62 先生も、私が、初めてだったのですね
森の木々を揺らす風が、夏の終わりの熱気からほんのわずかに秋の涼やかな気配を纏い始めた頃。
南の海から訪れた凄腕の女漁師――モゼが診療所を去ってから数日が経過していたが、コルネリアの胸の奥底には未だに小さな波紋が広がり続けていた。
燃えるような赤い髪に、海の底を思わせる鋭く美しいサファイアの瞳。
モゼは、過酷な自然を相手に生き抜いてきた女性特有の、圧倒的な逞しさと自信に満ち溢れていた。
カエラムの過去の暗闇を知り、彼と対等に笑い合うことのできる、洗練された大人の女性。
それに比べて、自分はどうだろうか。
王都の伯爵家で不運体質に怯え、常に周囲の顔色を窺って生きてきただけの世間知らずな小娘に過ぎない。
カエラムに救い出され、彼から向けられる甘い情愛に溺れているだけなのではないか。
カエラムがどれほど自分を愛してくれているかは、言葉や行動、そしてあの熱を帯びた口づけを通して痛いほどに理解している。
しかし――恋という甘美な毒を知ってしまったがゆえの不安が、彼女の心を静かに侵食していた。
カエラムは王都で名の知れた、優秀な医師であった。
大人の男性として、過去にモゼのように美しく自立した女性と親しく交際していた時期があったのではないか。
コルネリアにとって、カエラムに向けるこの燃えるような感情は間違いなく初恋であったが、彼にとって自分は、これまで愛してきた数多くの女性たちの中の一人に過ぎないのではないか――。
一度思い始めると、その小さな不安は胸の中で際限なく膨らみ続けてしまう。
居住区画の円卓で、乾燥させた薬草を種類ごとに小瓶へと仕分ける作業をしていたコルネリアは、考え事に深く没頭するあまり完全に上の空になっていた。
「……コルネリアさん。その瓶は、発熱を抑える薬草ではなく、胃腸を整える薬草を入れるものです。混ざってしまっていますよ」
背後からかけられた静かな声に、コルネリアは弾かれたように肩を震わせ手元を見下ろした。
カエラムの指摘通り、彼女は全く違う種類の薬草を同じ小瓶の中に詰め込もうとしていた。
「あっ……! も、申し訳ございません。私としたことが、全く別のものを……」
「謝る必要はありません。ただ、ここ数日のあなたは、どうにも心ここにあらずといった様子ですね。少し、休憩にいたしましょう」
カエラムは彼女の手から薬草の束を優しく取り上げると、キッチンスペースへと向かった。
かまどでお湯を沸かし、戸棚から茶葉の入った缶を取り出す。
彼が用意してくれたのは、コルネリアが何よりも好んでいる芳醇な花の香りを持つ高級な紅茶であった。
温められたカップに琥珀色の液体が注がれ、湯気とともに華やかな香りが室内を満たしていく。
さらにカエラムは、先日マルタから差し入れでもらっていた、夏みかんのような爽やかな酸味を持つ大ぶりの柑橘類の果皮を練り込んで焼き上げた、手作りのマドレーヌを小皿に並べて円卓へと運んできた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。甘いものを食べれば、頭の疲れも少しは和らぐはずです」
「ありがとうございます、先生……」
コルネリアは申し訳なさそうに視線を伏せながら、紅茶の入ったカップを両手で包み込んだ。
一口飲むと、紅茶の深い渋みと華やかな香りが、こわばっていた心を優しく解きほぐしていく。
続けて、マドレーヌを口へ運ぶ。
たっぷりと使われたバターの濃厚なコクの中に、柑橘の爽やかな酸味と微かな苦味が絶妙な調和をもたらしており、心がふわりと浮き上がるような美味しさであった。
向かいの席に腰を下ろしたカエラムも、紅茶を静かに一口味わい、丸メガネの奥の瞳で彼女を真っ直ぐに見つめた。
「それで……あなたをこれほどまでに思い悩ませている原因は、何なのですか? モゼさんが訪ねてこられたあの日から、あなたは何かを私に問いたがっているように見えます」
カエラムの観察眼は、彼女の心の微かな揺れ動きすらも完璧に見抜いていた。
コルネリアはカップを持つ手に微かに力を込め、ペリドットの瞳を揺らした。
ここで聞いてしまえば、自分がいかに子供っぽく、見苦しい独占欲に駆られているかが露呈してしまう――。
