64 すべての不運を幸運へと変えてくださるからですわ
夜の散歩から数日が経過し、森を通り抜ける風には秋の澄んだ冷涼さがはっきりと混ざり始めていた。
陽の光が柔らかく降り注ぐ昼下がり。
コルネリアは診療所の裏庭で、冬の保存に向けて薬草や香草の刈り込み作業に精を出していた。
使い慣れた小さな鋏を手に傷んだ葉を丁寧に取り除き、乾燥させるための束を作っていく。
穏やかな静寂の中、薬草の爽やかな香りが彼女の周囲を心地よく包み込んでいた。
すべての作業を終えようと、彼女が手元の籠を持ち上げようとした――その時。
背後から、突如として太陽の光が遮られ、彼女の周囲に巨大な影が落ちた。
分厚い雲でも流れてきたのだろうかと不思議に思い、コルネリアが振り返ろうとした瞬間――。
彼女の細い首筋に、生温かく湿った、信じられないほどに重い鼻息が吹きかかったのである。
限界まで見開かれた彼女のペリドットの瞳に映ったのは、診療所の軒先を塞いでしまうほどの圧倒的な巨体を持つ――一頭の牛だった。
黒と白の斑模様の毛並みを持つその巨大な獣は、コルネリアを見下ろすようにして立ち止まり、口をゆっくりと動かして何かを反芻している。
あまりの迫力と突然の遭遇に、コルネリアは完全に全身を硬直させ、籠を取り落としそうになりながら尻もちをつくようにして後ずさった。
「きゃっ……!」
声にならない恐怖が喉の奥で詰まり、コルネリアの口から短い悲鳴が漏れた。
そのかすかな異変の音を、室内にいたカエラムの耳は決して逃さなかった。
彼が読みかけていた分厚い医学書を円卓に放り出し、丸メガネの位置を直すことすら忘れて裏口の扉を勢いよく開け放つまで、数秒もかからなかった。
「コルネリアさん!」
飛び出してきたカエラムは、裏庭に佇む巨大な獣の姿を視界に捉えるや否や、全くためらうことなくコルネリアと牛の間に割って入り両腕を広げて彼女を完全に背中へと庇った。
大人の男であるカエラムから見ても、その牛の体躯は見上げるほどに大きく、もし暴れ出せば診療所の壁など容易に破壊してしまうほどの筋肉の塊だった。
「先生……っ、牛が……!」
「大丈夫です、私の後ろから決して離れないでください」
カエラムは彼女を落ち着かせながら、眼前の巨獣を極めて冷静に観察した。
牛の瞳に興奮や敵意の色は全くなく、ただのんびりと瞬きを繰り返している。
さらに、その太い首には立派な革の首輪が巻かれており、そこには何かの焼き印が押された木の札がぶら下がっていた。
「野生の獣ではありませんね。毛並みの手入れも行き届いていますし、近くの牧場から脱走してきたのかもしれません」
カエラムの推測通り、牛は二人に襲いかかる素振りを見せることなく、大きな顔をゆっくりと下げて、コルネリアが丹精を込めて育てていた香草の葉を大きな舌で舐め取ろうとし始めた。
「あっ……! いけません、それはお薬に使う大切な葉ですわ!」
「待ってください、無理に引き離すと驚かせてしまいます。こちらに気を引きましょう」
カエラムは素早く足元に生えていた甘みのある野草をたっぷりと引き抜き、牛の鼻先へと差し出した。
牛はカエラムの手から野草を嬉しそうに食み始め、その間にコルネリアは薬草の鉢を安全な場所へと避難させることに成功した。
二人がかりで野草を与え、巨大な珍客を宥めながら保護していると、森の奥の道から何やら慌ただしい足音と大きな声が近づいてきた。
「こらーっ、サンディー! ちょっと目を離した隙に、また柵を壊して抜け出すんだから!」
木々の間から飛び出してきたのは、快活に弾むチョコブラウンの髪に、エメラルドのように鮮やかで意志の強い瞳を輝かせた少女であった。
年齢はコルネリアと同じくらいであろうか。
動きやすい簡素な労働着を身に纏い、日焼けした肌から健康的な生命力が満ち溢れている。
少女は巨大な牛の姿を見つけると、全く怯むことなく駆け寄り、その太い首に両手で勢いよく抱きついた。
「ふたりとも、怪我してない!? ウチの牛が本当にごめんなさい!」
少女は牛の頭を軽く叩いて叱りつけると、カエラムとコルネリアに向かって元気よく頭を下げた。
「私はグリンダ! あの丘の向こうの牧場で働いてるの。この子はサンディーって言って、すっごく食いしん坊なんだ!」
グリンダの口調は牧場という過酷な自然の中で鍛え上げられた、若々しく飾り気のない陽気なものだった。
