88 素晴らしい鮮度ですわ
診療所の中は細かく刻まれた薬草の微かな渋みと、暖炉で燃える薪の柔らかな香りが混ざり合った、特有の穏やかな空気に満たされていた。
夕暮れ時を迎え、本日の診療を終えたカエラムは机に向かって羽ペンを走らせ、数日分のカルテの整理を行っている。
その背後で、コルネリアは煮沸して清潔にした包帯を一つずつ丁寧に巻き直し、棚の所定の位置へと納めていく作業を続けていた。
互いの規則正しい作業の気配だけが室内に落ちる、静かで満ち足りた夕暮れのひととき。
――その穏やかな静寂を破るように、診療所の外から力強い足音が近づき、分厚い木の扉が勢いよく開け放たれた。
「邪魔するわよ、二人とも! この間のリベンジと、介抱してもらったお詫びを持ってきたわ!」
夕闇を背負って現れたのは、分厚い外套に身を包んだ漁師のモゼだった。
彼女の両手には、信じられないほどに巨大な麻袋と木箱が抱えられている。
カエラムが慌てて立ち上がり、彼女の荷物を受け取って円卓の上へと運んだ。
「モゼさん、いらっしゃいませ。それにしても、これほど大きな荷物とは一体……」
「ふふん、驚きなさい。極寒の海が育てた、とびきりの王様たちよ!」
モゼが誇らしげに麻袋の紐を解くと、中からはぽってりと太り、驚くべき巨体を誇る見事な真鱈が姿を現した。
さらに木箱の蓋を開ければ、そこには極寒の海底で育ち、硬い殻の中に身がぎっしりと詰まった巨大な冬蟹が数杯、静かに息を潜めて並んでいる。
さらにモゼは、外套の内側から上等な酒瓶を二本取り出して円卓に置いた。
「安心しなさい。今日は飲み比べなんて無茶はしないわ。純粋に、美味しいものを楽しく味わうための宴よ! さあ、腕を振るいましょう!」
モゼの快活な宣言により、静かだった診療所は一気に活気あふれる厨房へと姿を変えた。
カエラムは医療用の小刀を握り、丸々と太った真鱈の解体に取り掛かった。
外科医としての正確無比な手捌きにより分厚い皮が剥がされ、身が骨から綺麗に切り離されていく。
そして腹の中から姿を現した、大ぶりで濃厚な白子はコルネリアへと託された。
「素晴らしい鮮度ですわ。こちらは私が前菜に仕上げますね」
コルネリアは白子を冷水で丁寧に洗い、沸騰した湯の中に短時間だけ潜らせる。
すぐに冷水に取って身を引き締めた後、果実から作られた爽やかな酸味のある酢と、裏庭で採れた香草を合わせてさっぱりとした一皿を完成させた。
さらに彼女は、裏庭で収穫した立派な大根をすりおろし、カブやほうれん草と共に鍋に投入する。
そこへカエラムが切り分けた真鱈の身をたっぷりと乗せれば、大根の淡雪が魚の旨味を包み込む雪見鍋の準備が整った。
メインとなる冬蟹は、暖炉の直火を利用して甲羅ごと豪快に焼き上げる焼き蟹に決定した。
鉄の網の上に巨大な蟹を並べ、火に近づける。
熱が加わるにつれて甲羅は鮮やかな朱色へと染まり、海鮮特有の香ばしい匂いが室内の空気を完全に塗り替えていった。
――夜の帳が完全に下り、暖炉の火が赤々と燃える中、三人で円卓を囲む盛大な宴が始まった。
モゼが持参した酒がグラスに注がれ、乾杯の挨拶と共に各々の喉を潤していく。
最初に手を出したのは、コルネリアが仕上げた真鱈の白子である。
カエラムが一口頬張ると、そのクリーミーでとろけるような極上の食感に、思わず感嘆の息を漏らした。
「……信じられないほどに濃厚です。舌の上で滑らかに溶け出し、果実酢の酸味がその旨味を完璧に引き立てています。お酒の肴として、これ以上のものはありませんね」
「本当、コルネリアちゃんの手にかかれば、どんな魚も最高の料理に化けるわね!」
モゼも上機嫌に酒を煽りながら、網の上で焼き上がった冬蟹の足を見事な力加減でへし折った。
分厚い殻の中から、ふっくらと蒸し焼きにされた純白の身が溢れ出す。
それを甲羅の中にたっぷりとおさまっている濃厚な蟹味噌に絡め、三人で夢中になって口へと運ぶ。
蟹の強い甘みと、味噌の深いコク。
海の恵みを直接味わうような野趣あふれる美味しさに、会話すら忘れてしまうほどの圧倒的な時間が過ぎていく。
暖炉にかけられた雪見鍋も、魚の出汁と大根の自然な甘みが完全に調和し、冷えた身体を芯から温める最高の味わいを生み出していた。
美味しい料理と適度な酒が入り、モゼの口からは普段の漁の様子や、街で起きた些細な出来事などが次々と語られ、円卓には絶えず明るい笑い声が響き渡った。
