58 眠る前に、もう一度だけ……いいですか?
夜空を彩った巨大な光の華と、大気を震わせた轟音の記憶が、まだ身体の芯にじわりと残っている。
祭りの喧騒から離れ、暗く静かな森の小道へと足を踏み入れた二人の間には、これまでとは全く異なる甘く濃密な空気が流れていた。
行きとは違い、帰り道の二人の手は指と指を深く絡め合うような形でしっかりと繋がれていた。
カエラムの大きく骨ばった手から伝わってくる、高く規則正しい体温。
それがコルネリアの全身を駆け巡り、彼女の思考を心地よく麻痺させている。
丘の上で交わされた、初めての口づけ。
唇に触れたあの柔らかな感触と、息が詰まるほどの熱情が脳裏に蘇るたび、二人の足取りはまるで雲の上を歩いているかのようにふわふわと宙に浮いているかのような錯覚に陥っていた。
言葉を交わすことすら惜しいような、満ち足りた夢見心地の沈黙。
繋いだ手を一度も離すことなく、二人は住み慣れた診療所の分厚い木の扉をくぐった。
ランプに柔らかなオレンジ色の灯りを灯す。
非日常の象徴であり、彼らの距離を決定的に近づけた異国の装束――浴衣から、いつもの着慣れた室内着へとそれぞれ着替えを済ませた二人。
居住区画の円卓へと戻ってきた彼らは、衣服こそ日常のものへと戻っていたが、その身に纏っている甘やかな空気の魔法は全く解けていなかった。
ふとした瞬間に、視線が交差する。
その度にお互いの唇の確かな熱を思い出してしまい、コルネリアは恥ずかしさに耐えきれず長い睫毛をふわりと伏せ、カエラムもまた、丸メガネの奥のアンバーの瞳をひどく優しく和らげて、どうしようもなく甘く微笑み合ってしまうのだった。
時間はすでに夜も深く、本来ならばそれぞれの寝台へ向かうべき刻限であったが、祭りの熱気と胸の昂ぶりのせいか二人の目は冴えきっていた。
「少し遅い時間になってしまいましたが、夕食にいたしましょうか」
カエラムの穏やかな提案に、コルネリアも嬉しそうにこくりと頷く。
祭りの帰りがけに露店で農家から分けてもらった、色鮮やかな夏野菜が籠の中にたっぷりと入っていた。
艶やかな紫色の皮を持った瑞々しいナス。
緑色が鮮やかで水分の多いズッキーニ。
そして、爽やかな苦味を持つ肉厚なピーマン。
それに加えて、氷室で保管しておいた厚切りの豚肉を使うことにした。
コルネリアがかまどに新しい薪をくべ、厚い鉄板をしっかりと熱していく。
カエラムが手際よく野菜を大きめの輪切りにし、分厚い肉と共に熱された鉄板の上へと並べた。
鉄板から肉の脂が弾ける小気味良い音が立ち上がり、肉の濃厚な旨味と、夏野菜の青々とした香りが混ざり合って、静かな診療所の中に食欲を強く刺激する匂いが充満していく。
味付けは、東方伝来の醤油と少量の塩、そして香り付けの香草のみという極めて簡素なものであった。
しかし、直火の熱でじっくりと焼き上げられ、表面に香ばしい焦げ目のついたそれは、素材の持つ本来の生命力を引き出すには十分すぎる、見事なご馳走だった。
こんがりと焼き上がった野菜と肉を大皿に盛り付け、二人は円卓で向かい合った。
「いただきます」
コルネリアが小さく切り分けたナスを口に運ぶ。
かまどの熱でとろけるように柔らかくなった果肉から、熱々の水分と自然な甘みがじんわりと溢れ出した。
ズッキーニの心地よい歯ごたえと、ピーマンの微かな苦味が、肉の脂の重さを完璧に中和してくれる。
「……とても美味しいですね。素材の味が力強く生きています」
「ええ、本当に。お祭りの露店のお野菜には、夏の太陽の恵みがたっぷりと詰まっていますわ」
美味しい食事を共有する、何気ない日常の風景。
