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11 またお水を飲むのを忘れていらっしゃいますね?

 太陽が高く昇り、容赦のない日差しが森の木々を焼き付けている。

 本格的な夏の到来によりこの森は、呼吸をするのもためらわれるほどの濃密な熱気に包まれていた。

 風は完全に凪いでおり、木陰にいても肌を刺すような暑さが身体にまとわりついてくる。


 コルネリアは少しでも診療所内の温度を下げるため、入り口の周囲に柄杓で丁寧に水を撒いていた。

 地面から立ち上る土の匂いとともに、わずかながらも涼しい空気が室内に流れ込んでくる。


 作業を終えて部屋に戻ると、そこには机の上に上半身を投げ出し、完全に生命力を失ったかのように力なく突っ伏しているカエラムの姿があった。


「カエラム先生。またお水を飲むのを忘れていらっしゃいますね? いくら日陰とはいえ、この暑さの中で水分を摂らないのは危険だと、先生の医学書にも書かれていたはずですよ」


「……お恥ずかしい限りです。暑さにはどうにも抵抗できなくて……」


 コルネリアが水で濡らした手拭いを彼の首筋に当てると、カエラムは生き返ったように深く息を吐き出した。

 差し出された水の入ったコップを受け取り、ゆっくりと喉を潤す彼の姿を見て、コルネリアは柔らかく微笑んだ。

 カエラムがどんな名医であろうとも、日常生活においては自分がついていなければ駄目なのだという事実が、今の彼女にとってはひどく愛おしい役割となっていた。


 その時、重い木の扉が、押し開けられるようにして開いた。

 眩しい陽光を背に受けて立っていたのは、一人の見知らぬ老人だった。

 日に焼けて深い皺が刻まれた顔は、血の気が失せて蒼白に染まっている。

 老人は何事か言葉を発しようと口を動かしたが、声の代わりに漏れ出たのはかすれた呼吸音だけだった。


 そして、次の瞬間――老人の身体は糸が切れたように傾き、床に向かって鈍い音を立てて崩れ落ちた。


「カエラム先生!」


「ひどい熱中症です! すぐに寝台へ!」


 先ほどまで机に突っ伏していた男とは別人のように、カエラムは瞬時に立ち上がり、床に倒れた老人の身体を抱き上げて寝台へと運んだ。

 コルネリアも即座に駆け寄り、老人の衣服の胸元を開いて呼吸を確保する。

 カエラムが老人の手首に指を当て、顔に顔を近づけて状態を確認した。


「脈が異常に早く、皮膚がひどく乾燥しています。意識も混濁している……急速な冷却が必要です。コルネリアさん、すぐに冷たい水を!」


「はい! お待ちください!」


 コルネリアは部屋の隅に置かれた大きな水桶の前に立ち、両手を翳した。

 伯爵令嬢としての教養であり、今やこの診療所で彼女の特技ともなっている魔法。


 ――しかし、今回は火を起こすのではなく、真逆の力を行使する。

 彼女が静かに精神を集中させ指先から魔力を練り上げると、桶の中の水が急速に熱を奪われ、いくつもの透明な氷の塊へと姿を変えた。

 コルネリアはすぐさま清潔な布を複数枚、その氷水の中に浸して固く絞った。


「先生、氷水と布です!」


「素晴らしい判断です。太い血管が通る首の両脇、それに脇の下を集中して冷やしてください」


 カエラムの的確な指示のもと、二人の流れるような連携が始まった。

 コルネリアが氷のように冷たくなった布を老人の首筋や脇に当て、熱を奪って温かくなった布をすぐに新しいものと交換していく。

 カエラムは老人の口元を少しだけ開かせ、少量の塩を溶かした水を、布切れを使ってゆっくりと口内に含ませていった。


 呼吸を合わせ、無言のままに最善の処置を続ける。

 どれほどの時間が経っただろうか――やがて老人の荒かった呼吸が次第に落ち着きを取り戻し、蒼白だった顔にわずかな血の気が戻り始めた。

 皮膚からは自然な汗が滲み出し、身体が自ら熱を外へ逃がす機能を取り戻した証拠だった。


「……もう大丈夫でしょう。熱は確実に下がってきています」


 カエラムが安堵の息を吐きながら、丸メガネを外して額の汗を拭った。

 コルネリアもまた、手元の布を桶に戻し、深く息をついた。


 それからさらに時間が経過し、窓から差し込む日差しが夕暮れの茜色に染まり始めた頃――。

 寝台の上で、老人がゆっくりと重い瞼を開いた。


「……ああ。私は、たしかこの建物の扉を開けたところで……」


「気がつかれましたか。ええ、あなたは自らの足でこの診療所に辿り着き、扉を開けた直後に力尽きて倒れられたのですよ。ひどい熱中症でした」