「サンディーは、とても大人しく野草を食べてくれていましたよ」
カエラムは姿勢を正し、彼女に向かって丁寧な挨拶を返した。
「ご挨拶が遅れました。私は医師のカエラム。そして彼女が、助手のコルネリアです。ここは森の診療所ですので……もし牧場の力仕事や、大きな動物の世話などで万が一お怪我をされた時は、いつでもこちらを頼ってくださいね」
カエラムが自身たちの素性を明かすと、グリンダはエメラルドの瞳をさらに大きく見開いて驚きの声を上げた。
「へえ! お医者様だったんだ! それはすっごく心強いや。牧場の仕事をしていると生傷が絶えないから、何かあったら絶対にここに来るね!」
グリンダは嬉しそうに笑うと、腰に提げていた麻袋の中から丸い木の箱を取り出して二人の前へと差し出した。
「あ、そうだ! これ、保護してくれたお礼! 私が今日のお昼に食べようと思って持ってきた、作りたてのチーズなの。ウチの牧場のチーズは、この辺りじゃ一番美味しいって評判なんだから、遠慮しないで食べて!」
「よろしいのですか? グリンダさんのお食事がなくなってしまいますわ」
「牧場に戻ればいくらでも食べられるから平気! じゃあ、またね! 行くよ、サンディー!」
グリンダは手慣れた動作でサンディーの首輪に綱を括り付けると、巨大な牛を巧みに誘導しながら、嵐のように賑やかな足音を立てて森の奥へと帰っていった。
静けさを取り戻した診療所の裏庭で、カエラムとコルネリアは顔を見合わせ、手元に残された丸い木の箱を見つめて同時に笑みをこぼした。
「本当に、嵐のように元気なお嬢さんでしたね」
「ええ。ですが、裏表のない、とても素敵な方でした。せっかくのご厚意ですから、今日の昼食はこのチーズをいただきましょうか」
二人は診療所の中へと戻り、早速かまどに火を入れた。
コルネリアが木の箱を開けると、中から純白の美しい円盤状のチーズが姿を現し、濃厚なミルクの香りが室内に広がった。
カエラムが自家製の硬いパンを厚めに切り分け、かまどの網の上に乗せて表面を軽く炙る。
コルネリアは新鮮なチーズを分厚く切り出し、熱を持ったパンの上に乗せた。
かまどの火の余熱によってチーズが輪郭を崩し、滑らかに溶け出してパンの隙間へと染み込んでいく。
さらに、夏の名残である赤いトマトの輪切りと、塩気のある薄切りの燻製肉を添えれば、牧場の恵みを余すところなく活かした贅沢な昼食の完成である。
円卓に向かい合って座り、二人は溶けたチーズが乗ったパンを口へと運んだ。
「……美味しいですわ! チーズが驚くほど濃厚で、新鮮な乳の甘みが口いっぱいに広がります」
コルネリアが感嘆の声を上げ、ペリドットの瞳を幸福感に輝かせる。
カエラムもまた、深く頷きながらその味わいを堪能していた。
「ええ。燻製肉の塩気と、トマトの酸味が、チーズのまろやかさを完璧に引き立てています。グリンダさんが自信を持ってお勧めしてくれただけのことはありますね」
思いがけない珍客の訪問によってもたらされた、極上の昼食。
カエラムは紅茶の入った器を手に取り、柔らかな眼差しでコルネリアを見つめた。
「不運な乱入者かと思って肝を冷やしましたが……あなたのその体質は、最近では災難よりも、美味しいものや新しい出会いばかりを引き寄せてくれるようですね」
カエラムの冗談めかした、しかし深い愛情のこもった言葉に、コルネリアの頬が微かに朱色に染まった。
丘で交わした未来への約束。
そして、彼がどれほど自分を大切に守ろうとしてくれているかが、今日の巨大な牛の前に立ち塞がったあの迷いのない背中からも、痛いほどに伝わってきていた。
「……それはきっと、先生がいつも私の傍で、すべての不運を幸運へと変えてくださるからですわ。先生がいらっしゃらなければ、私はただ尻もちをついて小さな悲鳴を上げているだけでしたもの」
コルネリアが微笑みを向けると、カエラムのアンバーの瞳が限界まで甘く溶けるように和らいだ。
「私の役割は、あなたをあらゆる危険から守り抜くことです。それが巨大な牛であれ、他のどのようなものであれ……あなたに指一本触れさせるつもりはありませんよ」
穏やかな昼下がりの光が差し込む診療所の中。
濃厚なチーズの香りと、温かい紅茶の湯気に包まれながら――。
賑やかな牧場の少女が運んできた小さな騒動は、二人の間に流れる甘く平和な日常の尊さをより一層深く、確かなものとして心に刻み込んでいった。




