85 これを食べれば、お熱もすぐに逃げていきますわ
幻想的で美しい誕生日の夜から明けた翌朝。
森の木々は夜の間にさらに雪を被り、世界は音を完全に吸収する深い静寂に包まれていた。
かまどに火を入れ、室内に柔らかな熱を行き渡らせた後、コルネリアは厚手の外套を羽織って診療所の裏手に完成したばかりの馬小屋へと向かった。
彼女の右手には、昨日街の市場で購入しておいた、見事な真紅の色彩を放つ大きなりんごが一つ握られている。
それは、前日に二人を乗せて森と街を往復するという初めての仕事を完璧にこなしてくれた、新しい家族への特別なご褒美であった。
馬小屋の扉を開けると、そこには自身の体温で空気を温め、満ち足りた表情で休息を取っているファノーネの姿があった。
彼はコルネリアの姿を認めるなり、嬉しそうな呼気を漏らして長い首を伸ばしてきた。
「おはよう、ファノーネ。昨日は本当にありがとう。あなたのおかげで、とても素晴らしい一日になりましたわ。さあ、これは私からの感謝の気持ちです」
コルネリアが手のひらに乗せた赤いりんごを差し出すと、ファノーネは柔らかい唇を上手に使い自身の口内へと運び込んだ。
強い顎が果実を砕く小気味良い音が響く。
果汁の強い甘みと酸味がよほど気に入ったのか、彼はまたたく間にりんごを平らげると、深い感謝と親愛を示すようにコルネリアの肩へ自身の大きな頭を擦り寄せてきた。
彼女が彼の金のたてがみを両手で優しく撫でてあげると、ファノーネは完全に警戒心を解き、彼女の身体に自身の体重をわずかに預けて甘えるような仕草を見せ続けた。
その穏やかな時間の最中、馬小屋の入り口に身支度を整えたカエラムが静かに姿を現した。
「おはようございます、コルネリアさん。朝から、随分と好かれているようですね」
カエラムは低い声で優しく囁きながら彼女の背後へと歩み寄ると、彼女の華奢な肩を自身の両腕で包み込むようにして抱き寄せた。
背中から伝わる、昨夜何度も確かめ合った愛する人の確かな体温。
コルネリアが胸を高鳴らせて振り返ろうとした瞬間――彼は彼女のホワイトブロンドの髪に顔を埋め、深い情愛を込めた口づけを一つ落とした。
「昨夜の美しい余韻が、まだ私の胸の奥で熱を持ったままなのです……今日も、そして明日も、あなたを愛していますよ」
彼の甘い告白にコルネリアが頬を朱色に染めた――まさにその時。
自分だけに向けて注がれていたコルネリアの愛情と注意を、突如として現れた男に奪われたと感じたファノーネが、不満を訴えるように強い鼻息を一つ吐き出した。
そして彼は、二人の間に自身の大きな頭を強引に割り込ませ、カエラムの肩を鼻先で小突いてコルネリアから引き離そうとする行動に出たのである。
これにはカエラムも驚き、思わず彼女の身体から腕を離して苦笑を漏らした。
「……なるほど。私にとって、これほどまでに強大で可愛らしい恋の競争相手が現れるとは、予想外の事態でした」
愛馬からの明確な嫉妬を受け、カエラムはファノーネの鼻筋を宥めるように撫でた。
コルネリアもまた、自身を巡る一人と一頭の微笑ましい攻防に、冬の寒さを忘れるような明るい笑い声を響かせた。
馬小屋での和やかな時間を終え、二人は裏庭に広がる菜園へと移動した。
二人で丁寧に敷き詰めた藁の布団は、見事に霜よけの役目を果たしている。
カエラムが藁の隙間から土の温度を確かめ、コルネリアが雪の下で春を待つ小松菜やにんじんの葉に病気がないかを点検していく。
厳しい冬の寒さの中でも、互いに協力し合いながら命の成長を見守るその時間は何にも代えがたい平穏に満ちていた。
菜園の手入れを終え、室内に戻ろうとした時のこと――。
森の小道から、積もった雪を乱暴に踏みしめる切羽詰まった足音が近づいてきた。
二人が視線を向けると、そこには自身の息を白く荒らげながら、一人の少年を腕に抱えて必死に歩みを進める女性の姿があった。
かつて収穫祭で元気な姿を見せていた、貧民区で暮らすトリナと、その息子であるニコだった。
「トリナさん! いかがされましたか?」
カエラムが即座に駆け寄り、彼女の腕の中でぐったりとしているニコを自身の腕へと引き取った。
少年の顔は高熱によって異常なまでの赤みを帯び、その呼吸は浅く、そして非常に苦しげであった。
「カエラム先生……! 申し訳ありません、急にニコが高い熱を出してしまって。呼吸も苦しそうで、どうすれば良いか分からず……」
トリナの顔にはかつて自身が倒れ、息子を残して死にかけた時の恐怖がフラッシュバックしているかのような、強い悲痛の色が浮かんでいた。
「すぐにお連れして正解です。さあ、中へ」