 カエラムが穏やかな声で語りかけると、老人は自身の置かれた状況を完全に理解したのか、深く何度も瞬きを繰り返した。


「そうでしたか……助けていただいたのですね。私はジェドと申します。見ず知らずの老人を、本当に……何から何まで、申し訳ないことをしました」


「謝る必要はありませんよ。ですが、ジェドさん。この猛暑の中、どうしてお一人でこのような深い森へ入られたのですか? 大変危険な状態でしたよ」


 カエラムの問いかけに、ジェドはしわがれた両手で自身の顔を覆い、深い嘆きの息を漏らした。


「……私は、どうしようもない、役立たずの老いぼれなのです」


 自嘲に満ちたその言葉に、コルネリアは胸の奥が痛むのを感じた。


「長年、王都の下働きとして荷運びをしておりましたが、先日、腰を痛めて解雇されました。息子夫婦の家に身を寄せておりますが、金も稼げず、ただ飯を食うだけの私は、彼らにとって重荷でしかない……誰の役にも立たない、生きていても仕方のない人間なのです」


 ジェドの目からひとしずくの涙がこぼれ落ち、深い皺を伝って布地へと吸い込まれていく。


「せめて、今日だけは……今日は、数年前に亡くなった妻の命日でした。彼女は生前、この森の奥に咲く青い花をとても愛していました。役に立たない私ですが、せめて妻への約束だけは果たしたくて、その花を摘みに行こうと……しかし、身体がついていかず、このような無様な有様です」


 誰にも必要とされず、ただ一人で愛する人への想いを遂げようとして倒れた老人。

 その孤独と絶望の深さに、コルネリアはかつての自分自身の姿を重ね合わせていた。

 身に覚えのない罪で追放され、誰にも言葉を信じてもらえず、居場所を失って見知らぬ森を彷徨ったあの日の自分。

 あの時の痛みが痛切に蘇る。


 コルネリアが言葉を紡ごうとした時――カエラムが静かに寝台の傍に歩み寄り、ジェドの震える両手を彼自身の大きな手で包み込んだ。


「ジェドさん……あなたのこの手を見てください」


 カエラムの声はどこまでも優しく、確かな力強さを持っていた。


「指には無数の傷跡があり、掌の皮は分厚く硬くなっている。これは、あなたが長年、家族を養うために過酷な労働に耐え、誠実に生きてきた何よりの証明です。これほど立派で、尊い働きをしてきた手を持つあなたが、役立たずであるはずがありません」


 カエラムの言葉に、ジェドは驚いたように顔を上げた。

 コルネリアもまた、寝台の反対側に歩み寄り、ジェドに温かな微笑みを向けた。


「先生の仰る通りです。ジェドさん。誰かに必要とされているかどうかで、ご自身の価値を決める必要はありません。あなたは今日、亡き奥様を想い、この過酷な森へ足を踏み入れました。生きて、こうして誰かを深く愛し続けること。それ自体が、何よりも美しく、素晴らしい仕事だと私は思います」


 コルネリアの真っ直ぐなペリドットの瞳と、そこに込められた偽りのない慈愛の光。

 ジェドは二人の言葉を噛みしめるように何度も頷き、やがて顔を覆って声を上げて泣き始めた。


 それは悲しみの涙ではなく、長年張り詰めていた心の糸が解け、孤独から解放された安堵の涙だった。


 やがて、森に涼しい夜風が吹き始める頃――。

 すっかり体力を回復したジェドは、カエラムが処方した身体を冷やすための漢方薬と、コルネリアが氷の魔法で冷やして持たせた水の入った水筒を手に、診療所の扉の前に立っていた。


「カエラム先生、コルネリアさん。お二人には、命だけでなく、私の心まで救っていただきました……これからは、少しでも長く生きて、妻の分までこの世界を歩いてみようと思います」


 深く頭を下げるジェドの顔には、もう絶望の影はなかった。

 帰路につく彼の背中を、カエラムとコルネリアは並んで見送った。


 夕日が西の空に沈みかけ、空を鮮やかな赤と紺のグラデーションに染め上げている。

 その美しい景色を眺めながら、コルネリアは隣に立つ医師の顔を見上げた。


「先生……私たちは今日、また一人、誰かの居場所を守ることができたのですね」


「ええ。あなたが氷を作って冷やしてくれなければ、危ないところでした。本当に、私には過ぎた助手ですよ」


 カエラムは穏やかに微笑み、視線を夕焼け空へと向けた。

 過酷な夏の一日が終わろうとしている。


 けれど、彼らの間に流れる空気はどこまでも涼やかで、そして互いを思いやる温もりに満ちていた。

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