6 もうここを去らなくてはいけないのですよね?
窓の外では、初夏の訪れを告げる雨が静かに降り続いていた。
この季節特有の湿り気を帯びた空気が森を包み込み、木々の葉をよりいっそう深い緑へと染め上げている。
診療所の屋根を叩く雨音はどこか規則正しく、室内に穏やかな静寂をもたらしていた。
かつては足の踏み場もないほどに医学書や薬草の屑が散乱し、埃が雪のように積もっていたこの場所も、今では見違えるほど整えられている。
棚の瓶は種類ごとに美しく並べられ、床の木目は磨き上げられて艶を放っていた。
窓辺には、コルネリアが雨の合間に摘んできた名もなき野花が活けられ、殺風景だった診療所に彩りを添えている。
コルネリアは、棚の整理を終えて自身の左腕をゆっくりと回してみた。
数ヶ月前には絶望的な音を立てて折れていたその腕は、今では痛みも消え、指先まで滑らかに動かすことができる。
カエラムの神業とも言えるほど正確な処置と、その後の献身的な治療のおかげだった。
「先生。見てください! もう、こんなにスムーズに動きます」
机に向かって新しい薬の配合を考えていたカエラムが、丸メガネの奥のアンバーの瞳をこちらへ向けた。
「おや、素晴らしいですね。可動域も完全に回復していますし、筋肉の衰えも最小限で済んだようです。あなたの回復力の賜物ですよ」
翡翠色の髪を揺らし、カエラムは柔らかな微笑を浮かべた。
その表情には安堵と喜びが滲んでいる。
「いいえ。すべては先生が助けてくださったからです。あの日、崖の下で倒れていた私を拾い、一度も見捨てることなく向き合ってくださいました。本当に、感謝しております」
コルネリアは深く頭を下げた。
言葉では尽くせないほどの恩義を感じていた。
けれど、身体が治るにつれて、彼女の心には言いようのない不安が芽生え始めていた。
しっかり者である彼女の理性が、ささやきかけるのだ。
――あなたの役割は、もう終わったのではないですか。
ここはあくまで診療所であり、自分は一時の患者に過ぎない。
身体が治った以上、いつまでもこの温かな場所に甘え続けていいはずがなかった。
「……先生。怪我が、完治したということは……私は、もうここを去らなくてはいけないのですよね?」
震える声で問いかけると、室内の空気が一瞬だけ凍りついたように静まり返った。
コルネリアは自身のペリドットの瞳を伏せ、膝の上で右手を強く握りしめた。
ゼサリア・オル王国から追放され、すべてを失った自分に、帰る場所などどこにもない。
けれど、それ以上に辛いのは、この翡翠色の髪をした不器用な恩人と離れることだった。
カエラムは手に持っていた筆を置き、ゆっくりと立ち上がった。
彼はコルネリアの傍まで歩み寄ると、椅子に座る彼女と同じ目線になるように少しだけ腰を落とした。
「コルネリアさん……実は、私はあなたの怪我が治ることを、少しだけ恐れていました」
その言葉の意外さに、コルネリアは驚いて顔を上げた。
「あなたがいない生活を、少し想像してみたのです……まず、私は間違いなく食事を摂ることを忘れるでしょう。いずれ飢え死にしかける自信があります。それにこの診療所も一週間で元の――あのゴミ溜めのような惨状に戻るに違いありません」
カエラムは隠し事のない、真っ直ぐな瞳で続けた。
「それだけではありません……私は、あなたという人が隣にいて、共に悩み、共に笑ってくれるこの日々に、救われていたのです。あなたがいない診療所など、私にとってはただの、冷たい石造りの箱に過ぎません」
カエラムの手が、そっとコルネリアの肩に置かれた。
その温もりが、彼女の不安を溶かしていく。
「コルネリアさん、もしよろしければ、これからも私の助手として、この場所に留まってはいただけませんか? 私は、君の力が必要なのです……いいえ。君に、いてほしいのです」
王都で聞いてきたどんな煌びやかな愛の言葉よりも、その不器用な願いはコルネリアの心に深く響いた。
自分が必要とされている。
誰かの助けになるだけでなく、その存在そのものを望まれている。
