68 あのような強い力でお魚が引くとは、想像もしておりませんでした……!
収穫祭の賑やかな余韻が静かに森の奥へと溶け込み、朝夕の冷え込みが一段と鋭さを増してきた季節。
木々の葉は完全に色を落とし始め、地面には分厚い落ち葉の絨毯が広がりつつあった。
澄み切った冷たい空気が、吐く息を微かな白い霧に変えていく。
そんな秋の深まりを感じる早朝。
カエラムとコルネリアは、診療所の裏庭に作った小さな菜園の前にしゃがみ込んでいた。
二人の手には、乾燥させて細かく切り揃えた藁がたっぷりと握られている。
柔らかな黒い土の畝には、以前蒔いた大根とカブの種から、可愛らしい緑色の双葉が力強く顔を出し始めていた。
奥の畝のほうれん草も、少しずつ葉の枚数を増やして順調な成長を見せている。
「ジェドさんが教えてくださった通り、芽の周りにしっかりと藁の布団を敷き詰めてあげましょう。これからの時期は、夜間に降りる冷たい霜が根菜の成長を妨げてしまいますからね」
カエラムが手慣れた様子で、双葉を傷つけないように慎重に藁を土の上に広げていく。
コルネリアも彼に倣い、愛情を込めるようにして小さな芽の周囲を温かな藁で覆い隠していった。
「本当に、ジェドさんには感謝しなければなりませんわ。土の上に藁を敷くことで、冷え込みから守られるだけでなく、お野菜が自ら凍らないようにと糖分を蓄えて甘くなるだなんて……自然の力と経験の知恵は、とても奥が深いです」
すべての畝に藁を敷き終え、土の表面が美しい黄金色に覆われたのを確認すると、二人は立ち上がって満足げに微笑み合った。
額に微かな汗を滲ませながらも、自分たちの手で小さな命を冬の寒さから守り抜く準備を整えられたことに、深い充足感が胸を満たしていく。
「これで冬の備えは万全ですね。さて、労働の後は、美味しい食事の相談をいたしましょうか。収穫祭でジェドさんからいただいた、あの立派なカボチャをそろそろ調理したいところですが」
カエラムが大きな水瓶から水を汲み、彼女の手を洗い流しながら尋ねる。
コルネリアは冷たい水で土を落としながら、嬉しそうに目を輝かせた。
「ええ、私もそう考えておりました。カボチャの強い甘みを活かして、濃厚で温かいミルクシチューを作りたいのですわ。ただ、せっかくの秋の恵みですから、お肉ではなく、秋の脂がたっぷりと乗ったお魚を合わせたいのですけれど……手に入りますでしょうか?」
彼女の願いを聞いたカエラムは、手を拭きながら少しだけ思案するように顎に手を当てた。
「脂の乗った魚ですか……それなら、少し歩いた先にある大きな渓流へ行きましょう。ちょうど今の時期は、海から川を上ってくる秋の大きなサケが狙えるはずです。カボチャと秋のサケのシチュー、想像しただけでも素晴らしい組み合わせですね」
「本当ですか! 私、渓流へお出かけするのは初めてですわ。すぐに準備をいたします」
コルネリアが弾んだ声で答えると、二人は足早に診療所の中へと戻った。
釣りの準備を始めるにあたり、コルネリアは居住区画の隅に大切に保管されていた、細長い布の包みを見つめた。
「先生、釣りに行くのでしたら、以前ウラカさんにいただいた、あの立派な釣り竿を持っていきましょうか? 海釣り用のものとおっしゃっていましたが、お魚を釣ることには変わりありませんし……」
彼女の提案に、カエラムは微笑みながら首を横に振った。
「お気持ちは嬉しいですが、あの海釣り用の竿は、波や潮風に負けないように長く、そして大掛かりに作られています。森の渓流は頭上や周囲に木々の枝が張り出している場所が多く、あの竿では振りかぶった際に引っかかってしまい、うまく扱えないのですよ。森の釣りには、森のやり方があります」
そう言ってカエラムが奥の倉庫から持ち出してきたのは、しなやかで真っ直ぐな竹を用いて作られた、非常に簡素でありながらも実用的な二本の釣り竿だった。
過去に治療のお礼として患者から譲り受けた品だが、生活能力が皆無であり、生の魚など調理したくもなかった彼にとっては無用の長物として、長らく倉庫の奥で埃を被っていた道具である。
「なるほど、場所に合わせてお道具も変えるのですね。倉庫にこのような釣り竿が眠っていたなんて、少し驚きましたわ」
準備を整えた二人は色づいた木々の間を抜けて、森の奥深くを流れる大きな渓流へと向かった。
到着した場所は、川幅が広く、流れが緩やかになっている開けたポイントだった。
透明度の高い水が丸い岩の間を縫うように流れ、周囲の木々の紅葉が水面に美しく反射している。
カエラムは手際よく仕掛けを準備し、コルネリアに竹竿を手渡した。
「浮きが水の中に深く沈み込んだら、魚が餌に食いついた証拠です。慌てずに、竿のしなりを利用して一気に引き上げてください」
並んで川岸の岩に腰を下ろし、二人は釣り糸を水面へと垂らした。
大自然の静寂の中、冷たい川を流れる水の音だけが心地よく響き渡っている。
コルネリアは、隣に座る彼の横顔をこっそりと盗み見た。
