80 てっきりお弱いのかと勘違いしておりましたわ
深い森が茜色の夕陽を飲み込み、急速に夜の冷気を帯び始めた時間。
本日の診療業務を終えたカエラムとコルネリアは、少しの手隙の時間を惜しむようにして、裏庭の菜園に並んでしゃがみ込んでいた。
彼らの手元には、街の種苗商エルマーから譲り受けた大切な命の種が握られている。
カエラムが先日の開墾作業で柔らかく整えた黒い土の畝に、コルネリアが一定の間隔で小さな窪みを作っていく。
そこへ、カエラムが小松菜とにんじんの種を落とし、玉ねぎの苗を丁寧に植え込んでいった。
風で飛ばされないよう優しく土を被せ、寒さから守るための藁を厚く敷き詰める。
「冷たい土の下で、この子たちは長い時間をかけて大地の甘みを蓄えていくのですね。春を迎えて無事に芽吹く日が、今からとても楽しみですわ」
「ええ。厳しい冬を越えた先にある収穫の喜びを、これから二人で大切に見守っていきましょう」
手についた土を払い、互いの労をねぎらうように微笑みを交わす。
診療所の中へと戻り、冷えた身体を温めるために熱い緑茶を淹れて一息ついていた――その時。
静寂に包まれた森の道を、力強い馬の蹄の音が近づいてきた。
音は診療所のすぐ前で止まり、入り口の分厚い木の扉が外側から勢いよく押し開かれた。
「こんばんは! 先生、コルネリアちゃん。約束通り、冬の海から最高の獲物を持ってきたわよ!」
現れたのは、燃えるような赤い髪を後ろで束ねた女漁師のモゼであった。
彼女のサファイアの瞳は自信に満ちた輝きを放ち、その両手には信じられないほど巨大な麻の袋が抱えられている。
「モゼさん。よくいらっしゃいました。外は冷えたでしょう、さあ、中へ」
「いらっしゃいませ、モゼさん。わあ……お荷物が、とても重そうですわ」
カエラムがモゼを円卓へと案内し、コルネリアが温かい緑茶を差し出す。
モゼは大きな袋を円卓の上に置き、中から自慢の海の幸を次々と取り出し始めた。
冬の冷たい海を泳ぎ抜き、限界まで脂を蓄えた巨大な寒ブリの半身や、大ぶりな貝類が顔を覗かせる。
――しかし、彼女の荷物はそれだけではなかった。
海の幸の下から、厳重に布で包まれたガラスのボトルが、何本も無造作に取り出されたのである。
芳醇な香りを放つ熟成された果実酒に、喉を焼くような強い度数を持つ異国の蒸留酒。
「モゼさん。そのお酒の量は……一体どうされたのですか?」
カエラムがわずかに眉を上げて問いかけると、モゼは挑戦的な笑みを浮かべ、自身の胸を勢いよく叩いた。
「どうもこうもないわよ。夏の終わりにここへ来た時、先生はコルネリアちゃんの傍ですっかり愛妻家になって、驚くほど表情が丸く優しくなっていたじゃない? 昔の張り詰めた空気は消えて、幸せで隙だらけになっていたわ。だから、今夜なら私でも先生との飲み比べの勝負で勝てるんじゃないかと思ってね!」
モゼは漁村の中でも一、二を争う並外れた酒豪であった。
かつてカエラムが森に来たばかりの頃、彼女は彼に何度か酒の席で挑んだことがあったが、当時の彼はどれだけ強い酒を煽っても表情一つ変えない底無しの酒量を持っていた。
だが、今の彼なら愛に満たされて隙が生まれ、酒の回りが早くなっているはずだ――それがモゼの導き出した結論だった。
「……なるほど。私に挑戦するために、これほどの準備を。よろしいでしょう、お受けいたします」
カエラムが受けて立つ意思を口にすると、診療所の中はたちまち熱を帯びた宴の準備へと移行した。
コルネリアはキッチンスペースに立ち、モゼが持ち込んだ寒ブリと、先日菜園で初収穫したばかりの甘い大根を使った料理に取り掛かった。
ブリの身を分厚く切り分け、熱湯をかけて生魚特有の臭みを完全に抜き去る。
そこへ、厚めに切った大根とともに大鍋へ入れ、東方の調味料である醤油と、微かな甘みを加えて煮込んでいく。
かまどの火が鍋を熱し、大根がブリから溶け出した極上の脂と旨味を余すところなく吸い込んで深い褐色へと染まっていく。
仕上げに貝類を火で炙り、香ばしい磯の香りを引き立てれば、冬の海と大地の恵みが融合した最高の一皿の完成である。
熱気を放つ大皿を円卓の中央に置き、三人の宴が始まった。
「さあ、遠慮はいらないわよ! 乾杯!」
モゼが強い蒸留酒の入ったグラスを高く掲げ、一気に飲み干す。
カエラムもまた、同じ量の強い酒をグラスに注ぎ、表情を全く変えることなく喉の奥へと流し込んだ。