溢れ出しそうになる涙を堪え、コルネリアは満開のひまわりのような笑みを浮かべた。
「……はい! 喜んで。こちらこそ、未熟な助手ですが、精一杯先生を支えさせていただきます!」
二人の間に、これまでにない確かな絆が結ばれた。
しかし、その喜びを噛みしめる間もなく――雨音を切り裂くような激しい音が響いた。
診療所の重い扉が勢いよく叩かれる。
カエラムが急いで扉を開けると、そこにはずぶ濡れになった近隣の村の青年が、一人の老婦人を背負って立っていた。
「カエラム先生! 助けてくれ、マルタさんが……!」
背負われていたのは、この界隈で知らない者はいないほど慕われている老婦人――マルタだった。
彼女は自分の貧しい蓄えを削ってまで、近所の親を亡くした子供たちのために尽くすような、心優しい女性だ。
そんな彼女が今日は子供のために薬草を摘みに出かけ、激しい雨の中で足を滑らせて川に落ちてしまったのだという。
「すぐに中へ! コルネリアさん、着替えと清潔な毛布を! それから、お湯を大量に沸かしてください」
カエラムの声が、一瞬で医師の鋭さを帯びた。
コルネリアもまた、喜びを仕事への意欲に変え、素早く動き出した。
運び込まれたマルタの顔色は蒼白で、身体は氷のように冷え切っている。
それとは対照的に、呼吸は浅く、額からは異常なほどの熱が発せられていた。
深刻な低体温症と、それによる高熱を併発している。
カエラムがマルタの容体を確認し、心音を聴診している間に、コルネリアはこれまでの経験としっかり者としての知恵を働かせた。
まずは冷え切った身体を温めるため、薪を多めに焚いて部屋の温度を上げ、熱を逃がさないように手早く処置を施していく。
「先生、熱を下げるための煎じ薬の用意をします。マルタさんは胃腸が弱いとおっしゃっていたので、刺激を抑えた配合にしますね」
「助かります……コルネリアさん、彼女の心臓の負担を減らすための薬も、あちらの棚の三段目から持ってきてください」
カエラムが指示を出すよりも先に、コルネリアはすでにその棚の前へと立っていた。
不自由だったはずの左腕で的確に瓶を手に取り、右腕で素早く内容物を確認する。
カエラムが治療に専念できるよう、彼女は周囲の環境を完璧に整えていった。
濡れた衣服を新しいものに替え、冷えた指先を優しく揉み解して血流を促す。
カエラムが細い針をマルタの腕に通し、呼吸を整えるための処置を行う。
その隣でコルネリアは常に清潔な布を用意し、先生の額に滲む汗を拭い、次に必要となる薬草の粉末を正確に調合して差し出した。
「……素晴らしい連携です、コルネリアさん」
カエラムが小さく呟いた。
言葉通り、二人の動きには一切の無駄がなかった。
まるで幾年も共に修羅場を潜り抜けてきたかのような、阿吽の呼吸だった。
数時間に及ぶ懸命な処置の末、マルタの呼吸がようやく深くなり、顔にわずかな赤みが戻ってきた。
震えは止まり、彼女は静かな眠りの中へと落ちていった。
「……もう、大丈夫でしょう。山は越えました」
カエラムが安堵の息を吐きながら、椅子に深く腰を下ろした。
外の雨はいつの間にか小降りになり、雲の隙間から初夏の柔らかな月光が差し込み始めている。
コルネリアは、眠るマルタの枕元で、彼女の手を優しく握っていた。
マルタのような、自分のことを後回しにして誰かのために無理をしてしまう優しい人を、二人で救えたことが何よりも嬉しかった。
「私、先生の助手になれて、本当に良かったです」
コルネリアが振り返り、穏やかな瞳でカエラムを見つめた。
「私もですよ……君という最高の助手がいてくれれば、私はこれからも、より多くの命を救うことができる」
カエラムもまた、丸メガネを外して目を細めた。
そのアンバーの瞳には、尊敬と――そして、それ以上の温かな情愛が宿っているように見えた。
雨上がりの澄んだ空気の中、診療所には安らかな吐息だけが満ちている。
身に覚えのない罪で居場所を奪われた不運な令嬢は、今、この森の奥底で、誰にも奪われることのない本当の居場所をその手でしっかりと掴み取っていた。




