し上がった純白の真鯛の身と、鮮やかな緑色を保った小松菜が、視覚からも強い活力を与えてくれる。
カエラムが真鯛の身と小松菜を一緒に口へと運ぶと、その繊細な甘みと深い旨味の調和に、彼は深く感嘆の息を吐き出した。
「……美味しいです。真鯛の力強い旨味を、小松菜の優しい風味が完璧に包み込んでいます。そして何より、この組み合わせ。小松菜に含まれる骨を丈夫にする成分を、きのこの成分が最大限に引き上げ、身体への吸収を助けている。私が以前お話しした知識を、これほどまでに完璧な形に仕上げてくれるとは……あなたは、私の専属の素晴らしい魔法使いですね」
カエラムの真摯な賛辞に、コルネリアは嬉しそうにペリドットの瞳を細め、二人で豊かな春の恵みを心ゆくまで堪能した。
――しかし、本日のコルネリアの準備はこれだけでは終わらない。
食事が一段落したところで、彼女は一度キッチンスペースへと戻り、ずっしりとした重みのある大きな陶器のボウルを両手で慎重に抱えて戻ってきた。
円卓の中央に置かれたのは、かつて恐ろしい嵐の夜に、カエラムが不器用ながらも彼女を慰めるために作ってくれた、亡きお母様との思い出の味――プリンだった。
しかし今回は、当時の小さな器ではない。
二人がこれまで積み重ねてきた愛情の深さと、これからの未来を象徴するかのような、圧倒的な大きさを誇る特大のプリンである。
「……これは。プリン、ですね。しかも、これほどの大きさとは」
カエラムのアンバーの瞳が、驚きと深い感動に揺れる。
コルネリアは表面に艶やかな飴色のカラメルがたっぷりと回しかけられたプリンを、慈しむように見つめた。
「はい。先生がかつて、お母様との大切な思い出として教えてくださったあの甘い記憶を、私も大切に受け継ぎましたの。今日は誕生日の特別なお祝いですから、心ゆくまで、この温かな時間を共有したいと思いまして」
コルネリアが大きな匙で柔らかな生地をすくい、カエラムの器へと盛り付ける。
一口食べたカエラムは、卵の濃厚な旨味とミルクのまろやかさ、そしてカラメルの微かな苦味が織りなす極上の味わいに、静かに目を閉じた。
「……母が作ってくれた、あの優しくて懐かしい記憶が、口いっぱいに広がっていきます。かつて、孤独の中で私を支え続けてくれた大切な思い出の味を、今こうして、あなたと一緒に味わうことができる……過去の温もりと、現在の幸福が見事に重なり合う、本当に尊い奇跡です」
過去の記憶を覆い隠すのではなく、その大切な思い出の上に、現在のコルネリアからの巨大な愛情が優しく重なり合っていく。
カエラムの言葉に、コルネリアもまた胸の奥が熱くなるのを感じ、自身の分を一口食べて微笑んだ。
大きなプリンを二人で分け合い、この上なく幸せな沈黙が流れる中――。
コルネリアは少しだけ居住まいを正し、心に決めていた願いを真っ直ぐな言葉にした。
「……先生。近いうちに、ご両親のお墓に報告へ行きませんか?」
彼女の不意の提案に、カエラムが顔を上げる。
「先生がもう一人で、冬の寒さに耐える必要はないのだということ。そして、先生の隣には今、先生のすべてを大切に想っている人間がいるのだということを……私からも、ご両親に伝えさせてくださいませ」
かつて不遇な扱いを受けていた令嬢とは思えないほどの、芯の強さと深い愛情に満ちた彼女の言葉。
カエラムは自身の胸が激しく締め付けられるのを感じ、コルネリアの小さな手を、自身の大きな手で大切に包み込んだ。
「……ありがとうございます。ええ、必ず行きましょう。両親も、あなたのような優しく、素晴らしい女性に会えたら、きっと心から安心して微笑んでくれるはずです。私が選んだ人があなたであることを、誇らしく報告させていただきますよ」
窓の外では春を告げる鳥たちが楽しげにさえずり、森の命がいっせいに動き出そうとしている。
厳しい冬を共に乗り越え、互いの孤独を温かな絆へと変えてきた二人。
カエラムの誕生日の朝は、亡き母への深い敬意と、未来への揺るぎない約束と共に――。
プリンの甘い余韻と春の柔らかな光に守られながら、どこまでも穏やかに、そして満ち足りた時間となって更けていった。




