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61 誰よりも愛しておりますわ

 木々の葉を揺らす風に、微かな涼しさが混ざり始めた夏の終わりの昼下がり。

 空はどこまでも高く澄み渡り、森の緑は少しずつその色を落ち着いた深みへと変えようとしていた。


 静かな午後を過ごしていた診療所の扉が、外側から静かに押し開かれた。

 現れたのは深い森には似つかわしくない、濃厚な潮の香りを纏った一人の女性だった。


 燃えるような赤い髪を頭の後ろで無造作かつ機能的に一つにまとめ上げ、日焼けした肌には健康的な艶がある。

 そして何より目を引くのは、海の底を思わせる鋭くも美しい、サファイアの瞳であった。


「ごめんください。カエラム先生、いらっしゃるかしら?」


 落ち着いた女性らしい柔らかな響きの中に、海の荒波を乗り越えてきた者特有の芯の強さを感じさせる声。

 円卓で薬の調合をしていたカエラムは、その声に顔を上げ、丸メガネの奥の瞳を驚きに見開いた。


「モゼさん、お久しぶりです。南の漁村から、わざわざ足を運んでくださったのですね」


 カエラムが立ち上がり、穏やかな笑みを向ける。


 彼女の名前はモゼ。

 森の南に位置する漁村で、男たちに混ざって海に出る凄腕の女漁師である。


 彼女はカエラムがこの森の診療所に移り住んで間もない頃、海が荒れた日に波に呑まれて溺れていたところを、通りかかった彼に決死の覚悟で引き上げられ一命を取り留めたという過去を持っていた。

 それ以来彼女は命の恩人である彼を慕い、定期的にこうして顔を見せに来ていたのである。


「ええ。夏の終わりに獲れる海の幸が、今年は特別に型が良くてね。先生にもぜひ味わっていただきたくて、持ってきたのよ」


 モゼは手にしていた大きな網の籠を円卓の上に置いた。

 中には、大人の拳よりも大きなサザエがいくつも転がり、その下には銀色の腹に鮮やかな縞模様が走る、丸々と太った見事なカツオの身が、血抜きなどの下処理を完璧に終えた状態で横たわっていた。


「見事なサザエですね。カツオも、これほど大きく脂が乗ったものは、内陸の市場では決して手に入りません」


「ふふっ、そうでしょう。私が見立てた一番の獲物だもの……あら?」


 カエラムと親しげに言葉を交わしていたモゼのサファイアの瞳が、ふと、彼の斜め後ろに控えていたコルネリアの姿を捉えた。

 そして、次にカエラムの顔を正面からまじまじと見つめ直し……モゼは、信じられないものを見るかのように絶句した。


「……先生。あなた、本当にあのカエラム先生かしら?」


「ええ、私ですが。何か顔にでもついていますか?」


 不思議そうに小首を傾げるカエラムに対し、モゼは感嘆の息を長く吐き出した。


「顔に何かがついているどころじゃないわ……昔のあなたは、いつも眉間に深い皺を寄せて、誰とも視線を合わせず、まるで自分自身の死に場所を探しているような、暗く冷たい目をしていたじゃない。私が海で溺れた時も、あなたは自分の命なんてどうでもいいというような恐ろしい顔で、荒れ狂う波の中に飛び込んできたのよ」


