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冤罪で追放された伯爵令嬢は、森の奥の診療所で天才医師の胃袋を掴み、愛されながら幸せなスローライフを満喫します  作者: 白月つむぎ


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89 こんなところに巣を作っていたのですね

 雲一つない澄み切った冬の空から、眩しい朝日が診療所の窓枠を四角く切り取って床に落ちていた。

 暖炉では新しい薪が静かに赤い火をおこし、昨夜の宴の微かな潮の香りを爽やかな朝の空気へと緩やかに塗り替えている。


 昨夜、限界まで美味しい海鮮と酒を味わい尽くし、患者用の長椅子で深い眠りについていたモゼが、両腕を高く上げて大きく背伸びをしながら身を起こした。

 大量の酒を飲んだはずなのに、厳しい海で鍛え上げられた彼女の身体には二日酔いの気配など微塵も感じられない。


「おはようございます、モゼさん。よく眠れましたか?」


 キッチンスペースではすでに身支度を整えたコルネリアが、温かい紅茶と、かまどで軽く炙って温め直した丸パンを用意していた。

 隣ではカエラムが、昨日から残っていた数日分のカルテの整理を黙々と進めている。


「おはよう、コルネリアちゃん。ええ、最高に気分爽快よ! やっぱり、気心の知れた仲間と楽しく飲むお酒は次の日に残らないわね」


 モゼは差し出された温かい紅茶を一気に飲み干し、すっかり気分を良くして外套を羽織った。

 短い朝の歓談を終え帰り支度を整えた彼女を、カエラムとコルネリアの二人が外の小道まで見送る。

 モゼは自身の乗ってきた逞しい馬の背にひらりと跨ると、手綱を力強く引き、二人に向けて大きく手を振った。


「じゃあね、二人とも! この冬の間にまたとびきり美味しいお酒を手に入れておくわ。次はもっと強烈な惚気話をつまみに飲みましょ! 期待してるわよ!」


 豪快な笑い声を残し、冬の冷たい風をものともしない颯爽とした足取りで森の道へと帰っていく友人の背中。

 二人は顔を見合わせて苦笑しつつ、その姿が森の木々に隠れて見えなくなるまで温かく見送った。


「本当に、モゼさんは嵐のように現れて、嵐のように去っていくお方ですわね」


「ええ。ですが、彼女のあの底抜けの明るさには、我々も随分と救われています。さて、私は診療所の開院準備に取り掛かります。コルネリアさんは、ファノーネの様子を見てきていただけますか?」


