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5 危なっかしくて見ていられません!

 窓の外には、深い森の木々を白く縁取る月が昇っていた。


 診療所の中は、卓上のランプが放つ柔らかな橙色の光に包まれている。

 日中の喧騒が嘘のように静まり返り、時折、薪が爆ぜるかすかな音と、カエラムが医学書をめくる乾いた紙の音だけが室内に響いていた。


 コルネリアは唯一の寝台の上で上半身を起こし、手持ち無沙汰に自身の包帯を見つめていた。

 カエラムはといえばすぐ近くの木机に向かい、相変わらず寝癖のついた翡翠色の髪を指で弄りながら、難解そうな図表が並ぶ本を凝視している。


「あの、先生。一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


 コルネリアの控えめな問いかけに、カエラムは本の端からアンバーの瞳を覗かせた。


「ええ、何でしょう。痛みが増しましたか?」


「いえ、そうではありません……今日の昼間にお会いした、ニコ君のことです。彼は、ここからそう遠くない貧民区に住んでいるとおっしゃっていましたね」


「ああ、ニコですか。ええ、彼はあの一帯でも特に元気な子供ですよ」


「あのような境遇の子供は……やはり、あそこにはたくさんいらっしゃるのでしょうか」


 カエラムは一度本を閉じ、眼鏡を指で押し上げた。

 その表情に、いつものぼんやりとした様子はなかった。


「想像されているよりも、ずっと多いですよ。ゼサリア・オル王国の華やかな王都からほんの数里も離れれば、そこには国税の記録にすら載らない人々が溢れています。病を得ても薬を買えず、怪我をしても祈るしかない。ニコの家族も元々は小作農でしたが、不作が続いて土地を追われ、あそこに流れ着いたのだと聞いています」


 カエラムの淡々とした言葉は、コルネリアの胸に重く沈み込んだ。

 伯爵令嬢として、そして王太子の婚約者として、彼女はこれまで王国の繁栄を疑ったことなどなかった。

 王宮で開かれる夜会では、溢れんばかりの食料と酒が振る舞われ、貴族たちは最新の流行に身を包んで優雅に微笑み合っていた。


 その光の陰にこれほどまでの歪みが、救いようのない困窮が存在していたことに、彼女は今の今まで気づかずにいたのだ。


「私は……自分の無知が恥ずかしいです。しっかり者のつもりで、国を支える一助になりたいと考えておりましたが、結局は用意された綺麗な庭園の中しか見ていなかったのですね」


 沈痛な面持ちで俯くコルネリアに対し、カエラムは椅子をゆっくりと回して彼女の方を向いた。


「自分を責める必要はありませんよ。誰にだって、見える世界と見えない世界があります。それに、私はこうも考えています」


 カエラムは窓の外の暗闇に視線を投げ、どこか遠くを見るような目で言葉を継いだ。


「病や傷というのは、ひどく平等で無関心なものです。相手がどれほど高貴な血筋であろうと、莫大な富を築いた商人であろうと、あるいは明日をもしれぬ貧民であろうと、身体の仕組みは変わりません。病魔は家系図を読みませんし、出血は身分証を確認したりもしない。ただそこに、損なわれた命があるだけです」


 一度言葉を切ると、彼は真っ直ぐにコルネリアのペリドットの瞳を見つめた。


「だからこそ、私は、ただそこに苦しむ命があるなら手を貸す。それ以上に価値のある理由など、この世には存在しませんから。あなたがどれほど不運に見舞われようと、あるいは理不尽な罪を着せられようと、私の前ではただの、少しばかり手のかかる患者に過ぎないのです」


 静かな、しかし揺るぎない信念が込められた言葉だった。

 カエラムのその眼差しには、王都の貴族たちが向けてくるような、打算や蔑みの色は一切含まれていない。

 彼はただ、目の前の一人の人間を、一つの命として等しく受け止めているのだ。


 コルネリアは、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 身に覚えのない罪を突きつけられた時、誰もが彼女を冷笑し、否定した。