 モゼの語る過去の姿に、カエラムはわずかに目を伏せ、苦笑を漏らした。

 しかし、モゼの言葉は、隣で静かに話を聞いていたコルネリアの胸の奥にさざ波のような冷たいざわめきを生み出していた。


「それが今はどう? 随分と表情が柔らかくなって、目には優しい光が宿っているわ。昔の、笑い方すら忘れてしまったような不器用な先生の面影なんて、微塵もないじゃない」


 モゼはカエラムの肩を親しげに軽く叩き、女性らしい艶やかな微笑みを向けた。


 自分の知らない、絶望の中にいた過去のカエラム。

 そして、命の恩人という、彼とモゼの間にある強固な絆。


 コルネリアはペリドットの瞳をわずかに揺らし、自身の胸の奥で、これまで感じたことのない、チクリとした痛みを伴う感情――小さなヤキモチが膨らんでいくのを自覚した。


 彼を暗闇から救い出したのは自分であると信じていた。

 しかし、彼がこの森に来た当初の最も苦しい時期を知っているのは、目の前にいる美しく逞しい女性なのだ。


 コルネリアは普段の礼儀正しさを必死に保とうとしたが、無意識のうちにエプロンの裾を指先で強く握りしめ、少しだけ唇を尖らせてしまっていた。


「……モゼさん、ご紹介が遅れました。こちらは、私の診療所で助手をしてくれている、コルネリアさんです」


 カエラムの紹介を受け、コルネリアは慌てて姿勢を正し、淑女の礼をとった。


「お初にお目にかかります。コルネリアと申します。カエラム先生には、いつも大変お世話になっております」


「丁寧なご挨拶をありがとう。私はモゼ。先生の古い友人よ。なるほど、そういうことね」


 モゼの鋭いサファイアの瞳は、コルネリアの礼儀正しい態度の中に隠された微かな対抗心と、カエラムが彼女へ向ける視線の圧倒的な熱量の違いを、瞬時に見抜いていた。


「さあ、せっかくの海の恵みよ。鮮度が落ちないうちに、かまどで調理してしまいましょう。コルネリアちゃん、お台所をお借りしてもよろしくて?」


「は、はい。もちろんでございます」


 モゼの主導によって、三人での調理が始まった。

 コルネリアがかまどに火を入れ、熱を均等に行き渡らせる。

 カエラムは手慣れた様子で大きく切り分けられたカツオの柵を鉄串に刺し、かまどの強い直火へと近づけた。


 燃え上がる炎でカツオの表面だけを一気に炙り上げる。

 脂が火に落ちて煙が立ち昇り、香ばしい匂いが室内に充満する。

 外側にはしっかりと焼き目をつけながら、内側は新鮮な赤身を残した絶妙な火加減だった。


 モゼは大きなサザエをそのままかまどの直火の傍に置き、殻の中で水分が沸騰し始めたところで、東方伝来の醤油を数滴、殻の中へと垂らした。

 その瞬間、醤油の焦げる匂いと濃厚な磯の香りが爆発するように広がり、診療所の中を一気に海辺の空気へと変え去った。


 表面を香ばしく炙ったカツオを分厚く切り分け、刻んだ森の薬味をたっぷりと乗せたものと、焼き上がったサザエを円卓に並べ、三人で食卓を囲む。

 カツオの身は、炙られた表面の香ばしさと、内側の濃厚でねっとりとした赤身の旨味が見事な調和を生み出し、薬味の爽やかさが生魚特有の癖を完全に消し去っていた。


「熱いですよ、コルネリアさん。私が殻から身を外しましょう」


 カエラムが自然な動作で、最も熱を持っているサザエの殻を自身の布越しに掴み、器用に中身を取り出してコルネリアの小皿へと取り分けた。

 その一切の淀みない、彼女を最優先に労わる手つきを見て、モゼは堪えきれないように楽しげな笑い声を上げた。


「ふふふっ……本当に、人が変わったようね。先生のその明るい表情の理由は、隣にいらっしゃる可愛らしいお嬢ちゃんだったというわけね」


 モゼの直球の指摘に、コルネリアの顔が一気に朱色に染まる。

 カエラムもまた、照れ隠しのように丸メガネの位置を直し――しかし、否定することなく静かに微笑んだ。


「……その通りです。私が今、こうして人の心を取り戻して生きられているのは、すべて彼女のおかげですから」


「素敵じゃない。命の恩人が幸せそうにしている姿を見られて、私も本当に嬉しいわ」


 モゼは心からの祝福を込めた笑みを浮かべ、海の恵みを綺麗に平らげた。


 ――夕暮れが迫り、空が茜色に染まる頃。

 モゼは「今度は冬の魚を持ってくるわね」と言い残し、爽やかな潮風のような余韻とともに、漁村へと帰っていった。


 モゼを見送った後、診療所には再び二人きりの静かな時間が戻った。

 コルネリアは円卓の上を布で拭きながら、どこか心ここにあらずといった様子で、伏し目がちに手を動かしていた。


「……コルネリアさん」


 背後から近づいてきたカエラムが、彼女の手を優しく止め、その肩にそっと触れた。

 振り返った彼女のペリドットの瞳は、わずかに潤みを帯びている。


「何か、気に障ることがありましたか? モゼさんが帰られてから、少し元気がないようですが」


 カエラムの的確で優しい問いかけに、コルネリアは逃げることを諦め、小さく息を吐き出して自身の胸の内を正直に告白した。


「……申し訳ございません。少しだけ……羨ましかったのです。モゼさんが、私の知らない、過去の先生のことをとてもよくご存知だったから……先生の暗く冷たかった瞳のことも、私ではなく彼女が知っているのだと思うと……その、とてもお恥ずかしいのですが、胸の奥がちくちくとしてしまって」


 自身の醜い独占欲を恥じるようにうつむく彼女の姿は、カエラムの目には、どうしようもなく愛おしいものとして映っていた。

 彼は大きな両手で彼女の白い頬をそっと包み込み、ゆっくりと顔を上げさせた。


「謝る必要など、どこにもありません……私はむしろ、あなたにそんな思いをさせてしまったことを申し訳なく思っています」


 カエラムのアンバーの瞳が、彼女のすべてを慈しむように深く――そして、甘く和らぐ。


「私があなたに過去の姿を語らなかったのは、隠したかったからではありません。絶望の中で立ち止まり、誰のことも救えなかった不甲斐ない私の姿など、あなたに知ってほしくなかったからです……彼女が知っているのは、すでに死んでいたも同然の私です」


 カエラムの親指が、彼女の頬を優しく撫でる。


「ですが、今の私に生きる意味という確かな光を与え、共に未来を歩んでくれているのは、他でもないあなたなのですよ。私の心のすべては、あなただけのものです」


 彼からの真っ直ぐで揺るぎない愛情の言葉に、コルネリアの胸の奥で渦巻いていた小さなヤキモチは、あっという間に甘い幸福感へと溶けて消え去っていった。

 彼女は頬を包み込む彼の手の上に自身の手を重ね、とびきり愛らしい微笑みを返した。


「……はい、カエラム先生。私、先生の今のその優しい瞳を、誰よりも愛しておりますわ」


 夏の終わりの涼やかな風が、窓から入り込み、ランプの灯りを微かに揺らした。


 過去の記憶を運んできた潮風は去り、二人の間には互いの存在だけを確かめ合うような、どこまでも甘やかな夜の静寂だけが降り積もっていった。

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