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8 先生には、敵いませんね

 雲一つない、初夏の澄み切った青空が広がっていた。

 木々の間から降り注ぐ陽光は日を追うごとに力強さを増し、森の空気を心地よい温かさで満たしている。


 コルネリアは少しばかりの緊張を胸に抱きながら、カエラムの半歩後ろを歩いていた。

 ゼサリア・オル王国から理不尽な罪で追放されて以来、初めて人の営みがある場所へと足を踏み入れるのだ。


「コルネリアさん、足の具合はどうですか? もし痛むようなら、すぐに休んでくださいね」


 前を歩いていたカエラムが、丸メガネの奥の瞳を和らげて振り返った。

 いつも通りの白衣に無精髭という出で立ちだが、その落ち着いた低い声には、年上の男性らしい安心感が漂っている。


「ありがとうございます。痛みはまったくありませんわ……ただ、少しだけ緊張しております。私のような者が、街の方々に受け入れていただけるのかと」


「何も心配はいりませんよ。私の隣にいれば大丈夫です」


 カエラムが穏やかに微笑みかけた――まさにその瞬間だった。

 コルネリアが踏み出そうとした右足の靴紐が、なぜか突如として複雑な絡まり方をして足首をきつく締め上げたのだ。

 ただ歩いていただけなのに、紐の端と端が奇跡的な確率で知恵の輪のように結びつき、完全に解けなくなってしまったのである。


「あっ……!」


 不運体質の発動に、コルネリアは絶望的なため息をつきそうになった。

 こんな些細な日常動作でさえ、不運は容赦なく彼女の邪魔をする。

 屈み込んで解こうとしたが、紐は固く結ばれており、右手だけでは到底解けそうになかった。


「おや、見事に絡まってしまいましたね。そのまま、動かないでください」


 カエラムは静かに膝をつき、コルネリアの足元に視線を落とした。

 そして、彼の長く細い指先が靴紐に触れたかと思うと、まるで魔法でも使ったかのように、ほんの数回の滑らかな指の動きだけで複雑な結び目がするりと解けてしまった。

 驚くコルネリアの前で、カエラムは解けた紐を再び持ち直し、今度は決して解けないであろう特殊な結び方で固定してくれた。


「これは外科結びの応用です。手術中に糸が緩んでは命に関わりますから、絶対に解けない結び方があるのですよ。これで、もう転ぶ心配はありません」


 立ち上がりながら優しく告げる彼の手際の良さに、コルネリアはぽかんと口を開けてしまった。

 彼女の理不尽な不運を、大人の余裕と医者としての技術で、何事もなかったかのように解決してしまう。

 その頼もしさに、コルネリアの胸の奥がぴょこんと跳ねた。


「……先生には、敵いませんね。ありがとうございます」


 森を抜けると、そこには活気に満ちた交易の街が広がっていた。

 貧民区に隣接しているというその街は、王都のような計算された美しさはないものの、土と香辛料、そして焼きたてのパンの匂いが混ざり合い、人々の力強い生命力に満ちていた。


 街の大通りに出た途端、コルネリアは信じられない光景を目の当たりにした。


「あ、カエラム先生だ! 先生、こんにちは!」


「先生、先日はうちの婆さんがお世話になりました! これ、採れたてのトマトです。持っていってください!」


 すれ違う街の人々が、次々とカエラムに声をかけてくるのだ。

 野菜売りの女性、荷車を引く屈強な男たち、軒先で日向ぼっこをしている老人まで。

 皆がカエラムの姿を認めるなり、深く頭を下げたり親しげに手を振り、手持ちの品を差し出そうとする。


 カエラムはその一つ一つに足を止め、ぼんやりとしたいつもの調子でありながらも、極めて丁寧に言葉を返していく。


「おや、こんにちは……その後、腰の痛みはいかがですか? まだ重い物を持つのは控えてくださいね。トマト、ありがとうございます。お孫さんの咳は落ち着きましたか? 夜はまだ冷える日がありますから、首元を温かくしてあげてください」


