65 大根に、カブ、そしてほうれん草……!
夏の焼け付くような猛烈な日差しが少しずつその切先を鈍らせ、見上げる空の青さがどこまでも高く、澄み切った深い色合いを帯び始めた季節。
森を吹き抜ける風には、草木の枯れゆく微かな匂いと間もなく訪れる秋の涼やかな気配がはっきりと混ざり始めていた。
穏やかな静寂に包まれていた昼下がりの診療所。
その分厚い木の扉が、遠慮がちに押し開かれた。
「カエラム先生、コルネリアのお嬢さん……お忙しいところ、申し訳ねえですだ」
顔を覗かせたのは、近隣の村で土地を耕している初老の農夫――イザークであった。
かつて赤い針虫に刺された時や、酷い腰の痛みで担ぎ込まれてきた時の切迫した様子とは全く異なり、今日の彼はどこかバツの悪そうな、ひどく照れ臭そうな表情を浮かべて自身の右手を左手で包み込むようにして隠し持っている。
「いらっしゃい、イザークさん。どうかされましたか? その右手、見せていただけますか」
円卓で薬草の調合をしていたカエラムが穏やかな声で彼を迎え入れ、窓際の明るい席へと誘導した。
イザークは「お恥ずかしい話なんですが」と顔の深い皺を寄せて苦笑し、包み込んでいた右手のひらをゆっくりと広げた。
分厚く硬い農夫の掌の中心には、黒く太い木の破片が皮膚の奥深くまで突き刺さっていた。
「秋の本格的な収穫期を前に、畑の古い木の柵を直しておりましたら、うっかり木材のささくれを強く握り込んっちまいましてね。自分で抜こうと針でほじくってみたんですが、かえって奥に押し込んじまったみたいで……これくらいで先生の手を煩わせるのは申し訳ねえと思ったんですが、痛くて鍬も握れねえものですから」
「とんでもない。農作業のすべてを支える、あなたの大切な手です。小さな棘だと侮って放置し、中で化膿してしまっては取り返しがつきません。すぐにいらしてくださって、本当に良かった」
カエラムはイザークの言葉を優しく遮り、丸メガネの奥のアンバーの瞳に真剣な光を宿して治療の準備に入った。
コルネリアもまたカエラムの言葉の意図を完全に汲み取り、すぐさま医療器具の準備に取り掛かる。
煮沸して完全に消毒された先端の極めて細い銀の器具と、傷口を拭うための清潔な布、そして痛みを和らげるための薄い薬草の液体を素早く円卓の上へと並べた。
「少しだけ皮膚の表面を広げますよ。痛みはほとんどありませんから、力を抜いていてください」
カエラムはイザークの分厚い掌を自身の左手でしっかりと固定すると、右手で銀の器具を握り、極めて繊細な動作で皮膚の隙間へと滑り込ませた。
イザーク自身が押し込んでしまった太い棘を、周囲の肉を一切傷つけることなく正確に捉え、流れるような滑らかな手つきでゆっくりと引き抜いていく。
コルネリアはカエラムの白く長い指先が、一切の淀みも震えもなく完璧な治療を行っていくその美しい過程を、静かな感嘆と共に傍で見つめていた。
「よし、完全に抜けました。小さな欠片も残っていません。あとは化膿止めの薬を塗っておきましょう」
カエラムが棘を銀の盆に置き、薬草の液体で傷口を拭き上げると、イザークは嘘のように痛みが引いた自身の掌を見つめ、深く長い安堵の息を吐き出した。
「ああ……全く痛みがねえです。いつも大げさな怪我で世話になっちまうですが、こういう小さな怪我でも、先生の腕はまるで魔法のようですだ。本当に、助かりました」
「今日は患部を清潔に保ち、力仕事はお休みしてくださいね」
カエラムが患部に清潔な布を巻いて固定し終えると、イザークは立ち上がり、足元に置いていた小さな木の箱を両手で持ち上げてコルネリアの前へと差し出した。
