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9 私がずっと、先生の助手としてお傍にいますから

 季節は巡り、森は短い雨季を終えて本格的な夏を迎えようとしていた。

 昼間の熱気が夜になっても微かに残る、静寂に包まれた診療所。

 部屋の隅には新しく設えられた二つの寝台が並び、それぞれが穏やかな寝息を立てているはずだった。


 しかし、深い闇の中で、コルネリアは隣から聞こえてくる異変に気がついて目を覚ました。


「……う、っ……」


 普段は規則正しく静かなカエラムの呼吸が、ひどく乱れ、苦しげな呻き声に変わっていたのだ。


 コルネリアは慌てて身を起こし、卓上の小さなランプに火を灯した。

 柔らかな橙色の光が照らし出したのは、苦悶に満ちたカエラムの顔だった。


 彼の額にはびっしりと冷や汗が浮かび、翡翠色の髪がじっとりと額に張り付いている。

 眉間には深い皺が刻まれ、何か恐ろしいものから逃れようとするかのように、毛布を強く握りしめた手が小刻みに震えていた。


「出してください……行かなくては……母さんが、待っているんです……」


 うわ言のように紡がれる言葉には、普段の彼が持つ余裕は欠片ほどもなかった。

 ただ、後悔と絶望に囚われた――一人の弱々しい男の姿がそこにあった。


「カエラム先生……!」


 コルネリアは迷うことなく寝台を降りた。

 彼女はすぐさま水差しから清潔な布に冷たい水を浸し、固く絞ってからカエラムの元へと身を寄せた。


「先生、大丈夫ですよ。ここは安全な森の診療所です」


 穏やかな声で語りかけながら、冷たい布で彼の額に浮かんだ汗を丁寧に拭い取っていく。


 かつて、自分が不運に見舞われて崖から落ち、生死の境を彷徨った時――この人は三日三晩、自分の身を削ってまで看病し、命を繋ぎ止めてくれたのだ。

 今度は、私が先生を悪夢から救い出す番だ。


 コルネリアは強い決意と共に、毛布を強く握りしめて白くなっていたカエラムの右手を、自らの両手でそっと包み込んだ。

 大人の男性の骨張った手は、ひどく冷たかった。

 コルネリアは自身の体温を分け与えるように、しっかりとその手を握りしめる。


「開けてくれ……! 頼む、その薬は……母さんの……」


 悲痛な叫びと共に、カエラムの身体が大きく跳ねた。

 直後、彼のアンバーの瞳が大きく見開かれた。

 焦点の合わない虚ろな視線が宙を彷徨い、激しい呼吸が夜の静寂を切り裂く。


「先生。カエラム先生、私です。コルネリアです」


 繋いだ手に少しだけ力を込め、優しく名前を呼ぶ。

 何度かの瞬きの後、カエラムの瞳にようやく光が戻ってきた。

 彼は荒い息を吐きながら、自分を覗き込むペリドットの瞳と、自らの手を包み込む温かな感触に気がついた。


「……コルネリア、さん……? 私は……」


「ひどくうなされていらっしゃいました。汗をかいていますから、そのまま楽にしていてください」


 コルネリアは再び冷たい布で、彼の首筋から額の汗を拭った。

 カエラムはされるがままになっていたが、やがて自らの失態に気づいたように、深く長い息を吐き出して目を伏せた。


「……お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね。申し訳ありません。助手の眠りを妨げるなど、雇い主としては最低の行為です」


「謝らないでくださいませ……とても、苦しそうでした。もしよろしければ、お話をお聞かせいただけませんか? 言葉にすることで、少しは心が軽くなるかもしれません」


 無理にとは言わない。

 ただ、一人で抱え込まないでほしいという願いを込めて見つめると、カエラムは静かに天井を仰ぎ見た。

 ランプの灯りが、彼の横顔に濃い影を落としている。


「……私はかつて、王都の王宮で、名ばかりの専属医をしていました」


 ぽつりとこぼれ落ちたその言葉に、コルネリアは息を呑んだ。

 彼の腕前を見れば、王都で名医として名を馳せていたことは想像がついていた。

 しかし、自ら進んでこの森に引きこもっている以上――そこには深い理由があるはずだった。


「私の家は、貧しい平民でした。父は早くに他界し、母が女手一つで私を育ててくれました。母は朝から晩まで身を粉にして働き、私のために高価な医学書を買い与えてくれたのです……私は母を楽にさせたくて、死に物狂いで学び、若くして王宮の医師の座を射止めました」