 誰一人として適当にあしらうことなく、彼らの病歴や家族の状況をすべて記憶しているかのような的確な気遣い。

 その光景を見つめながら、コルネリアは静かな衝撃を受けていた。

 この翡翠色の髪をした不器用な医師は、ただ腕が良いだけの男ではない。

 この場所で生きるすべての人々にとって、命を預けるに足る絶対的な信頼の対象であり、街の希望そのものなのだ。


 権力で民を平伏させていた王族たちの冷たい威厳とは違う、心からの感謝と敬意。

 それを一身に集める彼の隣を歩いているという事実が、コルネリアの心を温かいもので満たしていった。


「あ、カエラム先生! それに、コルネリアお姉ちゃん!」


 人混みを縫うようにして駆け寄ってきたのは、茶色い髪と空色の瞳を持った元気な少年、ニコだった。


「ニコ君! 今日も元気そうですね」


「うん! お姉ちゃん、もう歩けるようになったんだね! 今日は街でお買い物? 俺が案内するよ!」


 ニコは得意げに胸を張り、二人の前を歩き始めた。

 彼の案内で街を巡るうちに、コルネリアはこの場所の本当の美しさを知った。


 建物は古く、道は舗装されていなくても、行き交う人々の笑顔には嘘がない。

 誰もが助け合い、分け合って生きている。

 王都の冷ややかな社交界では決して見ることのできなかった、泥臭くも温かな熱量がここにはあった。


 やがて、三人は街の外れにある木工家具を扱う店へと到着した。

 店内には真新しい木材の香りが漂っている。

 様々な大きさの寝台が並ぶ中、カエラムは真っ先に、一番奥に置かれた分厚く柔らかそうな高級品の寝台を指差した。


「これが良いでしょう。助手の安眠と健康管理は、雇用主である私の義務ですからね。最高品質のものを買います」


 真剣な顔で主張するカエラムに対し、コルネリアは慌てて彼の袖を引いた。


「先生、いくらなんでも大きすぎますし、柔らかすぎます! 診療所の広さを考えてくださいませ。それに、私はこれまで硬い床で寝る覚悟すらしていたのですから、これほど立派なものは不釣り合いです」


「しかし、それでは私の気が済みません。あなたは怪我が治ったばかりの身体なのですから」


 まったく引こうとしない医師と、実用性を重んじるしっかり者の助手。

 二人のやり取りを見ていた店主とニコが、微笑ましそうに笑う。


 ふと、昨夜の「一緒に使いましょうか」という失言を思い出し、コルネリアは少しだけ視線を逸らした。

 カエラムも同じことを思い出したのか、咳払いをする。


「……分かりました。では、こちらの少し小ぶりで、しかし造りのしっかりしたものにしましょう。これなら、診療所の壁際にもちょうど収まりますから」


「ええ。それが良いと思います。ありがとうございます、先生」


 互いに少しだけ照れ隠しの笑みを浮かべながら、二人は丈夫で美しい木目の寝台を購入した。


 ――しかし、店を出てから大きな問題に直面した。

 購入した寝台を、森の奥の診療所までどうやって持ち帰るかという点である。

 馬車を雇うにしても、森の獣道を進めるかは微妙なところだった。


「どうしましょうか。分解して、少しずつ運ぶしか……」


「おや、先生! それに助手のお嬢さん!」


 カエラムが思案していると、大通りから太く明るい声が響いた。


 見れば、巨大な荷車を引いた丸太のように太い腕を持つ屈強な男が立っていた。

 彼は先ほど街の入り口でカエラムに挨拶をしていた荷運びの男だった。


「新しく寝台を買ったのかい? なら、俺が運んでやるよ! あの時、先生に脚の傷を治してもらってなきゃ、俺は今頃この仕事もできず、家族を路頭に迷わせてたんだ。これくらいの恩返し、安いもんだぜ!」


「それは助かります。ですが、重労働ですよ?」


「へっ、先生のためなら羽毛みたいに軽いさ! さあ、乗せた乗せた!」


 男は力強い手つきで真新しい寝台を荷車に積み込んだ。

 それだけでは終わらなかった。

 道行く人々が先生の荷車だと知るや否や、次々と荷台に贈り物を積んでいくのだ。

 焼きたてのパン、瓶詰めの果実、摘みたての花束。

 結局、夕暮れの森へと向かう荷車は、寝台の隙間を埋め尽くすほどの街の人々の善意で溢れかえっていた。


 ――すっかり日が落ちた頃、診療所の壁際に、真新しい二つ目の寝台が設置された。

 柔らかなランプの灯りに照らされた室内には、木の清々しい香りと、街の人々からいただいたパンや花の香りが満ちている。


「これで今夜から、先生もゆっくりと横になれますね」


 コルネリアが微笑みかけると、カエラムは自身の定位置だった硬い椅子ではなく、部屋の隅に並んだ二つの寝台を静かに見つめた。

 長年、一人きりで本と薬草に埋もれて生きてきた彼にとって、その空間はひどく新鮮で――けれど、どこか懐かしい温もりに満ちていた。


「ええ……誰かと同じ空間で眠りにつくのも、悪くないものですね」


 カエラムのアンバーの瞳が、深く穏やかな満足感に細められる。


 二人の共同生活は、街の人々の優しさに祝福されながら、新しい段階へと静かに踏み出していた。

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