63 本当はとても怖かったのです
深い藍色に染まり始めた夜の帳が、夏の終わりの森を静かに包み込んでいく。
木々の隙間から差し込む月光は、露を孕んだ木の葉に反射して足元を銀色の粒子でまばらに縁取っていた。
本日の診療のすべてを終え、かまどの火を落とした後の静寂の中、カエラムは手入れの行き届いた水筒と厚手の柔らかな毛布を腕に抱えて、コルネリアの前へと静かに立った。
「コルネリアさん。今夜は少し、空が澄みすぎていると思いませんか? もしよろしければ、このまま丘まで散歩にお連れしたいのですが」
その誘いには、先日彼女の心に小さな波風を立ててしまったことへの、彼なりの不器用な気遣いが込められていた。
コルネリアは彼のアンバーの瞳に宿る誠実な熱に触れ、胸の奥が温かな期待で満たされていくのを感じた。
二人は並んで診療所を後にした。
夜の森は昼間の活気とは異なり、呼吸する草木の気配と遠くで鳴く虫たちの規則正しい旋律に支配されている。
頂上まで続く緩やかな傾斜に差し掛かった――その時。
ここ最近凪のように穏やかだったコルネリアの不運体質が、まるでこの絶好の機会を狙い澄ましていたかのように極めて精巧な連鎖反応を誘発したのである。
きっかけは、彼女の靴先が草むらに隠れていた滑らかな粘土質の石をわずかに蹴り上げたことであった。
弾かれた石は斜面を軽快に転がり、その先に設置されていた古い木製の雨樋の支柱を絶妙な角度で叩いた。
支柱がわずかに傾いたことで雨樋に溜まっていた数日前の雨水が、まるで計算された噴水のように一方向へと溢れ出した。
その水が、近くの木の下で静かに眠っていた夜行性のルリヴィアの若鳥の翼を濡らす。
驚いた鳥が羽ばたいた衝撃で頭上の太い枝が大きくしなり、その反動がさらに上方の満開を迎えていたアストラフルールの群生地を激しく揺さぶったのである。
その瞬間――まるで天空の星々が地上へと零れ落ちたかのように、眩いばかりの発光を伴う大量の花粉が吹雪のように二人の頭上から降り注いだ。
「きゃっ……!」
「おっと……これは……」
暗闇の中、カエラムの広い肩と彼の丸メガネのレンズまでもが、幻想的な青白い光を放つ粉に隙間なく覆い尽くされた。
あまりにも鮮やかで――それでいて、あまりにも唐突な光の襲来に、カエラムは自身の掌を見つめ、その後、全身を青く光らせたまま硬直してしまった。
コルネリアは顔を真っ赤にし、自身の不運が引き起こしたこの奇妙な喜劇に、申し訳なさと可笑しさが同時に込み上げてくるのを堪えきれなかった。
「申し訳ございません、カエラム先生。せっかくのエスコートが、このような……」
彼女が懸命に彼の肩の光る粉を払おうと手を伸ばしたとき、カエラムの喉の奥から心地よい笑い声が漏れ出た。
「いいえ……やはり、あなたの傍にいると退屈という言葉を忘れてしまいますね。これほど贅沢な照明を用意されるとは、恐れ入りました」
カエラムは指先でメガネの縁を直し、残った光の粉をあえてそのままにして彼女へと優しく手を差し伸べた。
その余裕に満ちた仕草に、コルネリアもまたふわりとした安堵の笑みを漏らした。
やがて辿り着いた丘の頂上は、遮るもののない圧倒的な視界が開けていた。
黒いビロードに散りばめられたダイヤモンドのような星々が、今にも降ってきそうなほどの近さで瞬いている。
カエラムは草の上に布を敷くと、コルネリアを促して腰を下ろさせ、持参した毛布を広げて二人の肩をすっぽりと一つに包み込んだ。
毛布の中で互いの肩と肩がぴたりと密着する。
厚手の布を隔ててもなお、彼の高く規則正しい鼓動と、清潔な石鹸の香りが彼女の五感を甘く刺激した。
カエラムが水筒から温かい飲み物を器に注ぐ。
それは、蜂蜜と香辛料、そして隠し味に森の果実を少量加えた、特製のホットミルクだった。
立ち昇る湯気が、夜風で冷えた頬を優しく撫でる。
「……先生」
コルネリアは器を両手で包み込んだまま、星明かりの下で隣に座る彼の横顔を見つめた。
「先日、先生の過去のことを伺った時……私、本当はとても怖かったのです。先生のような素敵な方に、私の知らない輝かしい過去や、深く愛したどなたかがいたのではないかと想像して……私は、先生を困らせたいわけではないのに、自分の未熟さが露呈するようで、どうしようもなく不安になってしまうのです」
彼女の言葉は、初めて知る誰かを独占したいという情動への、戸惑いそのものであった。
カエラムは器を傍らに置くと、毛布の下で彼女の細い手を静かに探り当て、自身の大きな手で包み込むようにして握りしめた。
「不安になるのは、あなたがそれほどまでに私のことを大切に思ってくださっている証拠です。そしてそれは、私とて同じことなのですよ、コルネリアさん」
カエラムのアンバーの瞳が、星の光を反射して深い色味を帯びる。
「王都にいた頃の私は、他人の生死には敏感であっても、自身の心についてはひどく無頓着な人間でした。医学という論理の世界でしか呼吸をしていなかった私が、この森であなたと出会い、初めて言葉にできない感情という名の迷宮に迷い込んだのです。あなたが私の過去に誰かの影を探すように、私もまた、あなたの瞳の中に私以外の誰かが映ることを、恐ろしく思う夜があるのですよ」
常に冷静であったはずの彼の口から漏れた、あまりにも等身大の――そして、切実な本音。
その事実がコルネリアの胸の奥に、深い納得と、熱い充足感をもたらした。
「……先生も、私と同じように不安になることがあるのですか?」
「ええ。むしろ、私の方が重症かもしれません……だからこそ、約束させてください」
カエラムは繋いだ手に微かな力を込め、彼女の正面へと向き直った。
「私の過去に何があったとしても、それは今の私を形作るためのただの過程に過ぎません。今の私の心臓を動かし、未来を歩むための熱を与えてくれるのは、他でもない、目の前にいるあなただけです。私の未来という白紙のページは、すべてあなたに捧げたい」
それは、夜空のどの星よりも眩しく、力強い愛の誓いだった。
コルネリアは潤みを帯びたペリドットの瞳で彼を見つめ返し、幸福な重みに耐えるようにして深く頷いた。
カエラムがゆっくりと顔を近づけ、彼女の頬を指先で慈しむように撫でる。
コルネリアは、信頼の証としてそっと瞼を閉じ、彼から伝わってくる確かな熱を受け入れた。
星々の瞬きの下、冷え始めた夜風を毛布で遮りながら交わされる、どこまでも深く――甘やかな口づけ。
蜂蜜の柔らかな甘みと、夜の森の香りが、二人の吐息に溶け合っていく。
唇が触れ合うたびに、過去の不安も、未来への些細な懸念も、すべてが圧倒的な多幸感へと昇華されていった。
不運が引き起こした青い光の粒子が二人の衣服にわずかに残り、暗闇の中で幻想的な余韻を放っている。
寄り添い合う二人の影は、星降る丘の上でいつまでも一つに重なり続け、静寂に満ちた夜の底へと甘く深く沈み込んでいった。




