74 熱々のグラタンを作るつもりですの
夜明け前の厳しい冷気が、森の木々が吐き出す息を真っ白な霧に変えていた朝。
太陽がゆっくりと東の空へ昇り、その光が霜を溶かして柔らかな温もりを大地へと届け始める頃、休診日を迎えたカエラムとコルネリアは診療所の裏庭にある小さな菜園の前に立っていた。
冷たい秋の空気を深く吸い込み、二人はしゃがみ込んで畝の様子を確かめる。
菜園の先輩であるジェドから教わった通り、土の上に分厚く敷き詰めた乾燥した藁の布団は、見事に夜間の厳しい冷え込みから土の温度を守り抜いていた。
藁の隙間から力強く顔を出している大根やカブの葉は、寒さに負けるどころか、より一層その青々とした生命力を増しているように見える。
「霜にやられることもなく、とても順調に育っていますね。葉の厚みも増していますし、土の中で自ら凍らないようにと、しっかりと甘みを蓄えてくれているのでしょう」
カエラムが愛おしそうに大根の葉に触れ、穏やかな声で語りかける。
コルネリアもまた、小さな木の桶から手ですくった水を優しく土へと染み込ませながら深く頷いた。
「ええ。小さな種から、このように立派なお野菜へと成長していく過程を毎日見守ることができるなんて……土の恵みというものは、本当に不思議で、そして尊いものですわね」
二人で協力して土寄せを行い、菜園の手入れを終えようとした――まさにその時。
診療所に続く森の小道の方から、落ち葉を踏み砕く軽快な足音と共に、快活でよく通る二つの声が近づいてきた。
「カエラム先生! コルネリアさん、おはよう!」
「先生、朝早くからすまない! 邪魔させてもらうよ」
姿を現したのは、一週間前にこの診療所で治療を受けたばかりのグリンダと、タツィオだった。
彼らは別々にやって来たのではなく、連れ立って森の道を歩いてきた様子だった。
かつての凄惨な事故の記憶は微塵も感じさせず、二人の間には、互いを信頼し合う温かく打ち解けた空気が流れている。
「グリンダさん、タツィオ君。おはようございます。腕の具合はいかがですか?」
カエラムが立ち上がり、二人に柔らかな笑みを向ける。
グリンダは自身の右腕を勢いよく持ち上げ、痛む素振りも見せずに大きく回してみせた。
「もうすっかり平気! 先生が縫ってくれた傷跡も綺麗にくっついたし、牧場の仕事にも完全に戻れたわ。だからね、今日はタツィオと約束して、二人で一緒にお礼を届けに来たの」
グリンダはそう言うと、抱えていた麻の袋から大きな木製の容器を取り出し、誇らしげにコルネリアへと差し出した。
「約束通り、今朝一番に私が搾ったばかりの新鮮なミルクと、うちの牧場で一番出来の良いチーズよ! たっぷりあるから、二人で遠慮せずに使ってね」
「ありがとうございます……! まだ温かさが残っていて、ミルクの濃厚な香りがいたしますわ」
コルネリアが重みのある容器を受け取り、ペリドットの瞳を感謝に輝かせる。
続いて、タツィオが背負っていた籠を下ろし、分厚い布に包まれた巨大な塊をカエラムの前に置いた。
「俺からは、約束の燻製肉だ。森で一番脂の乗った大きな獲物を仕留めて、時間をかけてじっくりと香ばしく燻し上げた。火を通さなくてもそのまますぐに食べられるし、煮込み料理に入れれば極上の出汁が出る。俺の最高傑作だ」
タツィオが少し照れくさそうに鼻の頭を擦りながら告げると、カエラムは丸メガネの奥のアンバーの瞳を和らげた。
「タツィオ君が時間をかけて用意してくれたこの素晴らしい手仕事、ありがたく頂戴いたします。お二人とも、わざわざ足を運んでくださり本当にありがとうございました」
カエラムとコルネリアが揃って頭を下げると、グリンダとタツィオは顔を見合わせて嬉しそうに笑い合った。
「これだけ素晴らしいお礼をいただいたのですから、今日の夕食は最高のご馳走にしなければなりませんね。実は私たち、これから海へ行って、海の幸を釣り上げてくる予定なのです。いただいたミルクと燻製肉を合わせて、熱々のグラタンを作るつもりですの」
コルネリアが明かすと、グリンダはエメラルドの瞳を輝かせ、「それは絶対に美味しいわね! 私たちも負けないように働かなくちゃ!」と声を弾ませた。
二人の訪問者は再び連れ立って、元気な足取りで森の奥へと帰っていく。
その仲睦まじい背中を見送った後、カエラムとコルネリアは早速、海へ向かうための身支度を整えた。
以前ウラカから贈られた立派な海釣り用の竿を背負い、二人は森を抜けて南の海岸線へと向かう道を歩き出した。
少しの道程を経て、木々の隙間から急激に視界が開けた先。