コルネリアは果実酒を少しだけ口に含み、熱々のブリ大根を味わいながら、二人の戦いを見守っていた。
モゼの予想通り、カエラムはコルネリアの取り皿に最も火の通った柔らかい大根を丁寧に取り分けたり、彼女の飲む果実酒の度数を気遣ったりと、その行動のすべてが愛する者への深い思いやりに満ち溢れていた。
その幸せで甘い空気を見るたびに、モゼは「これだけ気が緩んでいれば、すぐに酔いが回るはずだ」と確信し、自身のグラスの酒を次々と空にして、カエラムにも同じペースで酒を勧めた。
しかし――時間が経過しても、カエラムの様子に変化は全く訪れなかった。
強烈な度数の酒を何杯も煽っているというのに、彼のアンバーの瞳は理性の光を一切失うことなく、言葉の端に乱れが生じることもない。
逆に、自信満々であったモゼの顔が次第に赤く染まり、ろれつが怪しくなり始めていた。
「……あ、あれぇ? おかしいわね。先生、昔より全然ペースが落ちてないじゃない。それに、その顔……全然酔ってない……」
「モゼさん。あなたは少し、ご自身の限界を超えているようですよ」
カエラムが冷静な声で指摘した直後、モゼは「うーん、私の負けね……」という呟きを残し、円卓の上に腕を交差させて突っ伏し、そのまま深い眠りの中へと落ちてしまった。
――凄腕の女漁師の完全な敗北であった。
いびきをかき始めたモゼを見て、コルネリアは目を丸くしてカエラムを見上げた。
「先生……あんなに強いお酒をたくさん召し上がっていたのに、全く酔っていらっしゃらないのですか?」
驚く彼女に対し、カエラムは手元のグラスに残っていた酒を静かに飲み干し、丸メガネの位置を指先で直して微かに微笑んだ。
「ええ。私自身、不思議な体質だとは思うのですが……どれほど強い酒をどれだけ飲んでも、意識が混濁したり、理性を失ったりすることはないのです。ただ、身体が少し熱を持つ程度で」
「そうだったのですね……普段、先生はあまりお酒を召し上がらないので、てっきりお弱いのかと勘違いしておりましたわ」
コルネリアの言葉を聞き、カエラムはグラスを円卓の上に置き、その瞳に静かな影を落とした。
「……昔、私には忘れなければならない凄惨な記憶が多すぎました。自身の無力さを呪い、すべてを忘却の彼方へ葬り去りたくて、浴びるように酒を飲んだ夜が何度もありました。ですが、どれだけ飲んでも私の意識は明瞭なままで……酔いに逃げることすら許されない体質であると悟ったのです」
彼の低い声が、静まり返った診療所に落ちる。
それは、彼が絶望の淵にいた過去の苦しみを物語る、悲しい強さの証明であった。
しかし、カエラムはすぐに顔を上げ、コルネリアを見つめて底なしの情愛を込めた微笑みを向けた。
「ですが、今は違います。私が酒を控えていたのは、過去のトラウマからではありません。愛するあなたと過ごす、この上なく幸福な時間を、少しの酔いで曖昧な記憶にしてしまうことが、どうしても惜しかったのです。あなたと食事を楽しみ、言葉を交わす一分一秒を、私の明瞭な意識のすべてで感じ取り、記憶に刻み込みたかった。ただ、それだけのことですよ」
自身の酒の強さを隠していた理由が、他でもない自分を深く愛しているからこその誠実な選択であったという事実。
コルネリアの胸の奥で、彼への途方もない愛しさが激流となって溢れ出し、彼女は立ち上がって彼の隣へと歩み寄った。
「……先生」
彼女は彼の広い背中に自身の身体を密着させ、その首に両腕を回して優しく抱きついた。
カエラムは彼女の細い腕を自身の大きな手で包み込み、彼女の髪の香りを深く吸い込む。
「これからは、何かを忘れるためではなく……あなたと共に豊かな味を楽しむためだけに、少量の酒を嗜むことにいたしましょう」
彼の甘い囁きに、コルネリアは自身の頬を彼の背中に擦り寄せ、幸福感に満ちた吐息を漏らした。
モゼを待合室の長椅子へと運び終え、二人は片付けを済ませた。
窓の外では、冬の夜空に浮かぶ冴え冴えとした月が、雪に覆われた森を真珠のような柔らかな光で照らし出している。
静かなる酒豪としての新たな貌を見せたカエラムと、彼の隠された愛情の深さに触れてさらに想いを強めたコルネリア。
互いの体温を確かめ合うように身を寄せ合いながら、二人の間の絆は凍てつく冬の夜の静寂の中で、どこまでも熱く――そして、確かな重みを持って深く結ばれていった。
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