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57 ……なんて、美しいのでしょう

 深い森が夏の強烈な熱気をたっぷりと吸い込み、夕暮れ時を迎えてもなおしっとりとした重みのある空気が周囲を包み込んでいた。


 本日の業務を終え、カエラムが火の落ちたかまどの手入れをしていた時のこと。

 診療所の分厚い木の扉が、外側から力強く押し開かれた。


「カエラム先生、嬢ちゃん! 今日はとびきりの掘り出し物を持ってきたよ」


 日焼けした肌に豪快な笑みを浮かべ、入り口に立っていたのは行商人のウラカだった。

 以前の脚の怪我もすっかり良くなったようで、その足取りは力強く、背中には相変わらず自身の背丈ほどもある巨大な荷袋を背負っている。


「ウラカさん。本日はどのようなご用件でしょうか?」


「実は先日、極東から来た商隊と珍しい取引をしてね。見た瞬間に、これはあんたたち二人にこそ相応しいと思って、日頃の治療の礼とは別に、私からの贈り物として持ってきたのさ」


 ウラカは荷袋を下ろすと、丁寧に包まれた二つの布を取り出し円卓の上へと広げた。

 そこから姿を現したのは、この大陸では滅多にお目にかかることのない、東方の伝統的な装束であった。


「これは浴衣という、東の国の者が夏の夜に纏う特別な服だよ。風通しが良くて、涼しいんだ。今夜、森を抜けた先にある大きな村で、夏の終わりを祝う花火大会があるのを知っているかい? ちょうど良い機会だ。この装束を纏って、二人で出かけてきな」