「これは、ほんのお礼ですだ」
コルネリアが箱を受け取って中を覗き込むと、そこには小さな布の袋に小分けにされた二種類の種と、土の入った小さな鉢に植えられた青々とした葉の苗が綺麗に並べられていた。
「大根とカブの種、それに、ほうれん草の苗ですだ。夏の終わりに土に下ろせば、間もなくやってくる冬の冷たい霜に当たって、驚くほど甘く、立派に育ちますだ。料理上手なコルネリアのお嬢さんなら、きっと美味え汁物にしてくれると思って、村から少しばかり持ってきたんですだ」
「大根に、カブ、そしてほうれん草……! 夏の終わりに植えるお野菜があるのですね。とても立派な種と苗ですわ。イザークさん、本当にありがとうございます」
コルネリアがペリドットの瞳をこれ以上ないほどにきらきらと輝かせて喜ぶと、イザークは満足そうに何度も頷き、軽い足取りで診療所を後にした。
イザークを見送った後、コルネリアは木の箱を大事そうに抱き抱え、中の苗をうっとりとした表情で見つめ続けた。
「ふふっ。冬の寒さで甘くなるお野菜……私、この子たちを裏庭で大切に育てて、先生に身体の芯から温まる美味しいスープをたくさん作って差し上げたいですわ」
彼女の口から漏れた、愛らしくも献身的な願い。
その言葉を聞いたカエラムは、丸メガネの位置を指先でそっと直し、真剣な表情で頷いた。
「……良いですね。大根もカブも、深く根を張る野菜です。今の裏庭の土のままでは固すぎますから、ふかふかの土に入れ替えて、あなた専用の立派な菜園を作ることにいたしましょう」
そう言うや否や、カエラムは普段身につけている白衣を脱ぎ捨て、居住区画の椅子へと無造作に掛けた。
さらに彼は首元のボタンを外し、シャツの袖を肘の上まで大胆に捲り上げ始めたのである。
「せ、先生……? お着替えなどされて、どうされたのですか?」
「土作りは重労働ですからね。私が裏庭の固い土をすべて掘り起こして、根菜が育つための畝を作ります」
コルネリアは、目の前の光景に思わず言葉を失った。
普段は分厚い医学書をめくり、極めて繊細な医療器具を扱うためのあの指先が、今は倉庫から持ち出した使い込まれた大きな鉄の鍬をしっかりと握りしめている。
名医としての彼が、他でもない自分の「美味しいスープを作りたい」というささやかな願いを叶えるためだけに、力仕事を買って出てくれているという事実。
高く振り上げられた鍬が、重い音を立てて大地に突き刺さる。
カエラムの広い肩幅に合わせたシャツの背中が力強く張り詰め、腕の筋肉が躍動するたびに、夏の間に固く締まっていた土が黒く湿った塊となって掘り起こされていく。
額に微かな汗を滲ませ、規則正しい呼吸と共に黙々と大地と格闘する彼の横顔。
知っているはずの頼もしい身体が、労働という全く別の熱を帯びて雄々しく躍動する姿は、これまでに彼女が見てきたどんな彼よりも、圧倒的で抗いがたい色気を放っていた。
(ああ……先生は、本当に……どうしてこんなにも、私の心を惹きつけてやまないのかしら)
顔を一気に朱色に染め上げ、微かな眩暈すら覚えながら見惚れているコルネリア。
彼女は自身の両頬を両手で押さえ、胸の奥で早鐘のように打ち鳴らされる心臓の音を必死に鎮めようとしながら、その頼もしい背中から一時も視線を外すことができなかった。
やがて、カエラムの力強い開墾作業によって、裏庭の一角に柔らかくほぐされた黒い土の真っ直ぐな畝が三本、見事に完成した。
彼が鍬を置き、手の甲で額の汗を静かに拭う。