やがて、酒瓶が半分ほど空き、気持ちよく酔いが回ってきたモゼが、かいがいしくカエラムの皿に蟹の身を取り分けているコルネリアの姿を見て、不意に目を細めた。
「……本当に、コルネリアちゃんがここに来てくれて良かったわ」
しみじみとした声で呟く彼女に、コルネリアは不思議そうに小首を傾げた。
「最初はね、こんな綺麗なお嬢様が、森の厳しい生活に耐えられるのかって心配したのよ。先生も無愛想で不器用だし、すぐに逃げ出しちゃうんじゃないかって。でも……今じゃすっかり、先生を完全に尻に敷いてるじゃない」
「えっ!? そ、そんなことありませんわ! 私はただ、助手としてのお仕事を……」
モゼの突然のからかいに、コルネリアは慌てて両手を振って否定し、顔を真っ赤に染め上げた。
しかし、そのやり取りを聞いていたカエラムは酒の入ったグラスを置き、真面目な顔つきでモゼへと向き直った。
「私が尻に敷かれているという自覚はありませんが……少なくとも、彼女なしの生活はもう絶対に考えられませんね」
冗談や照れ隠しを一切交えない、カエラムのあまりにも真っ直ぐな断言。
予想以上の重い返答を受けたモゼは、一瞬呆気に取られた後、堪えきれないように吹き出した。
「あははっ! ちょっと先生、そこは少し照れたり誤魔化したりするところでしょうが! 全く……愛されているわね、コルネリアちゃん」
「も、もう! モゼさんまで、先生をからかわないでください!」
熱を帯びた顔を両手で覆うコルネリアと、自身の発言の何がおかしいのか理解していない様子のカエラム。
三人の賑やかなやり取りは、夜が更けるまで絶え間なく続いた。
――やがて宴も終わりを迎え、円卓の上には山積みにされた蟹の殻と、すっかり空になった鍋が残された。
楽しい時間の後は、三人での後片付けである。
酔いが回っているとはいえ、海で鍛え上げられたモゼの足取りはしっかりとしており、カエラムが汚れを落とした皿を彼女が受け取り、コルネリアが布で素早く水気を拭き取っていく。
息の合った連携により、あれほど散らかっていたキッチンスペースはまたたく間に元の清潔な状態へと戻っていった。
「あー、よく食べてよく笑ったわ! お腹いっぱいで、眠気が限界よ」
片付けを終えたモゼは大きく伸びをすると、診療所の壁際に置かれている患者用の長椅子へと向かい横になった。
コルネリアが厚手の毛布を彼女の身体に掛けてあげると、モゼは「おやすみ……」と微かに呟き、数秒後には穏やかな寝息を立て始めた。
モゼの寝顔を優しく見届けた後、カエラムとコルネリアは暖炉の前の小さな椅子に並んで腰を下ろした。
室内にはまだ先ほどまでの宴の楽しい熱気と、微かな潮の香りが残っている。
「……モゼさんに、あんな風にからかわれるなんて。私、そんなに先生に対して偉そうに振る舞ってしまっていたでしょうか」
コルネリアが先ほどのモゼの言葉を思い出し、少しだけ不安そうに眉を下げる。
その様子を見たカエラムは、声を落として穏やかに笑った。
「偉そうなどと、とんでもない。ただ、モゼさんには私の変化が手に取るように分かったのでしょう。以前の私は、ただ息をして、惰性で命を繋いでいるだけの空っぽの人間でした。しかし今は、あなたの言葉一つ、あなたの微笑み一つで、私の感情は大きく揺さぶられ、行動のすべてがあなたを基準にして動いているのです」
カエラムは自身の大きな手で、彼女の細い指先をそっと包み込んだ。
「あなたが私の人生の主導権を握っている。それを尻に敷かれていると表現するのであれば、私は喜んであなたにすべてを委ねますよ」
彼の深い情愛に満ちた言葉に、コルネリアの胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。
豪華な海の幸を味わう特別な宴も素晴らしい。
しかし、こうして訪ねてきてくれた友人と共に食事の準備や片付けをし、一日の終わりに二人きりで肩を並べて静かな会話を交わす――。
この何気ない当たり前の時間こそが、彼女にとって何物にも代えがたい最高の宝物であった。
「……先生。明日も、明後日も、私にたくさん指示を出させてくださいね」
コルネリアが繋いだ手にわずかに力を込め、いたずらっぽく微笑む。
カエラムもまた、愛おしさに耐えきれないというように目を細め、彼女のホワイトブロンドの髪に静かに触れた。
長椅子から聞こえるモゼの規則正しい寝息を背景に、二人の静かで満ち足りた微笑みは、暖炉の優しい光の中でいつまでも溶け合うように交わされ続けていた。