カエラムがニコを抱えたまま診療所の中へと入り、円卓の隣に設けられた長椅子に静かに寝かせる。
トリナはコルネリアに上着を預けながら、乱れた呼吸を整えて状況を説明し始めた。
「本当なら、近所の方にお願いして安静にさせておくべきだったのかもしれません。ですが……ニコの親友であるラケル君とルーシーちゃんは身寄りがなく、マルタさんのところで暮らしているでしょう? あの子たちはいつも一緒にいるので、どうしてもニコの様子を見に来てしまうのです。もしあの子たちにこの酷い風邪をうつしてしまったら、親のいないあの子たちは看病を受けることもままなりません。だから、今日は絶対に近づかないようにと強く言い聞かせて、私一人でここまで連れてきたのです」
自身も極限の不安の中にありながら、他人の子どもたちの健康までを気遣うトリナの深い愛情。
コルネリアは彼女の冷え切った手を両手で包み込み、「よくご決断なさいました。あとはカエラム先生にお任せください」と優しく語りかけた。
カエラムは医療用の器具を取り出し、ニコの胸の音を聴き、喉の奥の炎症の状態を的確に確認していく。
彼の無駄のない滑らかな診察は数分で終了した。
「……安心してください、トリナさん。肺に重篤な病を抱えているわけではありません。冬特有の、非常に強い風邪です。熱を下げて喉の炎症を抑える薬草を調合しましょう。これを飲んで安静にしていれば、数日で必ず良くなります」
カエラムの断言を聞き、トリナは張り詰めていた糸が切れたようにその場にへたり込み、両手で顔を覆って安堵の涙を流した。
カエラムが薬草の調合に取り掛かる傍ら、コルネリアはキッチンスペースへと向かった。
高熱で体力を奪われているニコのために、彼女は消化に優しく、そして身体を内側から温める食事を用意することにしたのである。
鍋に清らかな水を張り、昨日収穫したばかりの甘いカブと大根を極めて細かく刻んで煮込み、滋味深い野菜の出汁を取っていく。
そこへ洗い清めた米を入れ、火を弱めて時間をかけて米粒の形が崩れるまで柔らかくしていく。
仕上げに、グリンダが牧場から届けてくれた産みたての卵を器で溶き、鍋の中へと細く糸を引くように流し入れた。
かまどの熱によって卵が柔らかな膨らみを見せ、芳醇な香りが診療所の中に広がる。
少量の塩で味を調えれば、栄養満点で喉を通りやすい卵粥の完成である。
コルネリアは木製の器に粥をよそい、熱すぎないように匙で丁寧に冷ましながら、ニコの口元へと運んだ。
最初は食欲を見せなかったニコであったが、根菜の甘みと卵のコクが溶け込んだ温かい粥が口内に入ると、わずかに目を丸くし、ゆっくりとした動作で飲み込み始めた。
「美味しい……お姉ちゃんのご飯、いつもすごく美味しい」
「ええ、たくさん食べてくださいね。これを食べれば、お熱もすぐに逃げていきますわ」
器の半分ほどを平らげた頃には、ニコの顔から苦痛の表情は消え、血色がわずかに健康的なものへと戻り始めていた。
胃腸が温まったことでカエラムが調合した薬効の強い苦い薬草の汁も無事に飲み下すことができ、彼は長椅子の上で穏やかな寝息を立て始めた。
「……先生、コルネリアさん。本当に、何とお礼を申し上げたら良いか。以前は私が助けていただき、今回は息子の命まで……」
トリナが深く頭を下げるのを、カエラムは穏やかな笑みで制した。
「お礼など必要ありません。あなたがラケル君やルーシーちゃんの健康を守るために下した決断が、結果としてニコ君の早期治療に繋がったのです。母親としてのあなたの愛が、彼を救ったのですよ」
カエラムの言葉に、トリナは涙を拭い、眠る息子の髪を愛おしそうに撫でた。
――数時間後、熱が落ち着き歩けるほどに回復したニコを連れて、トリナは何度も振り返りながら感謝を伝え、森の道へと帰っていった。
静寂が戻った診療所の中。
コルネリアは使用した器を洗い終え、カエラムの隣へと並んで立った。
「トリナさん……すっかり、強くて優しいお母様のお顔になられていましたね。ラケル君やルーシーちゃんのことまで気遣えるほどに」
「ええ。人が健康を取り戻すということは、ただ身体が動くようになるだけではありません。心に余裕が生まれ、他者を慈しむ余裕を手に入れるということでもあります。我々は今日、彼女が取り戻したその尊い愛の形を、すぐ傍で見届けることができたのです」
窓の外では、冬の冷たい空気が森を支配している。
しかし、自身に向けられる愛馬の可愛らしい嫉妬や、助けを求めてきた母子を救い出した確かな安堵感によって――。
二人の心の中は、厳しい寒さを一切寄せ付けないほどの、穏やかで満ち足りた熱によってどこまでも優しく温められていた。




