75 先生が隣にいてくださらないと、私、寂しくて眠れませんもの
海から戻った二人が診療所の扉を開けた頃、森はすでに夜の静寂に包まれようとしていた。
窓の外では冷たい冬の予感が木々を揺らしているが、かまどに火を入れれば室内は瞬く間に柔らかな熱と安心感に満たされていく。
休診日の締めくくりとして、二人は並んで調理台に立った。
円卓の上には、今日この場所へ届けられた豊かな恵みが並んでいる。
グリンダが搾りたての鮮度を保ったまま届けてくれた濃厚なミルクと、表面に美しい艶を湛えた自家製チーズ。
タツィオが時間をかけて香ばしく燻し上げた、深い味わいを持つ燻製肉。
そして、二人が海で釣り上げた透き通るような身のアオリイカと、大粒で重厚な殻に包まれた真牡蠣である。
「これほどまでに多くの方々の真心を預かったのです。私たちが、それを最高の一皿へと昇華させなければなりませんね」
カエラムが静かに語りかけ、海で手に入れた獲物の下処理を開始する。
アオリイカを一口大の美しい形に切り揃え、真牡蠣の殻から溢れ出す濃厚な旨味を逃さないよう慎重に身を取り出していく。
その傍らで、コルネリアはグリンダのミルクを使い、ホワイトソースの調理に取り掛かった。
熱した鍋に小麦粉と上質な油脂を合わせ、少しずつミルクを注ぎ入れていく。
木べらを持つ手に心を込め、一切の塊が残らないよう滑らかに練り上げていく。
ミルクが熱を帯びるにつれ、室内には乳特有の甘く濃厚な芳香が立ち昇り、幸せな予感を空間全体に広げていった。
仕上げにカエラムが切り分けた海の幸と、タツィオの燻製肉をソースの中へと滑り込ませる。
耐熱の器に移し、その上からグリンダのチーズを、雪が降り積もるかのように贅沢に散らしていった。
かまどの中へ器を差し込むと、熱せられたチーズが音を立てて溶け出し、やがて表面には食欲をそそる芳ばしいきつね色が浮かび上がった。
出来上がったシーフードグラタンを円卓へと運び、ランプの火を心地よい明るさに整える。
食卓につく際、カエラムは棚の奥から一本の細長い瓶を取り出した。
「実は、秋の収穫祭を訪れた折、密かに購入していたものがあるのです。今日という、素晴らしい実りを祝う日に相応しいと思いまして」
それは、厳選された林檎をじっくりと発酵させて作られた、透き通った琥珀色の果実酒だった。
カエラムが二つのグラスにその液体を注ぐと、完熟した林檎の爽やかな甘い香りがグラタンの香ばしい匂いと混ざり合い、この上なく贅沢な空気を作り出した。
「乾杯いたしましょう。私たちの新しい一歩と、この豊かな実りに」
「はい、カエラム先生」
重なり合うグラスが澄んだ音を響かせ、二人はゆっくりと喉を潤した。
林檎の果実酒は驚くほどに口当たりが良く、果実本来の濃厚な甘みが冷えた身体を内側から優しく解きほぐしていく。
続いて、熱々のグラタンを口へと運ぶ。
アオリイカの弾力ある食感と甘み、真牡蠣の凝縮された旨味、そして燻製肉の塩気が、グリンダのミルクのコクと完璧な調和を生んでいた。
「……先生と一緒に作るご飯は、本当に、どうしてこんなにも美味しいのでしょう」
「私にとっても、これ以上の馳走はありませんよ。あなたが隣にいてくれるだけで、ただの食事が特別な儀式へと変わるのですから」
カエラムが丸メガネの奥のアンバーの瞳を和らげ、静かに微笑む。
コルネリアは、その温かな言葉と果実酒の飲みやすさに誘われ、知らず知らずのうちに何度もグラスを口へと運んでいた。
一滴、また一滴と琥珀色の液体が彼女の身体を満たしていくにつれ、普段の礼儀正しく凛とした彼女の輪郭がゆっくりと柔らかく崩れ始めていった。
やがて、彼女の真っ白な頬は熟した林檎のように鮮やかな朱色に染まり、ペリドットの瞳は潤みを帯びて、視界が定まらないように微かに揺れている。
「……あ、先生……お部屋の中が、さっきよりもずっと、ぽかぽかして……幸せですわ……」