 けれど、この翡翠色の髪をした不思議な医師だけは、彼女の存在そのものを肯定してくれている。


「……ありがとうございます、先生。そのお言葉に、どれほど救われるか分かりません」


「おや、そんな大仰なことではありませんよ……そうだ、お礼に夜のお茶でも淹れましょうか。少し冷えてきましたし」


 感動的な余韻を自ら断ち切るように、カエラムはよろよろと立ち上がった。

 途端に先ほどまでの気高い雰囲気は消え去り、いつもの生活力に欠けたぼんやりとした背中に戻ってしまう。


「ええと、茶葉はどこでしたか。たしか、この薬草の瓶の裏に隠したような……」


 彼は棚をかき回し始めたが、探せば探すほど、整理されていたはずの瓶が倒れそうになり状況は悪化していく。


「先生。右側の、三段目の棚です。先日私が整理した場所に、茶葉の瓶を置きました」


「ああ、ありました。さすがですね……さて、次はお湯ですが……このやかんに水を入れて、火に……」


 おぼつかない足取りでかまどへ向かうカエラムを見て、コルネリアは居ても立ってもいられなくなった。


「先生、危なっかしくて見ていられません! 私がお手伝いしますから」


 コルネリアは慎重にベッドから足を下ろし、カエラムの元へ近寄ろうとした。


 ――その瞬間。

 なんの変哲もない、平らなはずの床の上に敷かれた絨毯の端が、ほんの数分の一寸ほど不自然にめくれ上がっていた。

 普段ならば見逃すような些細な隆起。

 しかし、不運体質を持つコルネリアの右足は、あろうことかその一点を完璧に捉えた。


「きゃっ!?」


 身体が大きく前へ傾く。

 反射的に手をつこうとしたが、左腕は固定されており、右腕一本では支えきれない。


 またしても訪れた不条理な不運――。

 地面に叩きつけられる覚悟をして目を閉じたコルネリアだったが、衝撃は訪れなかった。

 代わりに、少しだけ薬草の匂いが染み付いた、温かな感覚が全身を包み込んだ。


 カエラムがいつの間に移動したのか、彼女の身体を正面からしっかりと受け止めていたのだ。

 彼の白衣越しに伝わる体温と、意外にもしっかりとした胸の厚みに、コルネリアは息を呑んだ。


「怪我人が無茶をしてはいけませんよ……おっと」


 カエラムは彼女を支えながら、背後を振り返った。

 そこでは彼が火にかけようとしていたやかんが、危うく空焚きになりそうな角度でかまどの端に引っかかっていた。


「先生、まずはそのやかんを火から下ろしてくださいな……! 火加減が強すぎます」


「おや、本当だ。危うく診療所を火の海にするところでした」


 カエラムは慌ててやかんを直し、コルネリアをそっと椅子に座らせた。

 結局、お茶を淹れる作業もコルネリアの指示の下で行われることとなった。


 茶葉の量、お湯の温度、蒸らす時間。

 カエラムは不器用な手つきでそれらをこなし、ようやく二つの湯呑みに香りの良いお茶が注がれた。


「……ふふっ。先生が淹れると、せっかくの高級な茶葉も、どこか不思議な味がいたしますね」


「お恥ずかしい。これでも精一杯、手順通りにやったつもりなのですが」


 二人は湯気の上がる湯呑みを手に、小さく笑い合った。


 窓の外の冷たい月光とは対照的に、室内には確かな人の温もりと安らぎが満ちている。

 王都の伯爵邸で過ごした夜、コルネリアはいつも孤独だった。

 贅を尽くした寝室に一人横たわり、明日にはまた誰が自分を陥れようとするのか、レイナールド王子が今夜は誰と遊んでいるのか、そんな冷え切った思考を繰り返していた。


 けれど今は、隣に翡翠色の髪をした、ひどく不器用で――しかし、誰よりも誠実な医師がいる。

 それだけで、自分の欠けた部分が少しずつ柔らかな光で埋まっていくような心地がした。


「さて。コルネリアさんはもう寝台に戻らなくてはいけません」


「先生はどうされるのですか? 今日もまた、その机でお休みになるつもりでしょう?」


 コルネリアが尋ねると、カエラムは当然のように頷いた。


「ええ。患者に床で寝ろと言う医者は、この世のどこにもいませんよ。それに、この椅子は意外と座り心地が良いのです。少し本を読んでいれば、すぐに朝になります」


 その言葉が嘘ではないことは、彼が読みかけの医学書を大切そうに撫でたことで分かった。

 生活能力は確かに皆無だが、その無欲さと献身さは、時としてどんな貴族の礼節よりも美しくコルネリアの心に響く。


「……では、せめてこの毛布をお使いください。夜は冷え込みますから」


「ありがとうございます。おやすみなさい、コルネリアさん。良い夢を」


「おやすみなさい、カエラム先生」


 コルネリアは寝台に横たわり、カエラムが掛けてくれた薄い布団の重みを感じながら、ゆっくりと瞳を閉じた。

 窓の外で揺れる森のざわめきすら、今夜は心地よい子守唄のように聞こえる。


 不運と理不尽に満ちた過去から遠く離れ、彼女はこれまでの人生で最も穏やかな、深い眠りの中へと落ちていった。

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