しかし、今日という特別な日を経て、そのすべてが宝石のような輝きを放っているように感じられた。
――食事が終わり、温かい薬草茶が入った湯呑みを両手で包み込みながら、コルネリアは少しだけ自身の白い頬を染め上げた。
しかし、彼女は決して視線を逸らすことなく、真っ直ぐなペリドットの瞳で、向かいに座るカエラムを見つめた。
「……カエラム先生」
「はい、何でしょう」
「今日のこと……夜空に咲いた美しい花火も、先生の大きな手の温もりも、そして……先生がくださったあの口づけも。私、この先の人生で、一生忘れませんわ」
彼女の魂の底から紡がれた、純粋で真っ直ぐな愛情の告白。
その言葉を受け取ったカエラムは瞳をこの上なく深く和らげ、彼女の言葉を一つ残らず大切に掬い上げるようにして静かに頷いた。
「……私もです、コルネリアさん。あなたのあの美しい浴衣姿も、花火の光に照らされた輝くような横顔も。私のこれまでの人生において、最も美しく、決して忘れられない、特別な夜になりました」
食後の片付けを終え、いよいよランプの火を落として就寝の準備にとりかかる時間となった。
いつもであれば、コルネリアは「おやすみなさいませ」と礼儀正しく挨拶をし、同じ部屋の少し離れた場所にある自身の寝台へと向かうはずであった。
しかし今夜の彼女は、どうにもカエラムから離れがたい様子を見せていた。
カエラムが翌日の薬の準備のために棚へ向かえば、彼の背中のすぐ後ろを、まるで親鳥を追う雛鳥のようについて歩く。
彼が振り返ると、彼女は無意識のうちに彼の衣服の袖口を小さな指できゅっと摘まみ、肩が触れ合うほどの至近距離にすり寄ってくるのである。
それは、先ほどの口づけによって、彼からの絶対的な愛情と庇護を魂の底から実感した証であった。
彼女の心の中に長年巣食っていた、不運体質である自分が傍にいてはいけないのではないかという遠慮の壁が、完全に溶け去ったのである。
自身に向けられる、無自覚でとびきり愛らしい、甘えん坊な仕草の数々――。
その破壊的な可愛らしさに、カエラムは自身の理性が砂の城のように脆く崩れていくのを感じていた。
やがて、居住区画の奥。
同じ部屋の中に並ぶ、それぞれの寝台の前へと辿り着いた。
「……それでは、おやすみなさい、コルネリアさん」
カエラムが自身の寝台の脇に立ち、努めて平穏な声を取り繕って告げた。
しかし、コルネリアはすぐには自身の寝台へと向かわず、名残惜しそうにうつむいたまま、彼の袖を握る指先にほんの少しだけ力を込めた。
そして彼女はゆっくりと顔を上げ、とろんと潤んだ甘い熱を帯びたペリドットの瞳で彼を真っ直ぐに見上げた。
「……先生」
彼女の小さな唇が、微かに震えながら開かれる。
「眠る前に、もう一度だけ……いいですか?」
それは大好きな人への、飾らないおやすみの口づけのおねだりだった。
その言葉を聞いた瞬間、カエラムの中でどうにか持ち堪えていた最後の理性の糸があっけなく焼き切れた。
彼は大きく息を吸い込むと、彼女の腰に腕を回して自身の胸元へと強く引き寄せ、彼女の華奢な背中を大きな手でしっかりと包み込んだ。
「……あなたという人は、本当に」
掠れた声で低く囁くと同時に、カエラムの唇が彼女の柔らかな唇を再び深く塞いだ。
丘の上での口づけよりもさらに熱を帯びた、彼女の甘えに応えるような、どこまでも甘やかな熱の交わり。
カエラムの指先が彼女の艶やかなホワイトブロンドの髪に絡み、彼女もまた、背伸びをするようにして彼の首に腕を回した。
二人の影がランプの光に照らされて一つに重なり合う。
静寂に包まれた夏の夜の診療所は、これ以上ないほどに幸福で、甘い微睡みの余韻の底へとゆっくりと溶けていった。