コルネリアの口調は、甘く、とろけるような響きを帯びていた。
彼女は自身の身体を支えることが難しくなったのか、円卓に肘をつき、手のひらで自身の頬を包み込むようにして、カエラムに向かって無防備な笑顔を向けた。
――普段は決して見せることのない、心の奥底にある甘えたいという欲求が、酒の力によって表へと溢れ出している。
「コルネリアさん、少し飲みすぎたようですね。今夜はもう、身体を休めた方が良いでしょう」
カエラムは自身の胸の奥で早鐘のように打つ心臓の音を必死に抑え込みながら、立ち上がって彼女の傍へと歩み寄った。
彼は彼女の華奢な肩を支え、自室へと促そうとする。
しかし、足元の覚束ないコルネリアは、吸い寄せられるようにしてカエラム自身の寝台の方へとふらふらと歩みを進めてしまった。
彼女はそのままカエラムの寝台の毛布の中へと潜り込み、彼の枕の感触を確かめるようにして顔を埋めた。
「先生……ここ……先生の匂いがして……とっても、落ち着きますわ……」
――あまりにも無自覚で、あまりにも残酷な誘惑。
カエラムは、自身の理性を総動員して感情を制し、長い溜息を吐き出した。
「……仕方ありませんね。今夜だけですよ」
カエラムは紳士的な態度を崩さず、空いている彼女の寝台を借りようと、静かに背を向けた。
――ところが、その後ろ姿を許さなかったのは、酔いに身を任せたコルネリアだった。
彼女は毛布から素早く腕を伸ばし、去ろうとするカエラムの衣服の袖を強い力でぎゅっと握りしめたのである。
「先生、どこへ行くのですか……? 先生の寝台は、こっちですよう」
彼女は自身の隣の場所を叩き、子供のような純粋な瞳でカエラムを見上げた。
普段の彼女であれば、このような大胆な行動は天地がひっくり返っても起こさないだろう。
しかし今の彼女には、愛する人を一時も離したくないという本能だけが、鮮明に機能していた。
「コルネリアさん。一人用の寝台に二人は、あまりにも狭すぎます。私はあちらで……」
「嫌ですわ……先生が隣にいてくださらないと、私、寂しくて眠れませんもの……先生の寝台なのですから、先生がここにいないとおかしいですわ」
彼女は彼の手を自身の胸元へと引き寄せ、甘えるようにして頬を摺り寄せた。
彼女の柔らかな体温と、果実酒の甘い香りがカエラムの五感を激しく揺さぶる。
大人の男としての冷静沈着な仮面は、彼女のこの一点の曇りもない無垢な誘いに今や木端微塵に砕け散ろうとしていた。
「……後悔しても、知りませんよ」
カエラムは諦めたように低い声を漏らし、メガネを外してケースへとしまい込んだ。
彼は狭い寝台の上で彼女を潰してしまわないよう、背後からその身体を静かに抱き寄せた。
身を寄せ合い、隙間もないほどに密着した二人の身体。
コルネリアは彼の広い胸に背中を預け、大きな手に包まれる安心感に浸りながら、満足そうに小さな吐息を漏らした。
彼女はそのまま彼の腕の中で安らかな寝息を立て始め、数秒と経たずに深い眠りの中へと落ちていったのである。
一方、残されたカエラムにとって、それはこれまでの人生で最も過酷で長い夜の始まりを意味していた。
腕の中に収まる愛する人の柔らかな曲線と、絶え間なく伝わってくる熱い体温。
首筋に吹きかかる彼女の規則正しい呼吸を感じるたびに、カエラムは自身の理性と朝まで戦い続けることを余儀なくされた。
愛おしさと、もどかしさと、そして爆発しそうな独占欲。
カエラムは眠る彼女の髪に自身の顔を埋め、決して解くことのないよう抱きしめる腕の力を強めた。
窓の外では冬の冷たい風が木々を激しく揺らしていたが、二人で一つの寝台を共有する診療所の中は、シーフードグラタンの芳醇な余韻と、理性を溶かす林檎酒の甘い罠に包まれながら――。
互いの存在を深く深く求め合う熱と共に、どこまでも甘く、そして苦しいほどの幸福に満たされて、ゆっくりと夜が更けていった。




