12 カエラム先生と、ずっと一緒にいられますように
夏の西日がまだ空の高さを保ち、森の木々に長い影を落とし始めた頃。
深い緑に覆われた診療所の周囲には、昼間の強烈な熱気が色濃く残っていた。
普段であれば、夕暮れの農作業を終えた村人たちが擦り傷や腰の痛みを訴えて訪れるこの時間に、カエラムは入り口の重い木の扉を閉じ、かんぬきをかけようとしていた。
「カエラム先生? 今日は随分と早くに扉を閉めてしまうのですね。まだ急患の方がいらっしゃるかもしれない時間ですが……何か特別なご用事でもおありでしたか?」
棚の薬草を整理していたコルネリアが、不思議そうに問いかける。
カエラムは振り返り、どこか照れ隠しのように丸メガネのブリッジを指で押し上げた。
「ええ、薬草の在庫整理も終わりましたし、働きすぎは健康にひどく悪影響を及ぼしますからね……今日は、このまま休診といたしましょう」
休診という言葉に、コルネリアは少しだけ目を丸くした。
彼が自ら休息をとろうとするなど、かつて食事すら忘れて倒れていた姿からは想像もつかない大きな進歩だった。
「それは素晴らしい心がけです。では、夕食の準備にとりかかりますね」
「いえ、夕食も不要です……コルネリアさん。もしよろしければ、これから私と一緒に外出していただけませんか? 近くの村で、年に一度の夏祭りが開かれているのです」
カエラムの言葉に、コルネリアのペリドットの瞳が驚きと期待で大きく見開かれた。
彼は、毎日自分のために献身的に立ち働いてくれる助手に、ほんの少しでも楽しい休息の時間を与えたいと考えていたのだ。
その温かい気遣いに、コルネリアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「はい! ぜひ、ご一緒させてくださいませ!」
普段の白衣を脱ぎ、麻の衣服に身を包んだカエラムと、質素でありながらも上品な色合いの衣服を纏ったコルネリアは、連れ立って夕暮れの森を歩き出した。
森を抜けると、そこには王都の洗練された街並みとは全く異なる、人々の活気と熱意に満ちた別世界が広がっていた。
道沿いには無数の提灯が掲げられ、夕闇を赤く染め上げている。
どこからか軽快な太鼓の音色と笛の調べが風に乗って響き、行き交う村人たちは皆、一様に明るい笑顔を浮かべていた。
「すごいです……これほど多くの人が集まって、皆で喜びを分かち合っているのですね」
コルネリアは感嘆の声を漏らし、周囲の景色を夢中で見渡した。
伯爵令嬢として出席してきた王城の夜会は、確かに目を見張るほど豪華絢爛であった。
しかし、そこにあるのは冷え切った権力闘争と、偽りに満ちた社交辞令ばかりだった。
目の前に広がるこの村の祭りは違う。
大人が子供の手を引き、友と杯を交わし、誰もが心の底からの笑い声を上げている。
その温かな熱量に触れ、コルネリアは不思議なほどの安堵を覚えていた。
カエラムは隣で目を輝かせる彼女の横顔を、ひどく慈しむような穏やかな眼差しで見守っていた。
彼女の理不尽な不運や、過去の重い傷。
それらすべてを包み込んでしまえるほどの平和な時間が、今ここには流れていた。
「コルネリアさん。あちらの屋台を見てください。りんご飴という、この祭りの名物菓子ですよ」
カエラムが指差した先には、鮮やかな深紅色の果実が透明な砂糖の衣を纏って並べられていた。
初めて見る菓子に興味を示す助手のために、カエラムは一つを購入し、彼女の小さな手に持たせた。
「とても美しいです。宝石のようですね……先生も、一緒に召し上がりませんか?」
「では、お言葉に甘えて一口いただきましょうか」
カエラムが飴の表面に口を近づけようとした――まさにその瞬間。
コルネリアの不運体質が、こんな平和な時間にも容赦なく牙を剥いた。
彼の歯が触れるよりも早く、りんごを覆っていた砂糖の衣が予期せぬ方向へと鋭く割れ、粘度の高い砂糖の欠片が弾け飛んだのだ。
