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10 私に先生のお世話をさせてくださいな

 森の木々の隙間から、夏の瑞々しい朝の光が差し込み始めていた。

 夜露に濡れた葉が朝日を反射して輝き、小鳥たちのさえずりが新しい一日の始まりを告げている。


 静かな診療所の中で、コルネリアは隣の寝台から聞こえる穏やかな寝息を確認し、そっと身を起こした。

 昨夜の出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。


 過去の深い絶望と後悔に囚われ、悪夢の中で苦しそうに顔を歪めていたカエラム。

 女手一つで育ててくれた母親の最期に立ち会えなかったという、あまりにも理不尽で残酷な記憶。

 普段はどんな重傷患者を前にしても冷静で、街の人々から聖者のように慕われている彼が、自らの無力さに打ちひしがれ、子供のように涙を流していたのだ。


(先生の過去の悲しみを、完全に消し去ることはできないかもしれない……けれど)


 コルネリアは自身の両手を見つめた。

 昨夜、冷え切っていた彼の手を握りしめた時の、あの無骨で大きな感触がまだ残っている。


(この手が届く範囲でなら、先生の日常を温かく照らすことはできるはずです)


 生来のしっかり者としての気質と、彼への深い慈愛が――コルネリアを突き動かした。

 悲しい記憶を抱える彼を、今日という新しい一日で少しでも元気づけたい。

 その一心で、彼女は音を立てないように寝台を降り、流れるような手際で朝の支度を始めた。


 まずは診療所内の空気の入れ替えである。

 窓を大きく開け放ち、森の清浄な空気を部屋の隅々にまで行き渡らせる。


 次に、ただでさえ整理されている棚や机の上を、さらに丹念に布で磨き上げた。

 薬草の瓶一つにしても、ラベルがきっちり正面を向くように並べ直す。


 そして、最も重要な朝食の準備に取り掛かった。

 先日、二人で街へ出かけた際に購入した新鮮な食材が、戸棚や冷暗所にたっぷりと保管されている。

 コルネリアはそれらを惜しみなく使い、栄養満点で、見ているだけで心が明るくなるような献立を考えた。


 厚く切り分けたパンの表面に切れ目を入れ、香草を練り込んだバターをたっぷりと塗り込む。

 それをかまどの火で香ばしい焼き色がつくまであぶる。


 同時に、採れたての新鮮な卵をいくつも割りほぐし、少量の牛乳と貴重な砂糖を加えてよく混ぜ合わせる。

 熱した鉄の小鍋に流し込み、外側は色鮮やかな黄色に、内側はとろけるような柔らかさに仕上げた極上の卵料理を作り上げた。


 さらに、キャベツと色鮮やかなトマトを酸味のある液で和え、彩り豊かな一皿を完成させる。

 料理の温かな湯気と、食欲をそそる香りが診療所いっぱいに広がり始めた頃――。

 寝台の上で、カエラムがゆっくりと身じろぎをした。


「……ん……朝、ですか……」


 深い声と共に重い瞼が開かれる。

 カエラムは手探りで丸メガネを顔にかけると、まず目に飛び込んできたあまりにも完璧に整頓された部屋の様子と芳醇な朝食の香りに、何度か目を瞬かせた。


「おはようございます、カエラム先生! よく眠れましたか?」


 コルネリアが、ひまわりのような満面の笑みを浮かべて近づいてきた。

 その清々しい姿を見た瞬間――カエラムの脳裏に昨夜の自分の失態が蘇った。

 大の男が、しかも雇い主である年上の自分が、あろうことか若い助手の前で過去の傷を暴露し涙まで流してしまったのだ。


「お、おはようございます。その、コルネリアさん。昨夜は、私がひどく取り乱してしまい……」


「昨夜? 昨夜は、とても穏やかな夜でしたよ。先生は少しだけ寝言を仰っていましたが、すぐに深い眠りについておられました」


 コルネリアは彼の気恥ずかしさを察し、あえて何事もなかったかのように明るく遮った。

 そして、寝台の横に木の椅子を引き寄せると、清潔な水を入れた桶と布、そして木製の櫛を用意した。


「さあ先生、顔を洗って、髪を整えましょう。今日は私が手伝わせていただきますね」


「えっ? い、いや、顔を洗うくらい自分でできますよ。それに、髪など別にこのままでも……」


「いけません。立派な医師たるもの、身だしなみは大切です。それに、私に先生のお世話をさせてくださいな」


 ペリドットの瞳で真っ直ぐに見つめられ、カエラムは口ごもった。

 年上の男性としての矜持や、遠慮といった感情が、彼女の純粋な献身の前に押し流されていく。


 結局、彼は降参の息を吐き、大人しく彼女のされるがままになることを選んだ。

 コルネリアが濡らした布で彼の顔を優しく拭う。

 無精髭は相変わらずだが、それだけで随分と表情が明るく見えた。