 カエラムのために用意されたのは、深い藍色の地に控えめな細い縦縞が入った落ち着いた意匠のもの。

 そしてコルネリアへ贈られたのは、淡い水色の地に白く小ぶりな撫子の花が散りばめられた、どこまでも涼やかで上品なものだった。


「たまには診療所の仕事も忘れて、祭りの夜に心を躍らせるのも悪くないだろう? それじゃあ、私は次の村へ行くからね。二人とも、楽しんでおいで!」


 ウラカは二人の返事を待つこともなく片目をいたずらっぽく細めると、嵐のように去っていった。


 残されたのは、机の上に広げられた二対の異国の装束。

 コルネリアはその滑らかな木綿の布地に指先で触れ、感嘆の息を漏らした。


 王都の夜会で纏ってきた、何重もの下着と硬いコルセットで身体を締め付ける豪華なドレスとは全く異なる、簡素でありながらも機能美を備えた衣服。


 かつての彼女は、自身の不運体質によって周囲に事故を引き起こすことを恐れた両親から、人が多く集まる祭りや催し物への参加を一切禁じられていた。

 そのため、村の祭りに足を運ぶこと自体が彼女の人生において初めての経験となるのである。


「……着方が少々複雑なようですが、書物で見た知識があります。私が手伝いましょう」


 日が完全に沈み、診療所の中にランプの柔らかな灯りが揺れ始める頃。

 二人は不慣れな手つきで、その異国の装束に袖を通した。

 特に、帯を結ぶ工程には苦労したが、カエラムがコルネリアの背後に回り、彼女の腰に帯を巻きつけて形を整えていく。


 至近距離で触れ合う指先、そして帯を締める際に重なり合う吐息。

 普段の医療現場での接触とは異なる、どこか背徳的で――しかし、絶対的な甘やかさを孕んだ時間が、室内の熱を一層高めていった。


「……お待たせいたしました、カエラム先生」


 着替えを終えたコルネリアが、居住区画から姿を現した。

 いつものホワイトブロンドの髪を高くまとめ上げ、細く白い襟足を露わにしたその姿。


 水色の浴衣は彼女の肌の透き通るような美しさを際立たせ、ペリドットの瞳を夜の泉のように深く輝かせていた。

 カエラムは言葉を失い、丸メガネの奥の瞳を見開いたまま彼女の美しさに完全に息を止めた。


 自身もまた藍色の浴衣を纏ったことで、普段のくしゃくしゃの白衣姿からは想像もつかないような、大人の男性としての逞しさと色気が全身から立ち昇っている。

 コルネリアもまた、普段とは全く違う彼の姿に胸の奥を高鳴らせ、頬に微かな熱を宿した。


「……とても、よく似合っています。あなたがこれほどまでに美しいと、村の者たちに見せびらかすのが惜しくなってしまいますね」


 カエラムは冗談めかしてそう言いながらも、その声には隠しきれない独占欲が滲んでいた。

 彼は右腕を差し出し、コルネリアはその腕に自身の指をそっと絡ませて、静かな夜の森へと足を踏み出した。


 森の小道を抜け、無数の提灯の灯りが連なる村へと辿り着くと、そこは別世界のような凄まじい活気に満ち溢れていた。

 屋台から漂う肉を焼く香ばしい匂いや、甘い果実の香り。

 行き交う人々の熱気を含んだ笑い声。


 これほどまでに生命力に満ちた祭りの空気は、コルネリアの五感を強烈に刺激した。

 彼女は見るものすべてが珍しく、瞳をきらきらと輝かせて周囲を見渡している。


 ――しかし、祭りの中心部へ近づくにつれ、人混みはさらに密度を増していった。

 すれ違う村人と肩がぶつかりそうになった瞬間、カエラムの大きな手が彼女の細い指先をすくい上げるようにして、力強く握りしめた。


「はぐれないように。私の傍を、離れないでくださいね」


 周囲の喧騒を遮るように、耳元で低く囁かれる声。

 彼の手から伝わる高く規則正しい体温が、深い安心感で包み込んでいた。


 やがて、祭りの熱気が最高潮に達する時刻。

 二人は人混みを抜け、村の外れにある小高い丘の上へと辿り着いた。

 そこは村全体を見下ろすことができ、周囲には誰もいない、静かな草地だった。


 並んで草の上に腰を下ろした直後――。

 空気を切り裂くような鋭い風切音とともに、夜空に巨大な光の華が咲き誇った。


 鮮やかな紅色、目が眩むような黄金色、そして深い紫。

 一瞬の命を燃やし、夜空を彩って消えていく花火の群れ。

 大気を震わせる腹の底に響く轟音が、遅れて丘の上へと到達する。


 コルネリアは夜空を見上げ、その煌めきを目に焼き付けるようにして、深く息を吸い込んだ。


「……なんて、美しいのでしょう」


 次々と空を裂き、光の粒子を降らせる大輪の華。

 その閃光が、隣に立つカエラムの横顔を鮮やかに照らし出していた。


 しかし、カエラムは空を見上げるのではなく、ただ、花火の光を受けて宝石のように輝く彼女の横顔だけを、熱を帯びた瞳で見つめ続けていた。

 花火の連続する轟音が、周囲のすべての雑音をかき消していく。


 どれほどの時間が経過しただろうか。

 祭りの最後を飾る、最大の大輪が打ち上がった。


 夜空を完全に覆い尽くすほどの光の雨が降り注ぎ、一際強い閃光が周囲を昼間のように白く照らし出した――その刹那。

 大気を震わせる最大の轟音が周囲の音をすべて奪い去った中で、カエラムは彼女の肩を自らの方へと引き寄せた。

 驚いて振り返ったコルネリアの視線と、カエラムのアンバーの瞳が、吐息が混ざり合うほどの至近距離で交差する。


 光と轟音の渦中にありながら、二人の間には、世界から完全に切り離されたような、絶対的な静寂が落ちていた。

 カエラムの瞳の奥で揺らめく、圧倒的なまでの情愛。


 カエラムが彼女の後頭部にそっと手を添え、ゆっくりと顔を傾ける。

 コルネリアは逃げることなく、ふわりと長い睫毛を伏せ、その温もりを受け入れた。


 花火の閃光がゆっくりと夜空の果てへ溶けていくのと同時に、二人の唇が、静かに――そして、深く重なり合った。


 初めて触れ合う、互いの柔らかな熱。

 轟音の残響が耳の奥で遠のき、ただ、互いの高鳴る鼓動だけが、浴衣の薄い布地を越えて直接響き合っている。

 それは、どのような魔法よりも強力にコルネリアの意識を痺れさせ、自身の中心を、これまで知らなかった甘やかな熱で満たしていった。


 カエラムの大きな手が彼女の背中を包み込み、自身に刻み込むように、その腕の力をさらに強める。

 彼女という存在すべてを慈しむような、ひどく丁寧で、それでいて情熱的な口づけだった。


 やがて、夜空から光が完全に消え去り、周囲が再び静かな暗闇に包まれた頃――。

 名残惜しむように、ゆっくりと唇が離された。


 至近距離で見つめ合う二人。

 祭りの喧騒は遠ざかり、丘の上には夏の夜の草の匂いと、二人の乱れた呼吸だけが残されていた。


 カエラムは、自らの腕の中に収まるコルネリアを愛おしそうに見つめ、彼女の額に落ちた後れ毛を指先で優しく払った。

 そして、先ほどまで重なっていた彼女の潤んだ唇の端に、再びごく短い口づけを落とす。


「……ずっと、こうしたかったのです」


 夜の闇に溶けるような、低く甘い囁き。

 コルネリアは、熱を持った自身の頬を彼の手のひらにすり寄せるようにして預け、この上なく幸福な微笑みを返した。


 夜空には、花火の消え残った淡い煙が、星々の光に透かされて静かに流れていく。

 診療所という小さな場所から始まった二人の物語は、夏の夜の熱と、無言のうちに交わされた確かな契りによって、もはや後戻りすることのできない永遠という名の境界線を越えたのである。


 繋がれた手と手の温もりは、祭りの終わりを惜しむ夜風の中でも決して消えることなく、新しい季節を共に歩むための最も確かな道標となっていた。

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