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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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91 ユエフーさん! そちらは逆ですわ!

 春を予感させる柔らかな風が、木々の枝先に残っていた氷の欠片を優しく解かし始めた、ある穏やかな昼下がり。

 森の空気は冬の厳しさを完全に脱ぎ捨て、どこか瑞々しい湿り気を帯びて土と生命の香りを遠くから運んできている。


 診療所の主であるカエラムと助手のコルネリアは、日々の忙しさを縫って春の芽吹きに備えた薬草棚の整理を穏やかな沈黙の中で進めていた。

 その満ち足りた静寂を、森の奥から近づいてくるひどく疲労しきった不規則な足音が破った。


「……誰か、いるアルか? 助けてほしいヨ……もう、一歩も歩けないアル……」


 診療所の分厚い木の扉が重たげに開かれ、そこに姿を現したのは、この森では決して見かけることのない異国情緒を全身に纏った一人の少女であった。


 彼女の髪は、月の光そのものを細く切り取って紡いだような、美しく輝かしい銀色をしている。

 その長い髪は頭の両側で可愛らしく丸くまとめられ、細かな花の刺繍が施された赤い絹製の袋状の飾りの中に、几帳面におさめられていた。


 少女は自身の背丈ほどもある巨大な荷負い袋を背負ったまま、膝を限界まで震わせ、入り口に置かれた患者用の長椅子へと力なくへたり込んだ。

 異常事態を察知し、カエラムは即座に手元の作業を中断して彼女の元へと駆け寄る。


「大丈夫ですか? 随分と長い距離を歩き続けてきたようですね。コルネリアさん、すぐに水と清潔な手拭いを用意してください」


「はい、ただいまお持ちいたしますわ!」


 コルネリアが急いで差し出したグラスの水を、少女は一息に飲み干した。

 乾ききっていた喉を潤し、ようやく少しの落ち着きを取り戻した彼女は、ふう、と深く長い溜息を漏らす。

 彼女のペリドットの瞳に似た鮮やかなスフェーンの瞳が、安心したように周囲の二人を見回した。


「助かったヨ、恩人ネ。私はユエフー、遠くの国から商売に来た行商人アル。でも、隣の王国の国境の役人が、ひどい意地悪をしたヨ。私の大切な荷物にありもしない難癖をつけて、不当な通行料をよこせと言ってきたアル。私が断ったら、力ずくで追い出されたヨ……森を彷徨っているうちに道に迷って、お腹が空いて……もう限界だったアル」


 ユエフーの語るゼサリア・オル王国の役人たちの横暴で腐敗した振る舞いに、コルネリアはかつて自身が王都で受けていた不当な扱いを思い出し、胸の奥を締め付けられるような強い同情を覚えた。


 権力を持たない者や異邦人に対して、あの国の貴族や役人たちは時に理由のない冷酷さを見せることがある。

 それを身をもって知っているからこそ、目の前の小さな少女がどれほどの不安と恐怖を抱えて暗い森を歩き続けてきたのかが、痛いほどに理解できたのである。


「……それは、ひどい災難でしたわね。あそこは、そのような非道がまかり通ってしまう国なのです。でも、もう安心してください。ここは誰の干渉も受けない森の診療所です。あなたに敵意を持つ者は誰もおりませんわ」


 コルネリアが身を屈め、慈しむように微笑んでユエフーの肩に優しく手を置いた――まさにその瞬間。

 静まり返った診療所の中に、誰の耳にもはっきりと聞こえるほど、大きく――そして、ひどく正直な音が響き渡った。


 ユエフーの胃袋が、自身の限界と猛烈な空腹をこれ以上ないほど雄弁に訴えかける、情けない音を奏でたのである。

 彼女は自身の白く透き通るような肌を瞬時にしていちごのように真っ赤に染め上げ、両手で自身のお腹を必死に押さえ込んだ。


「……あ、今の音、聞き流してほしいヨ! でも……胃袋が、もう限界だって悲鳴を上げているアル……」


「ふふ、無理もありませんわ。すぐに、お身体が温まるお昼ご飯を用意いたしますね」


 コルネリアがキッチンスペースへと向かおうとすると、ユエフーは慌てて立ち上がり、自身の巨大な荷負い袋を手元に引き寄せた。


「待つヨ! 命の恩人に、タダでご飯を食べさせてもらうわけにはいかないアル! 私の荷物の中に、珍しい食材がたくさん入っているヨ。これを使って、一緒に美味しいものを作るヨロシ!」


 ユエフーが袋の紐を解いて中から取り出したのは、コルネリアがこれまでの人生で一度も見聞きしたことのない、不思議な食材と調味料の数々だった。

 強烈な辛味を予感させる、真っ赤に乾燥した異国の香辛料。

 黒々として艶やかな光沢を放つ、独特の風味を持った発酵調味料。

 そして、複雑で芳醇な香りを放つ乾燥したきのこや、見慣れない形状の乾麺。


 ――それらの食材を前にして、コルネリアはかつて王都の図書室で読み耽っていた、遠い東方の国々の料理を記した古びた書物の記憶を鮮明に呼び起こした。


「これは……もしかして、はるか東の方角にある国の、秘伝の調味料ではありませんか? 私、書物で読んだことがありまして、一度でいいから作ってみたいとずっと思っていたのですわ」