「はい、承知いたしましたわ」


 カエラムが診療所の中へと戻るのを見届け、コルネリアは馬小屋へと向かった。

 小屋の扉を開けると、自身の体温で空気をふっくらと温めていたファノーネが、彼女の姿を認めて嬉しそうに長い首を伸ばしてきた。


 コルネリアは彼が大好きな甘い乾草かんそうを飼い葉桶にたっぷりと補充し、柔らかいブラシを手に取る。


「おはよう、ファノーネ。昨日の夜は、私たちが遅くまで騒いでしまってごめんなさいね」


 優しく語りかけながら、彼が誇る見事な金のたてがみを丁寧にかしていく。

 ファノーネは心地よさにうっとりと目を細め、彼女の肩に大きな頭を擦り寄せてべったりと甘え始めた。


 ここ最近、診療所での日々はあまりにも平穏で、満ち足りていた。

 ――しかし、その絶対的な平和に気を緩めてしまったことが原因だったのか。

 あるいは、彼女の内に眠る奇妙な体質が、久しぶりにその存在を主張しようとしたのか。


 ブラッシングを終えたコルネリアが、道具を片付けようと振り返り、一歩を踏み出した――その瞬間。

 彼女の長い衣服の裾が、無造作に置かれていた水汲み用の木桶の縁にわずかに引っかかる。


 均衡を崩した桶が横に倒れて回転し、壁に立てかけてあった長柄の熊手へと激突。

 その衝撃で熊手が斜めに倒れ込み、今度は壁際に高く積まれていた重い薪の山の中央部分を正確に突き崩してしまった。

 支えを失った薪の山が、まるで意思を持ったかのように一斉に崩落を始める。


 転がり落ちた太い丸太の一本が、地面の石に当たって不規則に跳ね上がり、あろうことかコルネリアの膝元へと向かって一直線に飛んできたのである。

 予期せぬ方向からの危機に、コルネリアが身をすくませた――まさにその時。


 傍らにいたファノーネが、太く逞しい首を素早く振って、彼女の身体を横へと力強く押し出した。

 彼女がいた空間を重い丸太が通り過ぎ、土の地面に深く突き刺さる。


 間一髪で主を救い出したファノーネは、自身の鼻先を高く持ち上げ、まるで「私という優秀な騎士がいれば当然のことだ」と言わんばかりに、得意げな態度で胸を張って見せた。


「ありがとう、ファノーネ! あなたのおかげで助かりましたわ」


 コルネリアが安堵の息を吐き、彼に感謝を伝えようと再び歩み寄ろうとした。

 ――しかし、連鎖する不運の歯車は、まだ完全に回転を止めてはいなかったのである。


 彼女が踏み出した足元には、先ほどの騒動の元凶である木桶が転がっていた。

 足の裏が丸い桶の曲面を捉え、彼女の身体は制御を失って大きく後方へと傾く。


 そのまま宙を舞うように体勢を崩したコルネリアは、背中から馬小屋の屋根を支える最も太い主柱へと激しく激突してしまった。

 強烈な衝撃が柱を伝わり、馬小屋の構造全体を大きく揺らす。


 その振動は、屋根裏の複雑なはりの奥深くへと到達した。

 そこには、馬小屋を建設した際にタツィオとカエラムが一時的に置き忘れ、そのままになっていた分厚く極めて重い余剰木材が不安定な状態で乗せられていたのである。


 振動によって完全に支えを失った巨大な木材が、柱の根元に座り込んでしまったコルネリアの頭上に向かって、容赦なく落下を始めた。

 今度ばかりはファノーネの首も届かない位置である。

 コルネリアが悲鳴を上げる間もなく、死の影が彼女に迫った。


 ――しかし、木材が彼女に到達するよりも一瞬早く。

 凄まじい速度で馬小屋の入り口から飛び込んできた大きな影が、彼女の腰を力強く抱き寄せ、そのままの勢いで安全な場所へと引き倒した。


 直後、コルネリアが先ほどまで座っていた地面に、分厚い木材が凄まじい重量を持って激突し、周囲の土を激しく舞い上げる。


「……怪我はありませんか、コルネリアさん!?」


 彼女を胸の中にきつく抱え込んでいるのは、大きな物音を聞きつけて診療所から駆け込んできたカエラムだった。

 彼の腕は彼女の背中を完全に庇うように回されており、丸メガネの奥のアンバーの瞳には、強い焦燥と安堵の色が入り混じっている。


「カ、カエラム先生……申し訳ありません、また私の不注意で……」


 カエラムの顔が間近にあることに気づき、コルネリアが顔を赤くして謝罪した時――。

 あるじの無事を確認するように、ファノーネが静かに二人の傍らへと歩み寄り、コルネリアの髪にその大きな鼻先を優しく擦り寄せてきた。


 カエラムは診療所から駆け込んでくる際、ファノーネが崩れ落ちた丸太から彼女を力強く押し出して守り抜いた瞬間を、確かに目撃していたのである。

 彼は自身を責めるコルネリアを安心させるように微笑み、そして愛馬の逞しい首筋を、深い労いと称賛を込めて撫でた。


「謝る必要はありませんよ。それよりも……素晴らしい判断と行動でした、ファノーネ。あなたが最初の危機から彼女を確実に守ってくれたからこそ、私もこうして間に合うことができました」


 カエラムからの心からの賛辞を受け、ファノーネは誇らしげに短く呼気を漏らし、任せておけと言わんばかりに力強く首を振った。

 愛馬との頼もしい連携にカエラムが目を細め、地面に落下した巨大な木材と、それが落ちてきた屋根裏の梁の隙間へと視線を向けた。


「……あれは。建設の際に余った木材が、あんな場所に残っていたのですね。我々の確認不足です。しかし、奇妙ですね。あれほど重い木材が落ちてきたというのに……なぜ、あの小さな命は無事なのでしょうか?」


 カエラムの言葉にコルネリアが上を見上げると、木材が落ちて空いた梁の隙間に、柔らかい枯れ草や鮮やかな色の木の実の殻を精巧に編み込んで作られた、見事な鳥の巣があるのを発見した。

 そしてその巣の縁からは、まるで宝石のラピスラズリのような美しい羽根を持つ、一羽の小さな鳥が顔を覗かせていたのである。


「まあ、なんて愛らしい小鳥……こんなところに巣を作っていたのですね」


「あれはセレフィルです。非常に警戒心が強く、深い愛情と完全なる安全が約束された場所にしか決して巣を作らないとされる、絶対的な幸運と繁栄の象徴ですよ」


 カエラムは落ちた木材の形状と、巣の位置を正確に見比べ、一つの驚くべき結論に達した。


「……あの余剰木材は、まさにあの巣の真上に、極めて不安定な状態で引っかかっていました。もし今、あなたの激突による振動で木材が落ちていなければ……いずれ近い将来、冬の強い風の揺れなどで木材が落下し、あの幸運の鳥の巣を完全に押し潰していたはずです」


 カエラムはコルネリアへと振り返り、柔らかい微笑みを向けた。


「あなたの連鎖した不運は、結果として、この馬小屋に定着しようとしていた絶対的な幸運の命を救い出したのです。やはり、あなたがもたらすのは、私にとってもこの場所にとっても、計り知れない奇跡と幸福だけなのですよ」


 自身の引き起こした失敗が、結果的に小さな命と大きな幸運を守ることに繋がった――。

 その事実にコルネリアの胸の奥は温かいもので満たされ、彼女は巣の上の青い小鳥に向かって、とびきり優しい笑顔を向けた。


 ファノーネは頭上の見慣れない小鳥に向かって一度だけ短く鼻を鳴らした後、自身の活躍をもっと褒めてほしいとばかりに、再びコルネリアの腕の中へと大きな頭を押し付けてくる。

 カエラムがそんな愛馬の首筋を優しく撫で、コルネリアが愛おしそうに彼を抱きしめ返す。


 冬の冷気が満ちる馬小屋の中で、不運の連鎖が運んできた小さな幸運の鳥のさえずりを背景に――一人と一頭から同時に向けられる重い愛情に挟まれたコルネリアの明るい笑い声が、温かく響き渡っていた。

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