59 ご自身のお身体を、どうか一番大切になさってください
夏の強い日差しが少しだけ和らぎ、森の木々が落とす影がゆっくりと長く伸び始めた午後のこと。
静寂に包まれていた診療所の分厚い木の扉が、乱暴なまでに激しく押し開かれた。
「先生! カエラム先生! 助けて!」
悲痛な叫び声と共に飛び込んできたのは、貧民区に住む少年――ニコであった。
彼の空色の瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れ出し、日焼けした頬を無残に濡らしている。
そのすぐ後ろから、近隣に住む老婦人であるマルタが息を切らしながら一台の木製の荷車を引いて診療所の中へと入ってきた。
荷車の上には顔面を蒼白にして完全に意識を失っている、やせ細った女性が横たえられている。
ニコの母親――トリナだった。
さらにその後方にはニコの親友であるラケルと、最近マルタに引き取られたばかりの少女ルーシーが、極度の不安に顔を歪ませながらぴったりと寄り添っていた。
「ニコ君、落ち着いて。すぐにこちらへ」
カエラムは即座に立ち上がり、マルタと協力してニコの母親を窓際の寝台へと運び込んだ。
コルネリアもすぐさま診察に必要な器具を用意し、カエラムの傍へと控える。
カエラムはトリナの手首に指を当てて脈を測るだけでなく、眼瞼の裏の色を見て貧血の度合いを確認し、皮膚の乾燥具合から水分の不足を測り、呼吸のわずかな乱れすらも逃さずに極めて冷静に観察していった。
「……大丈夫です、命に別状はありません。極度の過労と、慢性的な栄養失調によって身体が限界を迎え、強制的に意識を手放したのでしょう。まずは絶対的な安静が必要です」
カエラムの的確な診断を聞き、マルタが重いため息を吐き出した。
「やっぱりね……この子の旦那、つまりニコの父親は、出稼ぎのために遠方の建築現場へ行っていて、もう半年以上も家に帰ってこられないんだ。ニコに少しでもひもじい思いをさせまいと、トリナさんは昼間の他人の家の洗濯の労働に加えて、夜も寝る間を惜しんでわずかな蝋燭の灯りを頼りに針仕事の内職を続けていたのさ。それに加えて、最近は食事の量も極端に減らして、自分の分までニコに食べさせていたんだろうね」
マルタの言葉に、寝台の傍でトリナの手を握りしめていたニコの肩が大きく跳ねた。
「俺……俺のせいだ……っ。俺がこの間、市場で売っていた甘いお菓子をずっと見てたから……」
ニコはトリナの冷え切った手を自身の両手で包み込み、顔を押し付けて嗚咽を漏らし始めた。
「俺、お菓子なんていらないよ……! 毎日少しのご飯でも、全然平気なのに……! お母さんがいなくなっちゃう方が、ずっと、ずっと嫌だ……!」
ニコの魂からの叫びと、彼を想うがゆえに倒れてしまったトリナの深い愛情。
その痛ましいほどの親子の絆を目の当たりにし、ラケルは亜麻色の髪を揺らして自身の目元を腕で擦りながら、空いている手でニコの背中を優しくさすっていた。
ルーシーもまた、ルビーの瞳にいっぱいの涙を溜めて必死に瞬きを繰り返し、「ニコのお母さん、絶対に死なないもん!」と震える声で必死に励ましている。
ニコの悲痛な涙を見て、コルネリアは自身の胸の奥が締め付けられるような痛みを感じていた。
(過労と栄養失調……今の弱り切った胃腸には、強い薬草よりも、ゆっくりと身体の芯から温め、優しく栄養を補給できるものが必要ですわ)
コルネリアはカエラムと視線を交わし、彼が静かに頷いたのを確認すると、足早にキッチンスペースへと向かった。
かまどに新しい薪をくべ、火力を丁寧に調整する。
彼女が手にしたのは、以前マルタが持ってきてくれた夏の太陽の恵みをいっぱいに受けた真っ赤に熟したトマトと、栄養価の高い新鮮な卵だった。
まずはトマトに熱湯をくぐらせ、丁寧に皮を剥き取る。
それを細かく刻み、少量の油を引いた鉄鍋でゆっくりと、果肉の形が完全に崩れて液状になるまで時間をかけて煮込んでいく。
トマトの爽やかな酸味と甘みが凝縮された赤い汁に、清流の水を足して引き伸ばし、味付けは弱った身体に負担をかけないよう、ごくわずかな塩のみにとどめた。
そこへよく溶きほぐした黄金色の卵を、細く糸を引くようにして鍋の周囲から静かに流し入れる。
かまどの熱で卵が花が咲くように柔らかく広がり、赤いトマトの汁と美しい対比を描き出した。