そしてあろうことか、その欠片はカエラムの右手の人差し指へと見事に付着してしまったのである。
「あっ! も、申し訳ありません、先生! 私としたことが、またこのような不注意を……!」
慌てて布を取り出そうとするコルネリアに対し、カエラムは全く動じることなく、自らの指先に付着した砂糖の欠片を見つめて静かに微笑んだ。
「お気になさらず……これは、ひどく甘い良薬ですね。私の指まで美味しくなってしまいました」
余裕に満ちた声でそう告げると、カエラムは懐から医療用の清潔な小刀を取り出した。
彼はコルネリアが持っていたりんご飴を受け取ると、医者としての神業的な手先の器用さを発揮し、飴の衣を崩すことなく、彼女が食べやすい一口大の大きさに瞬く間に切り分けてしまった。
「さあ、これなら不運が入り込む余地もありませんよ。どうぞ」
「……本当に、先生には敵いません」
コルネリアは頬に熱が集まるのを感じながら、切り分けられたりんご飴を口に運んだ。
砂糖の強烈な甘みと、りんごの爽やかな酸味が口の中いっぱいに広がり、幸福な味がした。
やがて夜が完全に更け、祭りは最大の儀式であるクライマックスへと差し掛かった。
村人たちが一斉に、提灯の明かりが照らす川辺へと集まっていく。
それぞれの手には、願い事を記すための小さな紙の灯篭が握られていた。
「この川に灯篭を流すと、水と光の精霊が願いを叶えてくれるという言い伝えがあるのですよ。私たちも流しましょう」
カエラムから手渡された紙の灯篭と筆を手に、コルネリアは少しだけ悩んだ。
かつて王都から追放された直後の自分であれば、迷わず「無実が証明されますように」と書いただろう。
しかし、今の彼女の心に、あの冷たい故郷への未練は欠片も残っていなかった。
――彼女が願うのは、ただ一つだけだった。
コルネリアは筆に墨を含ませ、誰にも見られないように身を隠しながら、真っ白な紙に迷いのない文字を書き入れた。
『カエラム先生と、ずっと一緒にいられますように』
それは、雇い主への忠誠心という言葉だけでは片付けられない、彼女自身の純粋で確かな想いの結晶だった。
書き終えた灯篭を川の淀みのない水面へとそっと浮かべる。
中に灯された蝋燭の火が、暗い水面を美しく照らし出した。
「先生は、どのような願いを書かれたのですか?」
隣で同じように灯篭を浮かべたカエラムに問いかけると、彼は穏やかなアンバーの瞳を細め、静かに首を横に振った。
「内緒です。口に出してしまえば、精霊が逃げてしまいそうですからね」
言葉を濁す彼の灯篭が、コルネリアの灯篭と寄り添うようにして、ゆっくりと川の流れに乗って遠ざかっていく。
カエラムがその紙に何を記したのか、コルネリアが知る由はなかった。
ただ一つ確かなことは、彼が自分自身のためではなく、たった一人の大切な助手の幸せだけを願って筆を走らせたという事実である。
『この子の理不尽な不運がすべて光に溶け、笑顔が絶えぬ穏やかな日々でありますように』
カエラムの灯篭の裏側には、医師としての祈りよりもさらに深い、慈愛に満ちた言葉が確かに刻み込まれていた。
無数の光の列が、幻想的な風景を作り出しながら川の果てへと流れていく。
祭りの熱気が少しずつ冷めていく中、二人は屋台で購入した小さな提灯の明かりだけを頼りに、夜の森へと続く帰路についた。
虫の音だけが響く静かな暗闇の道。
カエラムの大きな背中の少し後ろを歩きながら、コルネリアはこれまでにないほどの深い安らぎを感じていた。
どんな不運が降りかかろうとも、この人が前を歩いていてくれる限り、自分の人生が完全に暗闇に落ちることは決してない。
「コルネリアさん。足元が暗いですから、私の袖を掴んでいてください」
前を向いたまま差し出されたカエラムの言葉に、コルネリアは嬉しそうに頷き、その温かな布地にそっと指を絡めた。
宵闇の夏祭りは、二人の距離を少しだけ近づけていた。