しかし、彼がこれほどまでに優しく扉を開いてくれているのに、これ以上自身の心を偽り続けることはできなかった。
「……お恥ずかしいのですが。その、ずっと、気になっていたことがありまして」
コルネリアは意を決し、大きく息を吸い込んでから彼を見つめ返した。
「先生は、王都にいらした頃……その、過去に、深く愛した女性は、いらっしゃったのでしょうか?」
絞り出すようにして紡がれた、初めての恋心ゆえの問いかけ。
それを聞いた瞬間――カエラムは目を大きく見開き、彼女を見つめた。
そして一拍置いてから、彼は片手で口元を覆い、肩を微かに震わせて……堪えきれないように、低く心地よい笑い声を漏らし始めたのだ。
「先生……? あの、私、何かおかしなことを申しましたでしょうか?」
「……いえ。申し訳ありません。あなたがここ数日、これほどまでに深刻な顔をして悩んでいた理由が、私の過去の女性関係だったとは……全く予想もしていなかったもので」
カエラムは笑いを収めようと軽く咳払いをし、目元に彼女が愛おしくてたまらないという深い情愛の光を宿したまま、ゆっくりと首を横に振った。
「結論から申し上げますと、そのような女性は過去に一人も存在いたしません」
「え……? でも、先生は立派なお医者様で、モゼさんのような大人の女性とも親しくされていて……過去に一人や二人、忘れられないような素敵な女性がいらっしゃっても、全く不思議ではありませんわ」
信じられないといった様子のコルネリアに対し、カエラムは紅茶のカップを卓に置き、大真面目な声で自身の過去の真実を語り始めた。
「買い被りすぎですよ。王都にいた頃の私は、権力闘争や貴族のしがらみを心底嫌悪し、ただ寝る間も惜しんで医学の探求と手術に没頭するだけの、冷たく無愛想な仕事狂いの男でした。高位の貴族の令嬢からの夜会の誘いも、打算に満ちた縁談も、すべて突き返してきたのです。他人に対して、恋愛感情などというものを抱いたことすら、微塵もありませんでした」
カエラムの告白に、コルネリアは瞬きを忘れ、息を飲んで彼を見つめた。
「人を愛する喜びも、誰かを自分だけのものにしたいと願う醜い独占欲も。自身の理性が完全に焼き切れるほどの衝動も……私は、この森であなたに出会うまで、何一つ知らなかったのです」
カエラムのアンバーの瞳が、熱を帯びて彼女を絡め取る。
「私の冷え切った心を溶かし、これほどまでに胸を焦がす恋というものを教えてくれたのは……私の生涯において、コルネリアさん、ただ一人なのですよ」
それは、彼にとっても彼女への感情が、人生で初めて経験する初恋であるという――決定的な告白だった。
大人の余裕を持っているように見えた彼もまた、自分と同じように初めての感情に振り回され、独占欲を抱き恋に落ちていたのだ。
その事実がコルネリアの胸の奥にすとんと落ちた瞬間――数日間彼女を苦しめていた黒い不安の塊は、朝露のように跡形もなく溶けて消え去っていった。
代わりに押し寄せてきたのは、互いが互いの初めてを捧げた相手であるという、言葉では到底表現しきれないほどの圧倒的な歓喜だった。
「……先生も、私が、初めてだったのですね」
コルネリアのペリドットの瞳から、安堵の涙がひとしずく、頬を伝ってこぼれ落ちる。
カエラムは静かに立ち上がり、円卓を回って彼女の隣へと歩み寄った。
彼は大きな指先で彼女の涙を優しく拭い去ると、そのまま彼女の細い顎をすくい上げ、自身の顔を近づけた。
「ええ。そして、最後でもあります。もう、不安はありませんね?」
甘く低く囁かれた言葉の直後――彼の唇が、彼女の唇へと静かに重なり合った。
それは、不安をすべて拭い去るような、どこまでも優しい口づけであった。
コルネリアはゆっくりと目を閉じ、自身を包み込む彼の確かな腕の力と、唇に落ちる温もりを全身で受け止めた。
初めての恋がもたらす小さな痛みは、こうして彼からの真っ直ぐな愛情によって優しく癒され、二人の絆をより一層深く、強固なものへと変えていく。
夏の終わりの柔らかな陽光が差し込む診療所の中は、紅茶の香りと互いの甘やかな吐息に満たされながら、いつまでも幸福な静寂に包まれていた。