その何気ない仕草一つにすら、労働を終えた大人の男としての深い魅力が漂っている。
「さあ、土の準備はできました。新しい命の寝床ですよ。ここに、イザークさんからいただいた大切な種と苗を植えていきましょう」
少し息を弾ませながら微笑むカエラムに促され、コルネリアも裏庭へと歩み出る。
掘り起こされたばかりの土からは、森の腐葉土の豊かな香りと、これから新しい命を育むための濃厚で力強い匂いが立ち昇っていた。
二人は並んで畝の前にしゃがみ込み、土の感触を素手で確かめ合う。
ひんやりと湿った黒い土は、カエラムの手によって驚くほど柔らかく、空気をたっぷりと含んでいた。
「まずは、この青々としたほうれん草の苗からですね。一番奥の畝に植えましょう」
コルネリアは小さな鉢から苗を優しく取り出し、傷つけないようにそっと土の窪みへと沈めた。
カエラムがその両脇から柔らかな土を寄せ、苗が風で倒れないように根元をしっかりと押さえる。
互いの手が触れ合うたびに、土越しに伝わる彼の体温がコルネリアの指先を熱くさせた。
成長して葉を大きく広げるための間隔を十分に空けながら、二人は呼吸を合わせて一つの苗を交互に植え替えていく。
続いて、手前の二本の畝である。
コルネリアが指先で等間隔に小さな窪みを作り、そこにカエラムが白いカブの種と、茶色い大根の種を数粒ずつ、祈りを込めるようにして落としていった。
「小さな種ですね。これが冬には、あんなにも大きくて甘い根菜に育つとは……生命の神秘を感じます」
カエラムの感嘆の呟きに、コルネリアも深く頷く。
最後に、二人は協力してたっぷりと清流の水を撒き終えた。
乾いていた土が水分を吸い込み、さらに色濃く変化していく。
――すべての農作業を終え、二人は裏庭の隅に置かれた水瓶へと向かった。
カエラムが柄杓で清らかな水をすくい、コルネリアの泥だらけの両手へと静かにかけてくれる。
冷たい水が土を綺麗に洗い流していくのを見届けた後、今度はコルネリアが柄杓を受け取り、彼の大きく逞しい手へと水をかけた。
鍬を力強く握りしめていたその掌がわずかに赤く染まっているのを見て、彼女は心配そうに見上げる。
「先生……お手伝いいただき、本当にありがとうございました。お手に、豆ができてしまっていませんか?」
覗き込むコルネリアに対し、カエラムは濡れた手で彼女の頬をそっと撫で、微かに笑みを作った。
「ええ、全く問題ありません。それよりも、あなたのお顔に可愛い泥の勲章がついていましたよ」
彼の冷たい指先が頬の汚れを優しく拭い去ってくれた瞬間、コルネリアは先ほどまでの雄々しい鍬さばきとのあまりのギャップに、胸の奥を激しく締め付けられた。
夕暮れが近づき、森の空が茜色に染まり始めていた。
二人は完成したばかりの小さな菜園の前に立ち、並んでその土を見下ろした。
「大根もカブも、秋の深まりと共に土の奥深くへ根を張るでしょう。この葉が大きく育つ頃、森は厳しい冬を迎えますね」
夏の終わりの涼やかな風が、作業で火照った二人の間を優しく吹き抜けていく。
「あなたが作ってくれるという、甘みが溶け込んだ温かな冬のスープ。その未来の約束を味わう日が、私は今から待ち遠しくてたまらないのですよ」
「はい……! 先生が毎日笑顔でお仕事に向かえるように、私、心も身体も芯から温まるスープをお作りいたしますわ」
イザークの思いがけない贈り物から始まった、ささやかな菜園作り。
豊かな土の匂いに包まれた裏庭で、二人の時間はこれから芽吹く命への期待と、共に歩んでいく少し先の未来への喜びに満たされながら、いつまでも穏やかに過ぎていった。