真剣な眼差しで水面を見つめるその姿は、手術台の前に立つ時のように冷静でありながら、どこか少年のように純粋な熱を帯びている。
しばらくの静かな時間が流れた後――。
突然、コルネリアの手元にある竹竿が下に向かって激しく引き込まれた。
「先生! 浮きが沈みましたわ! 強い力で引いています!」
コルネリアが驚きの声を上げ、両手で竿を握りしめて立ち上がる。
しかし、水中にいる相手は想像以上に大きく力が強かった。
華奢な彼女の力では、魚の引く力に負けて川の中へと引きずり込まれそうになってしまう。
「そのまま、力を抜かないで!」
カエラムが即座に自身の竿を置き、コルネリアの背後へと回り込んだ。
彼は彼女の背中を自身の広い胸でしっかりと支え、彼女の小さな手を覆うようにして、上から力強く竿の柄を握りしめた。
背中から伝わる彼の体温と、耳元で聞こえる低い声。
コルネリアの心臓が不規則な跳ね方をしたのも束の間――カエラムは彼女の手を導きながら、絶妙な力加減で魚の抵抗をいなし、そして一気に竿を引き上げた。
水面を割って宙に舞ったのは、銀色に輝く鱗を持ち、見事なまでに丸々と太った立派な秋のサケだった。
「やりましたね、コルネリアさん。あなたの見事な手柄ですよ」
川岸の草の上に横たわる巨大なサケを見下ろし、カエラムが彼女の背後から離れて優しく褒め称える。
コルネリアは荒くなった呼吸を整えながら、自身の釣り上げた秋の味覚と、先ほどまで彼に密着されていた背中の熱の余韻に、顔を真っ赤にして何度も頷いた。
「先生が助けてくださったおかげですわ。あのような強い力でお魚が引くとは、想像もしておりませんでした……!」
見事な成果を手にした二人は、夕暮れが迫る前に診療所へと帰還した。
調理台の上に置かれた巨大なサケを前に、カエラムは迷うことなく小刀を手にした。
「解体は私が担当します。あなたはカボチャの準備をお願いできますか」
「はい! 先生の素晴らしい包丁さばき、楽しみにしております」
カエラムは医療器具を扱うような極めて正確で無駄のない手つきで、硬いサケの鱗を落とし、身を綺麗な切り身へと捌いていく。
かつては生活能力が全くなかった彼が、今ではこのように見事な手際で魚を捌いている。
その成長の背景には、彼女との生活を守りたいという強い意志と深い愛情があることを、コルネリアは誰よりも理解していた。
カエラムが下処理を終えたサケの切り身を受け取り、コルネリアはシチュー作りに取り掛かった。
ジェドからいただいた立派なカボチャを大きめに切り分け、かまどの火にかけた大鍋で、森で採取した香りの良い茸とともにじっくりと炒めていく。
全体に火が通ったところで、少量の小麦粉とたっぷりのミルクを加え、とろみが出るまで煮込む。
そこへ、軽く表面を焼いて旨味を閉じ込めたサケの切り身を投入した。
やがて、診療所の中には、カボチャの甘い香りとミルクの濃厚な匂い、そしてサケから溶け出した極上の脂の芳香が混ざり合い、この上なく食欲をそそる温かな空気が満ち溢れた。
「先生、お夕食の準備が整いましたわ。秋のサケとカボチャのミルクシチューです」
円卓に運ばれた木製の深皿には、黄金色に染まった熱いシチューがたっぷりと注がれている。
向かい合って座り、二人は手を合わせてからスプーンを口に運んだ。
「……これは、想像を遥かに超える美味しさですね。カボチャの濃厚な甘みがシチュー全体に広がり、そこにサケの豊かな脂が完璧な調和をもたらしています」
カエラムが感嘆の息を漏らし、アンバーの瞳を驚きと喜びに大きくする。
コルネリアもまた、熱いシチューを味わいながら幸福感に満ちた笑顔を咲かせた。
「サケの身も、お口の中で柔らかく解れて本当に美味しいですわ。先生が綺麗に捌いてくださったおかげで、小骨も全く気になりません」
「あなたが釣り上げた魚ですからね。格別な味わいがするのも当然です」
カエラムの甘い言葉に、コルネリアは照れくさそうに視線を落とした。
冷え込みが厳しくなった外の空気とは対照的に、温かいシチューと互いの存在が、二人の身体と心を芯から優しく温めていく。
「ジェドさんの教えで菜園を守り、こうして自然の恵みを釣り上げて共に命をいただく。あなたとの生活は、本当に豊かで、毎日が新しい喜びに満ちています」
カエラムはシチューを飲み込み、穏やかな表情でコルネリアを真っ直ぐに見つめた。
その言葉は、彼の心からの本音であった。
過去の暗闇の中で孤独に生きていた頃には、決して知ることのなかった温かな日常の尊さ。
「私も、先生と過ごす毎日が宝物のように大切です。これから冬に向かって寒くなりますけれど、先生と一緒なら、少しも怖くありませんわ」
秋の夜長を彩る、熱々のシチューと優しい会話。
ランプの柔らかな灯りに照らされた診療所の中では、二人で作り上げる豊かな生活の喜びと、確かな愛の熱が、いつまでも静かに――そして、甘やかに流れ続けていた。