「お姉ちゃん、物知りアルね! そうヨ、これは私の故郷の味ネ。とびきりの作り方を教えてあげるから、一緒に最高の料理にするヨロシ!」


 キッチンに並んで立った二人は、まるで古くからの友人のように息の合った様子で調理を進めていった。

 ユエフーの的確な指導のもと、コルネリアは小刀を使って野菜や豚肉を細かく刻み、熱した分厚い鉄の鍋の上で異国の香辛料と共に一気に炒め合わせる。


 強火で加熱された油が香辛料の成分を弾けさせ、独特の香ばしく、そして強烈に食欲を刺激するスパイシーな香りが、診療所の隅々にまで一瞬にして広がっていった。

 野菜の水分が飛ぶ前に、とろみを持たせた褐色の発酵調味料を豪快に加え、鍋全体を素早く煽る。

 熱せられた調味料が具材に絡みつき、これまでに診療所で作られたどの料理とも異なる、力強く鮮やかな艶を持った一皿が完成した。


「さあ、カエラム先生も一緒にいただきましょう!」


 円卓を囲み、三人は出来立ての熱い異国料理を口へと運んだ。

 カエラムが豚肉と野菜を一緒に咀嚼した瞬間、彼のアンバーの瞳が驚きによって大きく見開かれた。


 これまでに経験したことのない、複雑な旨味と脳を覚醒させるような刺激的な辛味。

 しかし、ただ辛いだけではなく、その奥には野菜の持つ自然な甘みと、肉の力強い脂の旨味が完全に調和し、深いコクを生み出している。


「……驚きました。これほどまでに心を奮い立たせ、活力を与えてくれるような味わいがあるとは。あなたの国の食の知恵には、深い敬意を表さなければなりませんね」


 カエラムが心からの賛辞を送ると、ユエフーは自身の故郷の味が愛する恩人たちに受け入れられたことがよほど嬉しかったのか、誇らしげに胸を張った。

 そして彼女自身も、これまでの飢えを埋め合わせるように凄まじい勢いで料理を平らげ、何度もおかわりを要求して円卓を大いに賑わせた。


 ――食後の穏やかなお茶の時間。

 すっかり気力と体力を取り戻したユエフーは、自身の今後について極めて力強い口調で語り始めた。


「あんな意地悪な王国、こちらから願い下げネ。私はもう、あっちの国境を越えるのはやめるアル。この森の近くにある街を新しい拠点にして、しばらく商売を頑張ってみるヨ。あそこの街の人たちは、きっと私の珍しい品物に興味を持ってくれるアル!」


「その決断は、極めて賢明かもしれません。ユーズヴェンドの人々は穏やかで新しいものを受け入れる度量がありますから、きっとあなたの商売の力になってくれることでしょう」


 カエラムの言葉に励まされ、ユエフーは再び重い荷負い袋を背負い、診療所の扉へと向かった。

 カエラムは地面の土に簡易的な地図を描き、ユーズヴェンドまでの最短ルートと、目印となる巨大な岩や川の形を彼女に丁寧に教え込んだ。


「いろいろありがとうネ! この恩は絶対に忘れないアル。商売が大成功したら、また美味しいものをたくさん持ってくるヨロシ!」


 ユエフーは満面の笑みを浮かべて二人に大きく手を振り、診療所の前を颯爽とした足取りで歩き出した。

 ――しかし、彼女が自信満々に力強く進んでいったその方向は、目指すべき街とは完全に正反対の、さらに深く険しい魔の領域へと続く道であった。


「あ、ユエフーさん! そちらは逆ですわ!」


「待ちなさい、そっちへ進むと街どころか、迷いの森の深淵に突き当たってしまいます!」


 カエラムとコルネリアは顔を見合わせて驚愕し、即座に駆け出して彼女の小さな背中を捕まえ、強引に引き留めた。


「えっ、こっちじゃないアルか? 私の商人の鋭い勘では、こっちに大きな街の気配がプンプンしていたヨ……」


 自身の絶望的な方向音痴を全く自覚しておらず、不思議そうに首を傾げるユエフー。

 カエラムは深い溜息を漏らしながら、彼女の肩を掴んで正しい方角へと身体を向け直し、もう一度、今度はさらに念入りに道のりを説明した。


「……分かったアル! 今度こそ完璧ネ。私に任せてほしいヨ!」


 彼女は再び元気に走り出したが、少し進んだ先にある緩やかな分かれ道でまたしても一瞬立ち止まり、あろうことか間違った方の道へと足を向けかけ、慌てて自身で頭を叩いて修正するという危なっかしい有様であった。


 二人は診療所の前から、次第に小さくなっていく銀髪の少女の背中を、いつまでも見守り続けた。


「先生……ユエフーさん、本当に一人で無事に街まで辿り着けるのかしら?」


「正直なところ、私もかなりの不安を感じています……ですが、彼女のあの底抜けの明るさと逞しさがあれば、たとえ遠回りをしても、最後には必ず目的地に辿り着くのでしょうね」


 春の訪れを告げる鳥たちのさえずりが、静かな森に響き渡る。


 二人は、新しい出会いがもたらした異国の香りの心地よい余韻と、危なっかしくも活力に満ちた新友の無事を願う、どこか落ち着かない――しかし、ひどく温かな不安を胸に抱きながら。

 銀髪の少女が姿を消した森の道を、いつまでも優しく見つめ続けていた。

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