「素晴らしい親孝行ではありませんか」


「ええ。私もそう思っていました。王宮に勤めれば、最高の薬と環境が手に入る。これで母に長生きしてもらえると、そう信じて疑わなかったのです」


 カエラムの口元に、ひどく自嘲的な笑みが浮かんだ。

 彼の手が、コルネリアの手の中で微かに震え始める。


「ある冬のことです。王都の下層区で、重い流行り病が発生しました。貧しい生活をしていた母も、その病に倒れました。私はすぐに特効薬を調合し、母の元へ駆けつけようとしました」


 そこで、カエラムの言葉が途切れた。

 彼の表情が、悪夢に囚われていた時のように苦痛に歪む。


「……しかし、私は王宮の門を出ることができませんでした。当時の宰相が、単なる二日酔いの頭痛を訴え、万が一にも流行り病であってはならないからと、王宮中のすべての名医を自身の寝室の前に待機させたのです。私がどれだけ事情を説明し、今すぐに行かなければ母が死んでしまうと懇願しても、近衛兵は槍を交差させて門を開けてはくれませんでした」


「そんな……あまりにも理不尽です……!」


「王宮とは、そういう場所です。彼らにとって、平民の命など、貴族の安眠以下の価値しかない。私は王宮の医師という立場にいながら、たった一人の、自分を育ててくれた母を看取ることすら許されなかった。私が王宮を飛び出せたのは、それから三日後のことでした。母は……冷たい寝台の上で、たった一人で息を引き取っていました」


 絞り出すような声だった。

 当時の絶望と無力感が、重苦しい空気となって部屋を満たしていく。


「私は、自分の医術が何のためにあるのか分からなくなりました。権力者の保身のために使われる技術など、何の意味もない。私は名医などではない。一番救いたかった人を救えなかった、ただの無力な男です」


 カエラムはコルネリアの手から自らの手を引き抜こうとした。

 まるで、自分の手が彼女のような純粋な人間に触れる資格などないと言わんばかりに。


 しかし、コルネリアはそれを許さなかった。

 引き抜かれそうになった彼の手を、今度は両手でさらに強く握りしめ、自らの胸元へと引き寄せる。


「……コルネリアさん?」


「無力などではありません。絶対に、違います」


 コルネリアのペリドットの瞳が、涙で微かに潤みながらも、強い光を放ってカエラムを真っ直ぐに射抜いた。


「先生の過去に、どれほどの悲しみと絶望があったのか、私には計り知れません。ですが、これだけは断言できます……先生の手は、私を崖の底から救い出してくれました。トロンさんの腕を治し、マルタさんの命を繋ぎ止めました」


 コルネリアは、握りしめたカエラムの手を自身の頬にそっと押し当てた。

 幾多の命を救ってきたその大きな手が、今はひどく愛おしかった。


「権力者のために使われなかったその手は、今、この森で確実に多くの命を救い、希望を与えています。先生のお母様が身を粉にして学ばせてくれた医術は、決して無駄にはなっていません。お母様はきっと、今の先生の姿を誇りに思っていらっしゃるはずです」


「……」


「ですから、ご自分を責めないでください。先生は、私が心から尊敬する、最高の名医です」


 その飾らない真っ直ぐな言葉は、カエラムの心の奥底で分厚く凍りついていた後悔の氷を、静かに溶かしていった。

 何年も何年も、誰にも言えず一人で抱え込んできた深い闇。

 それを、この不運で純粋な令嬢が、その温かな両手で包み込み、光の中へと引っ張り出してくれたのだ。

 カエラムの瞳からひとしずくの涙がこぼれ落ち、毛布に小さな染みを作った。


 彼はもう、手を引き抜こうとはしなかった。

 代わりに、コルネリアの小さな手を握り返し、まるで失われた温もりを確かめるように深く息を吐いた。


「……私は、この森で一人、罰を受けているつもりでした。誰かと関わって温かさを知れば、母に申し訳が立たないと……ですが、あなたがこの診療所に来てくれて、私の生活は一変しました。誰かと食事を共にし、同じ空間で眠る。それが……ひどく懐かしくて、そして少しだけ、怖かったのかもしれません」


 過去の悪夢に怯えていた彼の告白は、コルネリアへの確かな信頼の証だった。


「もう、怖がる必要はありませんよ。私がずっと、先生の助手としてお傍にいますから」


「……ええ。ありがとうございます、コルネリアさん。あなたの優しさに、私はどれほど救われていることか」


 カエラムの顔から苦痛の色が消え、いつもの穏やかで――少しだけ不器用な大人の顔に戻っていた。


 窓の外を見ると、夏の短い夜が終わりを告げ、森の木々の向こうから白々とした夜明けの光が差し込み始めていた。

 二人は繋いだ手をそのままに、新しい朝の光が診療所を優しく照らし出すのを静かに見つめていた。


 過去の傷はすぐには消えないかもしれない。

 けれど、こうして痛みを分かち合い、温もりを与え合う相手がいる限り、彼らが再び暗闇に囚われることは決してないのだ。

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