そこには――どこまでも果てしなく続く広大な水面が広がっていた。
夏の強い日差しを反射して眩いほどに輝いていたあの時の海とは違う。
眼前に広がる秋の海は、まるで質の高い宝石であるラピスラズリのように、深みのある落ち着いた瑠璃色に染まっていた。
静かに打ち寄せる波の音は森の静寂とは違う一定の心地よい重低音を響かせ、吹き抜ける潮風は肌を刺すような明確な冷たさを孕んでいる。
「……夏とは全く異なる、とても静かで美しいお顔をしていますわね」
コルネリアが感嘆の息を漏らし、広大な水平線を見つめる。
カエラムは潮風から彼女を守るように風上に立ち、自身の大きな上着を彼女の華奢な肩へとそっと掛けた。
「ええ。この落ち着いた色合いこそが、秋の海が持つ豊かさの証です。さあ、岩場の方へ移動しましょう。あちらの方が水深があり、アオリイカが身を潜めているはずです」
二人は足元に気をつけながら、波が打ち寄せる岩場へと移動した。
カエラムの丁寧な指導のもと、コルネリアがウラカの釣り竿を両手でしっかりと握りしめる。
カエラムが疑似餌を仕掛けた糸を、海に向かって大きく振りかぶって投げ入れた。
滑車から糸が勢いよく引き出され、水面へと吸い込まれていく。
海風に吹かれながら、二人は並んで水面をじっと見つめた。
張り詰めた糸の先から伝わる、波の揺れとは異なる微かな生命の気配。
コルネリアが呼吸を止めて集中していると、突如として手元の竿が下に向かって強烈な力で引き込まれた。
「先生! 強い力が引いていますわ!」
コルネリアが悲鳴に近い声を上げ、海に引きずり込まれまいと足を踏ん張る。
カエラムは即座に彼女の背後に回り込み、彼女の小さな手を包み込むようにして竿の柄を力強く握りしめた。
「慌てないでください。竿のしなりを利用して、一定の力で巻き上げます……さあ、私に合わせて!」
背中から伝わるカエラムの体温と、耳元に響く頼もしい声。
コルネリアの心臓が甘く跳ね上がると同時に、カエラムの圧倒的な腕力が竿を支え、二人は息を完全に合わせて滑車を巻き上げていった。
やがて水面を割って姿を現したのは、透き通るような美しい身体を持ち、大きなヒレを動かして抵抗する立派なアオリイカであった。
「やりましたね、コルネリアさん。見事な大物です」
岩場に引き上げられたアオリイカを見下ろし、カエラムが彼女を背後から抱き寄せたまま甘い賞賛の言葉を囁く。
コルネリアは自身の腕で釣り上げた海の恵みに目を輝かせ、荒くなった呼吸を整えながら何度も頷いた。
「はい! 先生が支えてくださったおかげで、無事に引き上げることができましたわ」
――その後、二人は潮が引いて露わになった別の岩場へと移動した。
カエラムは滑りやすい岩肌に注意深く足を進めると、そこにびっしりと張り付いている武骨な殻の塊を見つけ出した。
「これが海のミルクと呼ばれる真牡蠣です。一見するとただの岩のようですが、この殻の中には驚くほど濃厚な旨味が詰まっているのですよ」
カエラムは医療用の小刀を使い、岩肌から殻を痛めないように手際よく牡蠣を剥がしていく。
彼の熟練の指先は硬い殻の隙間を的確に見極め、中身を一切傷つけることなく次々と収穫を重ねていった。
やがて、持参した蔓草の籠の中は、透き通るアオリイカと、たっぷりの真牡蠣という最高級の海の幸で重く満たされたのである。
目的の獲物をすべて手に入れた二人は、再び海岸の開けた場所へと戻ってきた。
冷たさを増してきた潮風の中、カエラムはコルネリアの肩に掛けた自身の上着の襟を直しながら、彼女の身体を自身の胸へと静かに引き寄せた。
「グリンダさんからいただいた新鮮なミルク。タツィオ君の香ばしい燻製肉。そして、あなたが釣り上げたアオリイカと真牡蠣。これらを一つの大鍋で煮込めば、それはきっと我々の身体と心を、これ以上ないほど芯から温めてくれますね」
彼の声が潮騒の音に混ざり合い、コルネリアの鼓膜を甘く震わせる。
彼女はカエラムの胸に背中を預けながら、満足感に満ちたため息を漏らして彼を見上げた。
「ええ……多くの方々の優しいお気持ちと、自然の恵みが詰まったお料理。今から作るのが楽しみで仕方がありませんの。早く診療所へ帰って、かまどに火を入れましょう、先生」
深く澄んだ瑠璃色の海が、秋の柔らかな日差しを受けて静かに広がっている。
二人は籠の重みと互いの手の温もりを確かめ合いながら、これから始まる調理の時間と、この上なく豊かな夕食の食卓への期待を極限まで膨らませ――。
多幸感に満ちた笑顔を交わしながら、心地よい潮風に見送られて森の診療所への帰路についた。