 続いて、鳥の巣のように爆発していた翡翠色の髪に、丁寧に櫛を通していく。

 長年放置されていたせいで頑固な寝癖がついていたが、コルネリアの手が何度も優しく髪を梳くうちに、見違えるように落ち着いた髪型へと変化していった。


「はい、これで完璧です……次は、そのシワだらけの白衣を脱いでくださいませ」


「白衣までですか? しかし、替えのものは……」


「昨日、私がしっかりと洗濯して、布で挟んでシワを伸ばしておいたものがありますから、ご安心を」


 コルネリアは誇らしげに胸を張り、真新しく見えるほどに手入れされた白衣を差し出した。

 カエラムはそれを受け取り、袖を通した。

 自分のものではないように清潔で、石鹸の微かな香りがする白衣。

 首元や袖口の乱れまでコルネリアに直され、彼はまるで王宮の式典にでも出るかのように、きちんとした身なりになっていた。


「……どうでしょう。私のような男がここまで整えられると、なんだか別の生き物になったような気がします」


「とても素敵ですよ。知的な先生の魅力が、さらに引き立っています」


 心からの称賛を口にすると、カエラムは気恥ずかしそうに丸メガネのブリッジを指で押し上げた。


「さあ、朝食の準備ができています。温かいうちにいただきましょう」


 二人は机に向かい合い、コルネリアが腕によりをかけた朝食をとり始めた。

 カエラムは一口食べるごとに、瞳を大きく見開いて感嘆の息を漏らした。


「美味しい……信じられないほど美味しいです。ただの卵とパンが、あなたの手にかかるとどうしてここまで素晴らしい料理に変わるのでしょうか」


「特別なことは何もしていませんよ。ただ、先生に元気になっていただきたくて、少しだけ丁寧に作っただけですから」


 コルネリアの言葉に、カエラムの箸を持つ手が微かに止まった。

 彼は目の前で微笑む若い助手の顔を、眩しいものを見るような目で見つめていた。


 彼女は自分の過去に同情するでもなく、無理に言葉で慰めるでもなく、ただこうして日々の生活を豊かにし、温かな食事を用意することで自分を光の当たる場所へと引っ張り上げようとしてくれている。

 その優しさが、胸の奥深くまで浸透していくのが分かった。


「紅茶を淹れてきますね。食後の温かい紅茶は、胃腸を落ち着かせるのに最適だと、先生の医学書に書いてありましたから」


 コルネリアは足取り軽く立ち上がり、かまどの方へと向かった。


 熱い紅茶が入った二つのカップをトレイに乗せ、机へと戻ろうとした――その時だった。

 平坦で何もないはずの床。

 障害物など一切存在しないその場所で、コルネリアの右足が目に見えない何かに引っかかったように、唐突にバランスを崩した。


「あっ……!」


 不運体質の理不尽な発動。

 トレイの上の熱い紅茶が波打ち、コルネリアの身体が前へと倒れそうになる。


 しかし――次の瞬間。

 座っていたはずのカエラムが音もなく立ち上がり、危うい体勢になっていたコルネリアの肘を、下から支えるようにしっかりと掴んでいた。

 カップの中の紅茶は一滴もこぼれることなく、コルネリアの身体も無事に元の姿勢へと引き戻される。


 昨夜、悪夢にうなされる彼の手をコルネリアが握りしめたのとは逆の構図だった。

 今度は彼の大きな手が、彼女の不運を未然に防ぎ、しっかりと支えてくれたのだ。


「怪我は治っても、足元には十分気をつけてくださいね」


 カエラムが穏やかな笑みを浮かべて囁く。

 コルネリアは安堵と少しの恥ずかしさから、頬を染めて小さく笑った。


「ありがとうございます、先生……私としたことが、また不注意を」


「あなたの不運は私がいくらでも支えますから、気になさらず」


 カエラムはトレイから自分のカップを受け取り、一口だけ口に含んだ。

 温かく、心地よい香りが鼻腔を抜けていく。

 彼は窓から差し込む夏の朝の光を見つめ――それから改めて、目の前に立つコルネリアへと向き直った。


「コルネリアさん」


「はい」


「君が淹れてくれるこの紅茶と、朝から私を気遣ってくれるその温かな献身は……私が知る限り、この世界で最も効能の高い良薬ですよ」


 それは、長年医療の道を極めてきた名医からの、最大級の賛辞だった。


「もったいないお言葉です……そのお薬なら、これから毎日、いくらでも処方させていただきますね」


 コルネリアが満面の笑みで答えると、カエラムもまた、心からの深い笑みを返した。


 二人は並んで、診療所の重い木の扉を大きく開け放った。

 眩しい初夏の光と、森の瑞々しい風が一斉に室内に流れ込んでくる。


 深い闇の夜を越えた名医と助手は、並んで新しい一日の訪れを希望と共に迎え入れていた。

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