一切の不純物を含まない、消化に極めて優しく、生命力を補うためのトマトと卵のあたたかいスープの完成である。
木製の器にたっぷりとスープを注ぎ、コルネリアが寝台の傍へと戻ってきた頃――。
カエラムの適切な処置と安静によって、トリナがゆっくりと重い瞼を開いた。
「……あ、れ……? 私、どうして……」
「お母さんっ!!」
トリナが目覚めた瞬間、ニコは堪えきれずに彼女の胸へと顔を埋め、再び大粒の涙をこぼして泣きじゃくった。
「ごめんなさい、お母さん……俺のために、無理して働いて……倒れさせちゃって……ごめんなさいっ……!」
トリナはまだ焦点の定まらない瞳を瞬かせ、やがて自身の胸で泣く息子の背中を、震える弱々しい手でそっと撫でた。
「ごめんね、ニコ……あなたが、いつもお腹を空かせているから……少しでも、美味しいものを食べさせてやりたくて……」
「俺、お腹いっぱいにならなくてもいい! お母さんが元気で一緒にいてくれる方が、何百倍もいいんだよ!」
ニコの力強い言葉に、トリナの瞳からも安堵と申し訳なさが入り混じった涙がひとしずく、頬を伝って零れ落ちた。
「……ニコ君のおっしゃる通りですよ。ご自身のお身体を、どうか一番大切になさってください」
コルネリアは静かに寝台の傍へと歩み寄り、湯気を立てる木製の器を両手で差し出した。
「今は胃腸がひどく弱っていらっしゃいます。お薬の前に、こちらのスープを召し上がってくださいな。お野菜と卵を、形がなくなるまで柔らかく煮込んだものです」
トリナは身体を起こし、カエラムに背中を支えられながらコルネリアから器を受け取った。
木の匙でスープをすくい、ゆっくりと口へと運ぶ。
その瞬間、トリナの疲労しきった蒼白な顔に、はっきりとした驚きの色と微かな血の気が浮かんだ。
トマトのまろやかな酸味が、何も受け付けなくなっていたはずの胃腸を優しく刺激し、柔らかく広がる卵の自然な甘みが栄養を渇望していた細胞の隅々へと染み渡っていく。
冷え切っていた身体の芯から、じんわりと確かな熱が生み出されていくのが分かった。
――それはただの食事ではなく、料理をした者の深い慈愛と祈りが込められた、命を繋ぐためのあたたかな雫だった。
「……こんなに、美味しくてあたたかいご飯……初めてです……」
トリナは器を両手で包み込み、こぼれる涙を拭おうともせず、何度も何度もスープを口へと運んだ。
空になっていく器を見つめながら、ニコは安堵の表情を浮かべ、傍で見守っていたラケルとルーシーに向かって満面の笑みを向けた。
「よかったあ……! ルーシー、ラケル、心配かけてごめんな!」
ニコの言葉に、ラケルは柔らかなアメジストの瞳を和らげて微笑み、ルーシーもまた、意志の強いルビーの瞳を輝かせて大きく頷いた。
「僕たち、ずっと友達だもん。ニコが泣いてたら、僕たちも悲しいよ。ニコのお母さんが元気になって、本当に良かった」
「あたしも、すっごく心配したんだからね! でも、先生とお姉ちゃんがいれば絶対に大丈夫だって信じてたわ……あたしのお父さんとお母さんはもういないけど、ニコにはお母さんがいるんだから、もっと甘えていいんだよ!」
ルーシーの真っ直ぐで力強い言葉に、ニコは涙と鼻水を袖で乱暴に拭い、力強く頷いた。
三人の子供たちが手を取り合い、心の底から喜び合う光景。
そして、空になった器を抱えて何度も礼を言うトリナの姿を、カエラムとコルネリアは少し離れた場所から並んで見守っていた。
「……あなたの作る料理は、本当に人の心を救いますね」
カエラムが丸メガネの奥のアンバーの瞳を深く和らげ、隣に立つコルネリアを見下ろして低く囁いた。
「いいえ。私はただ、かまどで少しお料理をしただけですわ。命を繋ぎ止めたのは、先生の確かな腕と……そして何より、ニコ君がお母様を想う、強い気持ちのおかげです」
コルネリアはペリドットの瞳に優しい光を宿し、あたたかな笑顔の連鎖が広がる寝台の方角を見つめ返した。
過酷な生活環境にあっても、彼らは決して一人ではない。
互いを想い合い、手を差し伸べることでいかなる困難も乗り越えていけるのだ。
窓の外では、夏の西日が空を鮮やかな茜色へと染め上げ、森の木々を鮮やかに輝かせている。
親子を繋ぐあたたかい絆と、トマトと卵の優しいスープの余韻――。
診療所の中は、夏の終わりの柔らかな夕暮れの光に優しく包まれながら、どこまでも穏やかで、幸福な温もりに満たされていった。




